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マンガに見る日本精神の底力

2017年11月15日 | 日本

日本のアニメをアメリカに売り込んでいる日本人が、「売り込んで最初のうちは大変苦労した。というのは、主人公がどんどん年をとって成長するアニメは、アメリカ人にはよくわからない」と言ったのだ。

 

そう言われて気がつくと、アメリカの例えばスーパーマンは年をとらない。戦う相手は毎回違うけれども、スーパーマンは同じである。あるいはスヌーピーも、一緒に出てくる子供も、全然年をとらない。

 

日本では両方ある。例えば、『サザエさん』はいつまでたっても同じ。『ちびまる子ちゃん』も『じゃりん子チエ』も全く同じ。しかし、その一方で、主人公が年をとって成長していくマンガも多い。そういう人間成長ストーリーマンガは日本の発明らしいのである。

 

つい最近まで、主人公が成長するということは、アメリカでは売れない理由だった。では、これらがなぜ外国人には珍しいのか。なぜ日本人には当たり前なのか。これは精神構造の根本から議論をしないといけないと思うので、そこに話を進めてみよう。

 

すると、聖徳太子から・・・・・という話になる。

 

聖徳太子から、というのは分かりやすい区切りとして言っているが、西暦604年に十七条憲法ができてから1400年を経過している。すなわちその前に日本は軍事的にはだいたい統一していて、そのうえ精神的・文化的にも中国と距離を置いて独立しようという気運があった。それが十七条憲法の制定になっている。

 

日本のスタートをどこまでさかのぼるかは様々な論点があるとしても、日本精神の自覚をスタートとすれば、それには1400年の歴史がある。我々にとってはもう常識的なことで改まって意識していないが、しかし、外国人にはびっくりする話である。

 

欧米人は日本人には理性がないと思っている。キリスト教では神が人間をつくり、人間に理性を与えたと教えるから、異教徒には理性がないのである。日本の神話では天照大神の前から人間は存在しているし、神から理性を授かったとはどこにも書かれていない。

 

人間は初めから理性的存在で、そんなことはいちいち言うまでもないというのが日本精神の基底にある。で、日本人のほうも欧米人の人間観は変わっていると思っている。それが日本のマンガ・アニメにどう表れているかという知的冒険をしてみよう。

 

ヨーロッパの美術館や教会めぐりをすると、マリア様がキリストを抱いている「母子像」がいたるところにある。そのキリストは、時代による変遷はあるが、大人か、または大人っぽい顔をしている。

 

かわいい赤ん坊の顔ではなく、すっかりませたお顔をしている。時にはヒゲが生えている。向こうの牧師に、「赤ん坊がどうしてこんな顔をしているのですか?」と聞いたら、「キリスト様は初めから偉いのだ。赤ん坊にときから偉かった」と言ったので、ああ、偉い人間の姿とは中年の男性なのかと思ったことがある。

 

なるほど聖書にそう書いてある。旧約聖書の一番最初のところに、「神はおのれの姿に似せて人間をつくりたもうた」とある。この場合、人間というのはアダムとイブのアダムのほうしかないから(イブは肋骨を一本とって、二番目につくられる)、アダムの赤ん坊時代というのはないわけで、生まれたときから成年男性である。だから、三十歳前後の男の顔が神様に一番近い顔をしているのだと、それが無意識の刷り込みになっているらしい。

 

牧師にとってもそのほうが都合が良い。そこで、マリア様に抱かれているキリストも、そういう顔をしている。教会が長らく女性を牧師にしなかったのはそのためだろう(日本は男尊女卑だという欧米人には、この話をするとよい)。

 

そうすると、年をとってヨボヨボしていくのは、神様の姿から遠ざかることになる。ヨーロッパ人は無意識にそう考えている。そして、少年少女時代は未発達、幼稚、未完成、人間以前、動物。

 

そういう考えがすべてに反映してくるわけで、例えば、子供というのはビシビシしつけをするもので、知的でないのは動物だから、子供には論理力、文章力、分析力を早く身につけさせて動物から脱却させなければいけない。こういう気持ちで教育をしている。

 

子供にはさぞやストレスがたまっているだろうと思う(笑)。だから、日本のマンガが入ってきたとき、向こうの子供はホッとしたことだろう。子供が未完成な存在ではなく、子供ではあるけれども一人の人間として扱われている。

 

それは「成長の途中」かもしれないが、「未完成」ということとは違う。仏教の教えでは、人生には完成もない、未完成もない。生々流転していくもので、現世では「無常」が根本原理だとなっているが、それが作者にも読者にも浸透している。

 

むしろ、子供は人間の原点で、世俗にまみれた大人より、仏や神に近いと思われているとは欧米の逆である。

それが日本マンガの特徴で、そういう子供マンガがある。向こうにはない。

 

もう一つ付け加えると、中国の道教での理想は不老長寿で、その先は仙人になることである。そこで老人の姿は尊ばれる。『徒然草』にもあるが、白髪の老人は“あなとうとうの気色や”である。

そしてさらに呆けてくると、仙人に近くなったと周りの人は喜んで祝う。

 

こんなに欧米と日本と中国では人間観が違っている。それが絵画やマンガには現われるのである。

 

---owari---

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