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「新しい日本人」の戦いを描いている『シン・ゴジラ」

2019年04月04日 | 日本
第一作から62年、平成28年夏に日本に襲来(しゅうらい)したゴジラは、国内シリーズとしては初めて、第一作を踏まえない作品で、日本人にとってリアルな東日本大震災の記憶や核の脅威などを想起させる新しいメッセージを携えていた。それは「国難に対処する日本人の姿」である。

もちろん、第一作でもゴジラと戦う日本人は描かれていた。自衛隊も登場する。だが、そこに現実政治のリアリティはなかった。独立回復間もない時代で、日本はまだ完全にアメリカの保護下にあり、あくまで架空の物語として「反核」のメッセージを構築していた。

ところが「シン・ゴジラ」は、「ニッポン対ゴジラ」というキャッチ・コピーにあったように、ゴジラの襲来という想定外の危機、国家の存亡に関わる事態に直面した日本政府が、現在の法体系のもとでいかに対応していくかが克明に描かれた。

東京湾アクアトンネルが突然崩落し、首相官邸での緊急会議で、原因を地震や海底火山とする学者たちの声が大勢を占めるなか、矢口蘭堂内閣官房副長官が巨大生物の可能性に言及する。そして海上に出現した巨大生物はゴジラだった。外国による軍事攻撃でも、地震でもないゴジラによって東京が破壊されていく。

官邸に緊急災害対策本部が設置される。住民に避難指示が出され、東京都知事から治安出動や有害鳥獣駆除が要請される。初の防衛出動が下命される。無制限の武器使用が許可される・・・・・。

映画が描いた展開はリアルに感じるが、東日本大震災において民主党内閣は安全保障会議すら開催しなかった。『シン・ゴジラ』は明らかにそれを踏まえて、教訓を汲(く)んだ「新しい日本人」の戦いを描いている。

監督の樋口真嗣(しんじ)氏は、「3.11は今の日本を構成する大きな要素の一つ。国難のとき、住民を守り、支えてくれる人々に興味があった。真面目に仕事に取り組む人々を、真面目に描きたかった」と語っている。

だからだろう、登場する政治家や官僚、自衛官らは揶揄(やゆ)されることもなく、事態に翻弄(ほんろう)されながらも懸命にゴジラに立ち向かっていく。

現実の国際政治も取り入れ、日本が独力でゴジラの脅威(きょうい)を封じ込められないのなら、殲滅(せんめつ)のために核兵器を使用するという動きも描かれる。

それを主導する米国に対して日本政府の高官が不快感を示しながら、「属国」だから仕方ないと半ば諦める場面もある。

だが、「新しい日本人」による日本政府は諦めない。ゴジラという暴走する核エネルギーの怪物を破壊するのではなく、独自に“凍結”してみせる。核攻撃の時計の針は、そこで停止する。ここに現れた作者(庵野秀明氏)のメッセージは重層的である。

一つは、日本には力があるということ。そして核エネルギーは人類を破滅させる脅威かもしれないが、あるいは福音(ふくいん)かもしれない。だから破壊ではなく凍結する。ゴジラを凍結しているかぎり、核攻撃のオペレーションは発動されない。また理由はどうであれ、我々は二度と自国に原爆を落とさせはしない。絶対に防ぐ。事態のカギは日本が握っている――という日本人の強い意志が示されている。

さらにゴジラを凍結させたことは、日本はまたそれをいつでも解除できるということでもある。これはおそらく作者も意識していないだろうが、日本は理不尽な暴力には報復の手段を持っている。ただ使用を留保しているだけだという暗喩(あんゆ)ではないかと私は思っている。

庵野氏の出世作『新世紀エバンゲリオン』で、エヴァが身につけているのがプロテクター(防具)ではなく、自らの力を制する拘束具(こうそくぐ)だったことからも連想できる。

自然の脅威であれ、軍事的な脅威であれ、ゴジラが体現したものはいろいろある。一人ひとりの人間は小さな弱い存在だが、ただ弱いだけではない。共同体をつくり、力を結集して、それに立ち向かっていく知恵と術(すべ)を持っている。この映画では自衛隊の存在がそれを表している。

「自衛隊は、この国を守ることができる最後の砦(とりで)」という台詞(せりふ)が出てくる。東日本大震災や熊本地震を思い返し、この台詞を万感の思いで受け止めた観客は少なくないと思う。そして、それが「新しい日本人」である。

---owari---
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