今日は「国際派日本人養成講座」(編集長・伊勢雅臣さん)からお伝えします。
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("Yamagata"ってどこ?)
山形県と宮城県の県境にある銀山温泉は江戸時代からの湯治場として長い歴史を持つ。狭い銀山川を挟んで両側に3、4階建ての大正初期の木造旅館が立ち並ぶ光景は、情緒たっぷり。
NHKの連続ドラマ「おしん」の舞台ともなった。
その老舗温泉旅館の一つで350年もの歴史を持つ藤屋に、アメリカ人女性が嫁入りした事からドラマが始まる。
女性の名前はジニーさん。1988年夏、オレゴン州の大学卒業を前にしてJETプログラムに応募して来日した。JETとは"The Japan Exchange and Teaching"プログラムの略で、外国青年が日本の地方公共団体に招かれて、中学や高校での英語教育の助手を務める、という制度である。
赴任地は、「京都、奈良」を希望したのだが、JETプログラムから来た回答は"Yamagata"だった。アメリカ人には聞いたこともない地名で、図書館の地図でようやく探り当てたが、「田んぼの多い田舎」という程度の情報しかなくて、少なからずショックを受けた。
山形の冬は長く、厳しい寒さは大変だったが、1泊2日のスキー研修で出会った藤屋旅館の若旦那・敦(あつし)さんと交際が始まり翌年夏に婚約に至った。
(「若葉マーク付き」若女将)
ジニーさんの両親や友人は、日本でうまくやっていけるのか、と不安を抱いたが、敦さんの両親も「アメリカ人女性に350年も続いている老舗旅館の女将が務まるのだろうか」と心配した。反対の意見が出ると、敦さんは「じゃあ、アメリカに行ってジニーと生活する」と言ったので、周囲は仕方なく賛成した。
平成3年、厳冬の12月、ジニーさんは25歳にして藤屋に嫁ぎ、「若葉マーク付き」若女将としての生活を始めた。藤屋旅館は客室が12室あって、一晩で多いときは60人ほどのお客さんが泊まる。姑(しゅうとめ)は料理も掃除も布団の上げ下げまで、ほとんどすべてを一人でこなしていた。
ジニーさんは裏方の仕事から徹底的に仕込まれた。調理場での盛りつけ、皿洗い、客室やお風呂、トイレの掃除、布団の上げ下げなどである。食器の形も色もバラバラなのを見て、この旅館は貧しいからセットで食器を揃えることが出来ないのだと思いこんでいた。和食は目でも味わうので、器も大事な役割を果たすと知ったのは、後のことである。
朝は5時半に起き、6時前には姑の朝食づくりを手伝う。客が大広間で朝食をとっている間に、二人で各部屋の布団をたたんで、押し入れにしまう。朝食後は食器洗い。午前中にお客さんを送り出すと、客室や廊下、トイレの掃除。昼食をとって3時頃まで一休みした後は夕食の準備と、到着するお客さんのチェックイン。夕食の膳を各部屋に運び、頃合いを見てお膳を下げて、布団を敷く。再び、調理場で食器洗いと、翌日の朝食の仕込み。終わるのは10時頃で、ようやく夕食となるが、その頃にはくたくたのヘトヘトだった。
(苦闘と失敗の数々)
姑からはいろいろ教わった。重たいものを両手で抱えてドアを足で開けたら「足さ、みっだぐない(足ではみっともない)」と注意された。寒さの厳しい時期には、姑は心配して「寒いがら、冬の間はモンペはいだほうがいいよ」と気遣ってくれた。
5ヶ月ほどするとフロントの手伝いや客の部屋への案内など表方の仕事を始め、敦さんの勧めで着物を着るようになった。着付けは姑に教えてもらったが、これまた窮屈で、身体が悲鳴をあげた。正座も慣れないので、すぐしびれてしまった。
客室の前で「失礼します」とドアを開けるときも、音がしないようにするのに、だいぶ練習が必要だった。しかし、当初は「失礼します」という言葉は「部屋に入ります」という意味だと勘違いしていた。それで「失礼します」と言いながら、いきなり部屋のドアを開けたら、若いカップルが取り込み中だったりした。「失礼します」と言って、お客の返事を聞いてから、部屋に入るものだと知ったのはだいぶ後の事だった。
日本語も難しかった。駐車場でお客から「ゴミ箱を探しているんですが?」と聞かれて、「私がゴミを投げますから」と答えた。山形弁では「捨てる」ことを「投げる」と言う。お客さんは困った顔をして「いいですよ。家で捨てますから」と行ってしまった。このガイジンさんはゴミを銀山川にでも投げ捨てるのか、と心配になったのだろう。
(不満爆発)
老舗旅館の若女将がアメリカ人、というニュースが、新聞やテレビで報道されると、物珍しさも手伝って、客数が急激に伸びた。ところが藤屋はパートの仲居さんが1、2人いるだけで、あとは姑とジニーさんで数十人のお客さんのおもてなしをする。休日はなくなり、早朝から深夜まで息つく暇なく働きづめだった。
しかし、夫の敦さんは非協力的だった。仕事と言えば、魚をさばいて刺身を作ることと風呂の掃除ぐらい。夜な夜な飲みに出かけては午前様。昼になって起き出してくるという生活スタイルを変えなかった。
不満が高じて、喧嘩が絶えなかった。8ヶ月目には「もうダメ!」と音をあげた。敦さんを変えるには極端な行動に出なければダメだと思い、アメリカに帰ってしまった。敦さんは何度も電話をかけてきて、「これからは、努力してみるよ」と約束したので、その言葉を信じてジニーさんは銀山に戻った。そして子供ができたのを機に、旅館から歩いてすぐの所に一軒家に住まいを移した。
ある時、ジニーさんがトイレ掃除をしている時、お客さんから「女将なのに、トイレ掃除をしているの?」と聞かれた。これをきっかけに女将の仕事とは何だろうと考え始めた。そしてやはり女将は女中とは違う。料理や掃除や洗い物は人に任せても、女将は客へのサービスを最優先して考えるべきだと思い始めた。そこで仲居さんや料理長を雇い、分業体制を作っていった。
(心がこもっていればいい)
現在は、調理場、洗い場、掃除、事務、仲居さん、番頭さんなど、パートも含めて17人もの従業員がいる。その教育はジニーさんが担当している。従業員を雇い始めた頃は、相手の気持ちなど考慮せずに、お客のことだけ考えていため、自分の言う通りにしないと、感情的になったりもした。感情的になると、ついストレートな言い方をするアメリカ人の癖が出たのである。給料を支払っているのだから、という気持ちもあった。ぶつかって辞めていく人も出た。
そういう時に敦さんは「相手の考え方、気持ちもあるから、理解する努力をしなさい」「もっと丁寧な言葉を使いなさい」と注意した。
そんなある日、山形県と宮城県の旅館の女将が集まる機会があって、ある有名な女将と話をする機会を得た。その人をテレビで見た時には立ち居振る舞いがすべて完璧な人だと思っていた。ところが実際に会ってみて、話を聞くと、どこか違う。
それまでのジニーさんは、藤屋旅館をグレードアップしたい一心で、作法のこと、敬語のことなど、とにかく「形」にこだわっていた。しかし、そうではないと気がついたのである。
私はそれ以来、サービスは完璧な形である必要はなく、心がこもっていればいい。山形弁でもなんでもいいし、少しくらい失敗してもいい。失礼なことだけはしないように気をつけましょうと思い直しました。
---owari---
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