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史上最強の大関・雷電(らいでん)はなぜ横綱になれなかったのか?

2016年08月16日 | 歴史

大相撲史における最大の謎のひとつに史上最強力士といわれる大関・雷電がなぜ横綱になれなかったのか、ということがあります。

その謎に迫る前に、雷電がどれほど強かったのか、勝率でお示ししましょう。

 

土俵生活21年間で、254勝10敗、何と勝率96.2%は歴代第1位です。

大相撲史の勝率の歴代ランキングは次の通りです。

第1位・・・雷電(大関) 96.2%

第2位・・・谷風(横綱) 94.9%

第3位・・・白鵬(横綱) 88.8% (平成28年7月場所終了時点)

第4位・・・双葉山(横綱) 88.2%

第5位・・・大鵬(横綱) 85.8%

 

相撲の神様と言われ、横綱として理想像とされる双葉山ですら、歴代4位なのです。

雷電は江戸時代後期の力士で、当時は年2場所制、1場所10日間の興行のため、現在の年6場所制、1場所15日間興行に比べれば、取り組み数はかなり少なかったのです。

 

このため、雷電の勝敗数を現在の興行規模で換算すれば、場所数で3倍、興行数で1.5倍となる。

雷電の通算勝敗数254勝10敗は、現在の興行数で言えば、仮想であるが1143勝45敗となる。

その強さがよくお分かりになると思います。

 

名横綱と呼ばれている方々の通算勝敗数は以下の通りです。

白鵬・・・709勝89敗(平成28年7月場所終了時点)

北の湖・・・670勝156敗

千代の富士・・・625勝112敗

大鵬・・・622勝103敗

 

雷電はなぜ力士になったのでしょうか?また、どのような体格だったのでしょうか?

雷電は1767年に信濃国小諸郡大石村(現・長野県東御市) の豪農の家に生まれた。

少年期からその巨体と怪力で知られた雷電は、15歳の時に大名行列の前に立ち往生した荷馬を担ぎ上げて行列を通したそうです。

 

18歳の時に地元へ巡業に来ていた江戸相撲の浦風林右衛門の門弟となって江戸へ上り、当時の第一人者である西大関の谷風の内弟子として初土俵までの6年間を過ごすことになったのです。その間、出雲国松江藩松平家のお抱え力士となり、藩ゆかりの四股名「雷電」をもらって「雷電為右衛門」を名乗ったのでした。

 

23歳の時、関脇付け出しで初土俵を踏み、8勝2預でいきなり優勝を果たすのです。

預り(あずかり)とは、引き分けの一種で勝負結果を行司もしくは審判員が「預かり置く」ことで、物言いのついたきわどい相撲などで、あえて勝敗を決めない場合などに適用されました。

したがって、実質は初土俵を8勝無敗で優勝したのです。

 

29歳で大関に昇進し、1811年に45歳で引退するまでの16年間27場所、大関を務めました。

ここで、知って頂きたいことですが、当時の番付の最高位は「大関」なのです。「横綱」という称号は当時、谷風と小野川に授与されていましたが、恒久的制度として成立しておらず、上覧相撲における演出の一つとして1回限りのものとして構想されたために、あくまでも番付最高位は「大関」だったのです。

 

それでは、雷電の体格はどのようなものだったのでしょうか。

雷電は身長が6尺5寸(197cm)、体重が45貫(168.7kg)という大男でした。

近年の力士で例えるならば、元大関の把瑠都(バルト:現タレント兼格闘家)とほぼ同サイズとなります。

 

大鵬や貴乃花の現役時代の体重150kg前後と比較しても大きく、現代より日本人の体格が小さかった江戸時代ということを考えると、雷電の巨漢ぶりは群を抜いていたと言えるのではないでしょうか。現存する雷電の手形は長さ23.3cm、幅13cmです。

 

では、これほどの巨漢で強かった雷電が横綱になれなかったのはなぜか?

大相撲史の謎として、多くの方々が色んな説を出されていますが、どれも決め手を欠いています。

 

その主な諸説をご紹介します。

①「横綱免許の推薦を辞退したとする説(しかし、推薦の根拠資料はない)」

②「共に免許を受けるべき実力的に釣り合う相手がいなかったためとする説(当時は谷風・小野川が横綱のペアーとなっていたが、雷電にはペアーになるべき力士がいなかった。その後30年を経て、横綱は単独でも免許を受けることが可能となったが、免許を受ける根拠となる資料がない)」

 

③「上覧相撲の機会を得なかったためとする説(雷電は上覧相撲に出場している。かつ上覧相撲が免許の条件とする根拠は欠ける)」

④「雷電の抱え主・雲州松平家(出雲)と吉田司家(相撲取締り)の主家・熊本細川家の対抗意識によるものとする説(実証的根拠はなし)」

⑤「土俵上で対戦相手を殺してしまったためとする説(単なる講談のネタであり、事実ではない)」

 

さて、諸説あるなかで、相撲の歴史に詳しい歴史学者の新田 一郎氏の意見が最も根拠があると私は推察しています。

新田氏は、横綱制度確立以前の雷電に横綱免許がないのはむしろ当然であり、雷電は「横綱以前」の強豪力士として位置付けている。

 

免許権を持っていた吉田司家、さらに1950年以降免許権を譲られた日本相撲協会ともに、今日に至るまで雷電を横綱として追認するなどの措置はないが、1900年(明治33年)に12代横綱・陣幕久五郎が富岡八幡宮境内に建立した横綱力士碑に雷電は、「無類力士(他に比べるものがないほどに優れている力士)」として顕彰されており、横綱と同列に扱われているのです。

 

したがって、「雷電はなぜ横綱になれなかったのか?」という問い掛けが少々愚問であり、現在の大相撲の制度から見ていては答えが求まらないのです。

 

なぜ、大関が最高位だったのかと言うと、三役力士の意味は「本来は大関、関脇、小結の地位にある力士」を表し、横綱は三役力士に入っていません。

 

番付けは、三役である大関、関脇、小結は東西にそれぞれ少なくとも一人ずつ必要ですが、横綱はいなくてもよいことになっています。また、横綱の人数にも制限はないのです。このように大関が番付けの最高位であるという名残が現在でも生きているのです。

 

したがって、「大関・雷電は横綱にふさわしい力士」であったと言っても過言ではないと思います。

 

---owari---

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