成長マンガ、ストーリーマンガとは何か。
向こうの人が考える人生ストーリーの終点は何か。
キリスト教信者であれば、「最後の審判」と言わなければいけない。ある日、雲の上で高らかにラッパが鳴って、天使が降りてきて、神様が降りてきて、死んだ人も生きている人も人間を全部集めて、神様が「おまえは天国へ行け、おまえは地獄へ行け」と、全部振り分けてくださることになっている。
このごろは信じない人が多いだろうが、そういう前提から始まった社会の習慣や思想様式は根強くヨーロッパ中にある。当然アメリカにも普及している。
だから、歴史には終わりがある。神様がケリをつけてくれる。そのときはすべてが明かになる。
それゆえ、成長ストーリーはあっても、最後の審判まで行かない。つまりどこかで止まってしまう。
ところが、日本はそうではない。
仏教が入っている、儒教が入っている、道教が入っている、日本神道というのもある。それらを全部まぜて、各自勝手に自分の人生観、あるいは自分の社会観、自分の男女観、なんでも自由につくって暮らしている。それでも良いことになっている。
つまりこの国は、思想統制がないのである。最後の審判への遠慮も恐れもない。それから期待もない。
その結果、日本人は各自勝手に成長マンガを描いてしまう。人生ストーリーを描いてしまう。いちいち神様に気兼ねしないで、作者が決めてしまう。または周囲の人が決めてしまう。大変自由である。
アメリカ人は移民だから、サクセスストーリーが好きで、何でも勝利でハッピーエンドにする。ハッピーエンドのハッピーとは何かというと、金持ちになることだが、それではあまりにも潤いがないから、とりあえず若い男女が結婚するというのがハリウッド映画の常套だった。
そこが乱れて30年前から映画がまるで変ってしまった。家族主義に変わった。離婚だらけになって、これではアメリカはおかしいと思い始めてから、映画の主人公は中年男性になった。30年ぐらい前から、活躍するヒーローはみんな中年の男性。
一生懸命戦っている理由は、奥さんの危険を救うため。奥さんと抱き合って終わりというハッピーエンドがこの30年、アメリカで流行した。
さて、それらを比較してみると、彼らが予定している「終わり」には一定のイメージがあることがわかる。一方、日本では、何も予定しないでストーリーマンガをつくってしまう。
最後はどうなってもいい。何やら哲学的なオチをちょっとつければいい(笑)。途中ずっと面白ければ、最後は何でもいい。
日本人はそういうつくり方をする。お客もそれでいいと思って読んでいるので、日本のストーリーマンガは実に自由である。話がどこへ飛んでもいい。最後は「人生とははかないものだ」とか何とか適当に言えばいい(笑)。はっきり終わらなくていい。
エンディングは仏教が出てきてもいいし、儒教が出てきてもいい。何が出てきても、お客は素養があるから適当に受けとってくれるのである。終わりは何であれ、途中が良ければいいじゃないか、と、日本はストーリーマンガづくりが自由にできる国。
結論ではない、途中が大事。これは仏教の考え方で、その影響だと思う。
---owari---
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