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坂本龍馬の人生訓(後編)

2020年08月21日 | 歴史
(独創的人間関係をつくりだした龍馬の魅力)
坂本龍馬は、幾つかの偉業を成し遂げた人物だが、そのほとんどが、今流の言い方をするならば、無資本で行ったと言える。早く言えば、龍馬は、彼の偉業を、ほとんど他人の褌(ふんどし)で成し遂げたと言える。彼自身は、そういう偉業を成し遂げる組織とか資本力とか、必要資材とかをほとんど持っていなかった。

何故、それが出来たのか。
それはやはり、彼の独創的な人間関係主義による。独創的な人間関係主義というのは、
・人との出会いを重視する。
・従って出会う人を選ぶ。
・即ち、人間の一級品主義を貫いた。
・二流品、三流品、四流品の人間はほとんど黙殺した。

・社内よりも、社外の人脈の設定の妙手であった。しかも、それを日本的規模でネットワークを張った。
・しかし、決して人に執着せず、状況によって人を見限るタイミングの良さも持っていた。つまり、見捨てる、見限る非情の精神の実行者でもあった。
・先輩に優れた人物が多かった(勝・大久保・横井・西郷・桂等々)。

・龍馬は、他人が自分で気が付かない妙手妙案を引き出す能力に優れていた。つまり、龍馬は、他人から社会のためのアイデアを引き出す誘発剤的機能を持っていた。
・この事は、龍馬は話上手でもあったが、並行して聞き上手でもあった。人々は龍馬に、巧みに自分のアイデアを引き出された。
・龍馬は、他人のアイデアを増幅して、実現する機関的実践者であった。

しかし、何故、龍馬は、この事が可能であったのだろうか。それは、やはり龍馬自身の人間的魅力に帰着せざるを得ない。
龍馬の人間的魅力というのは、例えば、
・底にいつも市民精神が流れていたこと。
・歴史のうねりに乗ってはいるが、そのうね吟の上にあるさざ波を一向に気にしなかったこと。
・エネルギッシュであったこと。
・いつも女に好かれ、女を愛していたこと。
・自己変革を続け、脱皮に次ぐ脱皮を続けたこと。

・剛胆で、何時も生命がけであったこと。
・ヒューマニズムを貫き、自己愛よりも他人への愛を持ち続けたこと。
・巨大な未完成品の印象を与えたこと。
・倣慢のように見えるが、実は非常に謙虚であったこと。自己の限界を良く認識していたこと。
などであろう。こういう魅力が、龍馬という人間像を、当時の日本人から際立たせ、多面性を持たせ、それだけに多角的な立場からの支持者を多く糾合(きゅうごう)したという事が言えよう。

(女性を常に一個の人格として能力者として尊重)
いずれにしても、この時の龍馬はすでに二十七歳である。しかし、この頃の龍馬の思想は、まだ混沌としていて、カオス状態にある。思想が思想として確立し、行動の方法までともなうには、普通、気体から液体へ、液体から粘体へ、粘体から固体へというプロセスをたどる。その意味では、この時期における龍馬の思想が、一体、どのような状況であったのかわからない。

カオスといい、気体といい、いずれにせよ、その中に何らかのモチーフがあるはずである。が、まだ、この頃の龍馬にはそれが感じられない。無に等しい。しかし、彼の三十三年の生涯からすれば、すでに余すところ六年しかない時期である。人間が自分の死期を知っているとすれば、命の持ち時間は残り少ない。

そう考えてみると、龍馬が、ほんとうに龍馬らしく行動するのは、ほんの数年のことなのだ。改めてその時間の短さ、それだけに、その短い時間に、かれが実現した事業の偉大さを思い知らされる。

いずれにしても、龍馬の女性に対する態度を見ていると、その職業の貴賤を問うことはおろか、知能の程度や容貌の美醜その他に対して一切差別していないことがわかる。女性を常に一個の人格として、能力者として尊重している。自分の行為の一部をともにしてもらおうという気持ちがはっきり現れている。

