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坂本龍馬の人間術:仕事に生かす(前編)

2020年08月22日 | 歴史
坂本龍馬における“人間術(人間関係)”の特色は、「相手が持っている、他人を幸せにする力を発見し合う」ということだった。

人間関係は、1対1、あるいは1対複数、さらには個人対組織の関係になることもある。
もちろんどんなに人間の輪が広がろうともその土台になるものはあくまでも人間対人間の関係である。

龍馬はその生涯を通して、「敵の中に味方つくる」ことに専念した。
直接的な自分の敵を味方にしたのではない。
薩長連合しかり、大政奉還、つまり国家的規模で対立する徳川将軍家と京都朝廷とを仲介したことになる。

彼のこういう行為の核になったのは、すべて“人間関係”であった。
そんな龍馬の「敵の中にも味方をつくる」人間関係術を紐解いてみる。

(坂本龍馬はリーダーの条件をあまり苦労をしないで持ち続けた)
坂本龍馬は、人間的魅力に溢れていて、逆に、リーダーの持つべき要件の五条件が、その魅力下に自然に生まれて、彼自身、あまり苦労をしないで持ち続けることができたといっていいだろう。

龍馬の魅力の淵源(えんげん)をたずねると、彼が常に「無私」の生き方を続けたところにあると思う。
太宰治流にいえば、
 「彼は、何よりも人を喜ばせるのが好きであった」
ということになる。これは、半分は天性のもので、意識的に生もうと思っても、なかなか生めない。というのは、やはり、性来的に、
 「他人を愛する心」
がなければ、持てないからである。龍馬は、生まれた時から、
 「他人を愛する人間」であった。

(龍馬の辿っていった人間的成長は「発想の転換」「異種間交流」)
檜垣清治は、その後、三度坂本龍馬に会った。三度目も訊いた。
 「今、我々にとって一番大切なものは何だ?」
龍馬は答えた。
 「これだ」
といって、懐から一冊の本を出した。本は、『万国公法』だった。国際法である。最初は刀だといい、次はピストルだといった龍馬が、今度は武器を捨てて、国際法を示したのである。これは、
「国際化時代の今、国際間の紛争はすべて万国公法によって解決しなければならない」
という意味である。この意味は、「国際間の紛争は、戦争によって解決してはならない。血を流し合うことなく、同じテーブルに着いて、話し合うことが必要だ。あくまでも、平和裡に事を解決すべきだ。それには、ルールがいるし、またそのルールを文章にしたものがある。それがすなわち国際法だ」

ということである。龍馬は、大きく飛躍していた。単なる土佐の剣術使いから、日本人としての自覚を持ったピストルの時代を経て、今度は地球的規模でものを考える国際人に成長していたのである。しかも、国際的紛争の解決を、万国公法に求めるというのは、現在の国連のはしりのようなもので、その先を見通す目は鋭い。が、誤解する人間もいる。

そして、ここに問題がある。それは、龍馬の辿っていった人間的成長は、現在よくいわれる、「発想の転換」であり、また、「異種間交流」によっている。つまり「自己変革」だ。が、当時の日本人の誰もが、龍馬のように次々と自己変革を遂げられたかどうかということは、疑問だ。いや、逆に、そこまで自分を変えられなかった人間のほうが多かったのではなかろうか。特に、攘夷論者はそうだ。

(桶町千葉の道場での重太郎と2人と佐那の人間関係)
北辰一刀流桶町千葉の道場では、龍馬の人間関係に、大きな役割を果たした人物が二人いる。一人は、定吉の子重太郎であり、もう一人は定吉の娘佐那だ。重太郎とは、しばらくの間その当時の青年らしい「攘夷論者」として、仲間になる。一説には、千葉重太郎は開明論者であって、とっくに過激な考えは捨てていたともいわれる。これが、実をいえば、坂本龍馬の生涯において大きな意味を持つ勝海舟との出会いの性格を二分する。

つまり、普通には、坂本龍馬が勝海舟を訪ねたのは、「開国論者である勝海舟を、壊夷論者である坂本龍馬が、同志の千葉重太郎と一緒に暗殺しに行った」といわれている。しかし、近頃の新しい説では、「そうではなくて、千葉重太郎は開明論者であり、すでに勝海舟を知っていた。だから、頑迷な坂本龍馬を洗脳するために、勝のところに連れて行ったのだ」という。

こうなると、龍馬が勝に会った理由は、全く正反対になってしまう。片方は、勝を斬りに行ったのであり、もう一方は、勝に教えを請いに行ったことになる。一体、どっちが正しいのだろう。そのことは、もう少し後で考証することにして、桶町千葉道場で会った重要な人物は、佐那だ。

