(その希望は自分の心境や努力にふさわしいか)
これまで、私はブログのなかで、「この世においては、思いは、すぐに実現しないで、実現するまでに時間がかかる。ところが、あの世においては、思いは、即、実現する」と、言ってきました。
しかし、より厳密に説明するとしたならば、あの世においても、思いが実現する場合と、実現しない場合とがあるように思われます。
それは、こういうことです。
もし、額面どおり、字義どおりに、「思ったことが、即、実現する」ということであるとしたら、地獄界という所に住んでいる人たちが、「ここから逃れたい」と思えば、それは、即、実現するはずです。彼らが、「天上界に上がりたい」と思えば、即、実現し、「天使になりたい」と思えば、即、実現するはずです。ところが、現実には、なかなかそうはいかないという事実があります。
一方、天上界の諸霊の場合は、どうでしょうか。死んで、まもない人、あの世へ還って、まだ不案内な人が、「天使になりたい」と思えば、即、天使になれるでしょうか。これも、そう簡単にはいかないのが現実です。
天使になるには、天使になるだけの修行をし、それだけの力が備わっていることが必要となります。「天使になりたい」と思うことは、目指す方向としてはよいとしても、実際に天使になるには、一定の要件を満たすことが必要であると言わざるをえません。
逆に、天使が地獄の悪魔を目指せば、即、なれるかというと、これもまた、そう簡単なことではありません。
天使であるということは、「長らく、善なる心を維持し、地獄の悪魔の心境を目指さないことをもって、人生の指針としてきた」ということです。そのため、天使は、演劇の俳優のように、一時期、地獄の悪魔を演じることはできても、地獄の悪魔として長く生きることは、なかなか難しいのです。
陸上で空気を吸って生きているものが水のなかに棲めないのと同じく、長いあいだ、天使が地獄の悪魔のように生きることは、難しいものなのです。
これが意味しているのは、どういうことであるかというと、「思いは実現する。願いは実現する。希望は達成される」と言うけれども、「希望は、その人にふさわしいかたちで達成される」と言ったほうが、より正確であるということです。
あるいは、仏教的なる「因果の理法」というものを含めて述べるならば、すなわち、「ある原因があって、結果が生じる」という、「善因善果・悪因悪果」の考え方を入れるならば、「希望は、その人の心境にふさわしい結果を引き寄せる」と言うべきであると思われます。
この世に生きている人が、自分の現在の立場と大きくかけ離れた希望を抱いた場合は、「希望が実現しない」と悩むこともあれば、その希望とは正反対の結果になることもあるでしょう。
希望の実現においては、やはり、その人の心境にふさわしい結果が現れてきます。その人の人格にふさわしい結果が現れてきます。その人の努力にふさわしい結果が現れてきます。その人の才能にふさわしい結果が現れてきます。
思いとその結果が大きく隔たっている場合は、たいてい、自分自身の現在のあり方、すなわち、自分自身の努力や反省や才能、対人関係における自分のあり方が、正しく見えていないために、自分の予想していない結果が現れてきているのです。
もし、その願いが、あなたにふさわしいものであって、あなたが、その願いを持つにふさわしい生き方をし、努力をしているならば、そして、その願いどおりの結果が現れてくることが、あなたにとって、まさしく、ふさわしい結果であり、他の人からも、そう思われ、天使からも、そう見えるのであれば、その願いは必ず実現します。この世的時間における「遅い」「早い」はあるにしても、必ず実現するのです。
願いが実現しないのであるならば、それは、その願いが正当ではないか、あるいは、その願いどおりの結果が、少なくとも現在のあなたに、ふさわしくないか、このどちらかだと言えます。
強く願ったことが実現しないのであるならば、まず、「その希望が正当であるか」ということ、次に、「その希望が自分の心境や努力にふさわしいか」ということ、この二点をよく考えていただきたいのです。
そのずれのなかに、あなた自身の人生を見直し、また、努力して、それを改善していく余地があるのです。
---owari---
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