彼が単なるフェミニストでなく、行動者として、同志として女性を認識していたことがよくわかる。そういう気持ちを持つことは、当時の社会にあっては、まれな事であったろう。それだからこそ、平井かを(坂本龍馬の幼なじみ)もあるいは千葉さな子(北辰一刀流桶町千葉道場主・千葉定吉の二女)も、あるいは後のおりょうも寺田屋お登勢もすべて龍馬に渾身の協力を惜しまなかったのである。それは龍馬の人間性から発した、女性尊重の精神にうたれたからだ。

(龍馬の語録といわれる『英将秘訣』の人生観)
坂本龍馬の人間性については、たとえば、『坂本龍馬と明治維新』を書いたマリアス・B・ジャンセンは、次のように書いている。
「波潤万丈のその生涯、陽気で自信に満ちた挙措(きょそ)(立ち居振る舞い)や手紙などは、国民が心中に求めていた維新の志士の映像と正にピッタリだった。その鋭い機知、実行力、地位や権威への無関心、金銭問題での鷹揚(おうよう)さ、危機に臨んで動ぜぬ沈着さ等を物語る数々の逸話は、同じく彼の智勇兼備の英傑たる役柄に似つかわしかった」

この龍馬観は、おそらく誰にも異論はあるまい。このように龍馬は、この世に生まれた人間としての魅力を、一人ですべて持っていた。龍馬はその言葉と行動のために、早くいえば佐幕派と討幕派の両方から命を狙われたが、よく考えてみると、龍馬自身、政敵を含めて、あらゆる人間を憎んだという形跡は全くない。

いかに命をつけ狙われても龍馬自身は、決して相手を憎んだりはしていないのである。これは龍馬の最大の魅力だ。むしろ、彼は自分の命を狙うような佐幕派の役人や新撰組や、見廻組の連中を、ニコニコと、その職務の忠実さを愛していたとさえ思える。立場が違えば当然なのさ、というような余裕さえ感じられる。

(一流の人物達が龍馬に自分の思いを完成してくれると期待した)
龍馬は、このように、三人の姉達の、何かに対するコンプレックス、あるいは挫折感を自分に託されることによって、一つの期待を受けていたといって良い。それは、前に書いた幕臣や、あるいはそれぞれの藩の有為な人材達が、一時期、何らかの理由によって、挫折したにもかかわらず、その挫折感を逆用して、風向きに作用するというような、あらゆる意図として龍馬自身が、それを受けとめたのではあるまいか。

そういう意味で、坂本龍馬は、この世の挫折者達の、しかも挫折しっぱなしでは、我慢の出来ない人々の、その胸に燃えていた不完全燃焼燃料の、火をつければ必ず燃える燃料を受けとめたといって良い。

このことは、一面、不幸なようであるが、実際には、龍馬にとっては、非常に幸福なことであった。何故ならば、挫折者達が、全て一流の人物であったからである。一流の人物達が、たとえ挫折したといえ、その不完全燃焼燃料については、私心がない。全て公心である。公のために、つまり社会のために、何かを成し得たいと思うからこそ、その胸の中で、挫折後も、燃料を何とかして火を付けたいとして足掻(あが)くのである。

そこにたまたま坂本龍馬が現れたのであった。幕臣といわず、外様藩の家臣といわず、大名といわず、あるいは肉親といわず、あるいは彼を取り巻く知己といわず、龍馬に語りかけた人々、あるいは交流を深めた人々の全ては、自分の胸の中に潜んでいる、あるいは燃えている、そういうこの世のため社会のために、何かをしなければいけないという義務感に燃えている、ある構想や、ヒントや、あるいは未完成の考えを全て龍馬に託すことによって、己れのエクスタシー、つまり自己燃焼を期待したのである。

そういう人達が何故、龍馬を選んだのかは一概に言うことは出来ないが、あるいは龍馬の持つ人間的魅力だけでなく、
「この男なら、必ず自分に代わって、自分の思いを完成してくれる」
という直感が働いたのに違いない。

*(作家・童門冬二『歴史小説より』抜粋)

---owari---
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