佐那は、後年甲府に移る。ここで、知人の世話で、針灸師のようなことをやっていたらしい。生涯独身で、淋しく死ぬ。墓は甲府市内の寺にある。墓石には「坂本龍馬室」と書かれている。つまり、「坂本龍馬の妻」という意味だ。

佐那は、北辰一刀流の剣術を学び、特に小太刀に優れ、十代の頃に免許皆伝の腕前に達した。また、美貌で知られ、「千葉の鬼小町」「小千葉小町」と呼ばれたという。
父・定吉は結婚のために坂本家の紋付を仕立てたが、龍馬の帰国後は疎遠になった。後に龍馬の死を知らされると佐那は、この片袖を形見とした。
維新後は学習院女子部に舎監として奉職した後、家伝の灸(きゅう)を生業として過ごしたとされる。

(龍馬は脱藩して開明派の人々と接触し影響を受ける)
この暗殺直前、坂本龍馬は土佐から脱藩した。沢村惣之丞と共にである。沢村は、後に関雄之助と名を変える。この脱藩の時、龍馬は姉の栄から、家伝の宝刀肥前忠広を貰った。そして、栄はこれが原因で後に自殺する。姉は、命懸けで龍馬の脱藩を助けたのである。

土佐を抜け出した龍馬は、最初に馬関(下関)の豪商白石正一郎を訪ねた。このへんは、長州側で段取りをつけてくれていたのだろう。やがて、彼は、一人で九州各地をまわった。しかし、薩摩には入れてもらえなかった。諦めて大坂に行き、やがて江戸に出た。そして、永年剣術の修行をした桶町千葉の道場に入った。

この頃から、龍馬は積極的に、開明派といわれている人々と接触するようになる。彼がめざしたのは、勝海舟や横井小楠である。このへんは、明らかに、土佐の先輩である河田小龍の教えが彼の胸に蘇っている。勝海舟への紹介状を貰うために、彼は松平春嶽を訪ねた。そして、春嶽から、勝海舟と横井小楠への紹介状を貰っている。春嶽という大名も面白い。ただの浪人である龍馬を引見して、その望みを叶えてやったのだ。

こうして、龍馬は千葉定吉の息子重太郎と共に、勝海舟を訪ねた。そして、世界の情勢について、目を開かれるような教えを受ける。龍馬はたちまち、勝海舟の門人になる。

こうなると龍馬の胸の中に育っていた思想が、前に書いたように、もやもやとカオス状であったものの中から、巨大な雲が一本はっきり形をなしたといっていいだろう。つまり、彼の考えは、共和路線に傾きはじめていたのである。というのは、その後吹きまくる暗殺の嵐に、彼は嫌気を覚えるからだ。人が人を殺すということにおぞましいものを感じた。これもまた、龍馬のすぐれた資質のひとつだ。

(龍馬は小楠に対して一種の敬遠策を講じた)
龍馬が訪ねたのは、当時の政治情況を小楠に報告するためである。この時、小楠は、
 「俺の出場はないかね」
というようなことを、龍馬にきいたらしい。龍馬は、ヘラヘラ笑って、
「いや、先生は、どうか二階で芸者と酒でも飲んで見ていてください。舞台のほうは、我々でやりますから」と応じた。

龍馬も、また小楠という人物をよく見ていた。小楠は、言論の人ではあるが、実行の人ではない。坂本龍馬の言い方は、小楠をいたわっている。早くいえば、小樽に、「先生は、引っ込んでいてください」ということだろう。二階にあがっていて、酒でも飲んでいなさいというのは、半ばお世辞が入っている。本当は、龍馬にすれば、二階にあげて梯子をはずしてしまいたかったのかもしれない。一種の敬遠策として、そういうことをいっているのだ。

この龍馬の言葉を小楠がどういうふうに受け止めたかわからない。その意味では、この「和魂洋才」論者の横井小楠も、龍馬たちのような実践家にとっては、やはり、時に邪魔になる存在であったのかもしれない。物事を為し遂げていく過程では、必ずしも好ましい存在ではなく、特に"リストラクチャリング"の進行過程では、その邪魔をすることもあるのだ。だから、
 「行いは、我々に任せてください」
といいたかったのだろう。

横井小楠も、現在の組織に即していえば「不適応者」であり、「トラブルメーカー」のひとりであった。そして、その意味では、佐久間象山も完全にトラブルメーカーであった。

*(作家・童門冬二『歴史小説より』抜粋)

---owari---
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