③今回は「作家・津本陽さん」によるシリーズで、豊臣秀吉についてお伝えします。
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秀吉が信長の愛妾(あいしょう)、吉野に気にいられたのは、彼女の機嫌をとりむすぶのが巧みであったからだ。生駒屋敷の浪人たちは、秀吉の才覚におどろかされて、噂をする。
「秀吉の口巧者め。吉野さまの御前に出でしときもはばかりなく、人のロにいたしかねたる色話をば、いささかも恥と思わず、ぬけぬけ語りおって、それでお気にいられるとは、まさしく鬼子だわ」
秀吉は信長の面前でもはばからず、剽(ひょう)げ話(おどける話)を、しぐさもおもしろく語る。信長は考えごとにうち沈んでいるときでも、秀吉の話を聞くうち、愉快げに笑い出すのが常であった。剽軽(ひょうきん)な話しぶりや所作をするので、信長が機嫌を悪くするのではないか、と生駒屋敷の者たちの申には心配する人もいた。そのうえ、信長に武者奉公まで願い出たため、八右衛門がたまりかねて、
「おまえのような小者は力もなく刀も満足に使えないだわ。心得違えもはなはだしや」
と諭したが、
「御大将の馬のロ取りなりとも御用くだされ」
と吉野にも頼む始末であった。
そして、とうとう彼女のロききで試験を受けることになった。その試験とは、使い走りであったが、如才なくこなしたので、弘治三年(一五五七)、清洲城の信長に仕えるようになった。最初は、仲間、小者といった低い身分の仕事をやらされた。信長の草履取り、乗馬の手入れなどをまかされたにすぎない。
かつて、松下加兵衛に仕え、小納戸役にまでなった前歴は、まったく無視された。並みの男ならば、それにこだわって、新規の仕事に気乗りがしないので、ゆるゆると仕事をしたり、サボリがちになるのだが、秀吉は天下一の草履取りになることを志して、こまごまと気を使って主君に仕えた。
『絵本太閤記』によると、冬の寒い朝、信長の草履をふところに入れて温めていた、と伝えられ、その心遣いが気に入られた。信長の信頼を得た秀吉は、鼠(ねずみ)に似ていたので、鼠のあだ名をつけられた。後年のことだが、信長が秀吉の正妻となったおねにあたえた手紙に、
「いずがたをたずね候とも、それさまはどのは、また、ふたたび、かの、はげねずみ、あいもとめがたきあいだ」
と書かれており、〝はげねずみ“と、よばれていたことがわかる。気がきく秀吉を信頼するようになった信長は、なにかにつけて、〝はげねずみ″を連発して、下ばたらきをさせた。おねに手紙をくれる信長に対して、秀吉が心から忠誠をはげみ、仕えたことが想像される。
日吉丸とよばれていたころから、「小猿、小猿」と、よばれて、バカにされたが、信長に仕えると、「猿、猿」と、よばれて、重宝がられた。鼠や猿は機敏に行動するので、その素早い行動力が買われていたからである。数年のあいだに、お小人頭(小者頑)に取り立てられ、信長の股肱(ここう:一番頼みとする部下)として力を発揮するようになる。
(小説『秀吉私記』作家・津本陽より抜粋)
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