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日本の着物文化

2017年04月19日 | 日本

着物は、長い歴史の中で受けつがれ、育まれてきた世界に誇れる「日本の伝統文化」です。

近年、日本では洋服が一般化していますが、今日もなお、着物が愛され続けているのは「美しい」という理由だけではありません。


着物は、日本の生活や文化にとけこみやすく、日本人の体型や顔立ちによく映り、また、四季のある日本の気候風土にも適しているからです。着物を「ファッション」としてとらえることもよいですが、歴史をたどり着物の移りかわりを知ることで、今までと違った着物が見えてくるのではないでしょうか。


着物は、私たちが普段着ている洋服に対することばとして、和服=着物として用いられることが多く、また「着物(きもの)」という言葉は、国際語「kimono」として世界に通用するのです。

 

本来「着物」とは、広義で「着るもの(衣服)」という意味で、「着るもの」という言葉がつまって「着物」になったといわれています。


その着物は、平安時代に着用していた、小振りな袖で対丈(ついたけ、着るとちょうどの丈の意)の衣服「小袖」がはじまりといわれています。

 

平安時代の絵巻を見てみると皆、袖口が広くゆったりとした着物を着ている。これは「広袖」、そしてその下に着ているのが小袖。現代の私たちが「着物」と呼んでいる服は、その昔「小袖」と呼ばれるいわゆる下着だったのです。

 

その下着を普段着に変えたのが戦国時代のファッションリーダー、織田信長その人です。信長の好んだ小袖を着こなすラフなスタイルが、一気にメジャーになったものと言われています。やはりいくさ上手な人というのは、「自分をどう見せるか」という演出力にもすぐれていたんでしょうか。信長の持って生まれたセンスの良さはファッションをも変える力があったようです。

 

下着だった小袖が信長のセンスでファッショナブルに!これが戦国時代の着物の大変身でした。
とにかくおしゃれだった信長、その妹・お市の方の小袖も素敵なものだったのです。

 

戦国一の美女と言われるお市の方の着物に日本の着物の大変身のカギがあるというのです。

それは何色もの糸を生地に織り込むことでファッショナブルな模様に仕上げていたからです。

 

複雑な紋様を織り出すための織り機「空引機」が江戸時代まで使われていましたが、高さが4m近くもあり、2人がかり。上と下とでピッタリ息を合わせ織り上げていたのです。信長やお市の愛した小袖にはこのようなすごい技が使われていたのです。

 

また、信長は右半身と左半身が色違いの「片身替わり」という派手な小袖を着こなしていました。このように、信長は下着扱いだった小袖を堂々と表に着て見せたのでした。

 

ファッションリーダー信長のおかげで、小袖は一躍大流行。家臣も真似を始めて、後の天下人・秀吉が信長に仕えていた頃、お歳暮に200枚もの小袖を贈り、信長は大満足だったと伝えている。『信長公記』には、「小袖二百枚を献上。古今に例がない 皆 驚嘆した」と書かれていた。

 

江戸時代に入ると、5代将軍・徳川綱吉の頃、再び着物の大変身が始まろうとしていた。

主役は裕福な町人の娘たち。「かわいい着物を着たい」と夢中になっていたのは当時のファッションブック「雛形本」。しゃれたデザインを集めたもので、おしゃれしたいという女心は、いつの時代も同じ。天下人だけでなく裕福な町人たちもおしゃれな小袖を着るようになっていたのです。

 

しかし、こんな時代は長くは続かなかった。江戸城では幕府の偉い人たちがカンカンだった。武士より豪華な着物を着ることは許さない。町人がぜいたくな着物を着ることを禁じるお触れが出たのです。

 

金糸などの刺しゅう 鹿の子絞りを禁止とする。(「天和3年(1683年)の禁令」より)

 

着物の進化はピンチを迎えたが、そこへ救世主が現れた。おしゃれ着物の革命児・宮崎友禅である。元は扇に絵を描く名人だった。友禅が描いた扇「扇面蛍図」は夏草に飛ぶ蛍で、繊細な自然の情景を写し取る天下一品の技の持ち主だったのです。


刺しゅう禁止の世の中で友禅の技が生きてくることになった。生まれたのが友禅のデザインを染めで表現する「友禅染」。


この友禅染、染めなのに洗っても色落ちしない特殊な技が用いられている。まず生地に下絵を描く、その上に縁取りの「糸目糊」を置いて、間に色を塗っていく。最後に糊を取るときれいな模様が浮かび上がる。糸のように見えるので「糸目糊」という。この作業が友禅染の肝なのです。


色落ちしない秘密は「豆汁」という大豆を搾った汁。絵の具にこれを混ぜる。そして色を塗るとき炭火であぶる。すると大豆のタンパク質が熱で固まり、生地に色が定着する。洗っても色落ちしなくなる。


こうして江戸時代、色鮮やかな模様を刺しゅうではなく染めで表現する技、友禅染が生まれた。刺しゅうは駄目と言われてもおしゃれな着物を着たい。そんな娘たちの願いが日本の着物に再び大変身をもたらしたのです。

 

時代は下って、岐阜県瑞浪市。かつては宿場町として栄えたこの町には、100年以上前の着物など数千枚が受け継がれている。地歌舞伎と呼ばれる歌舞伎に使われ、昔から地域の人たちによって演じられてきた。

 

この地歌舞伎の衣裳、江戸時代の友禅染とは少し違う方法で作られている。値段は従来の友禅染の10分の1だったという。つまり100年ほど前に、おしゃれな着物は庶民の手の届くものになっていたのです。その秘密の鍵はイギリスにありました。

 

1856年、日本の着物に大変身をもたらす運命の発明がイギリスであったのです。

ある若い科学者(ウィリアム・パーキン)が当時問題になっていた熱病マラリアの特効薬を作るため、実験をしていた。すると偶然、色鮮やかな紫色の液体が生まれたのです。

 

それが世界初の化学染料モーヴ。この化学染料が日本の着物を変身させることになった。その後、新たな化学染料が次々発明され、天然染料より安く、大量生産が可能となり、日本にもすぐ輸入されるようになりました。

 

そして明治の初め、この化学染料を使って美しい着物を作ることに挑む職人が現れた。京都で生まれ育った広瀬治助、もともと友禅染の名人だった広瀬は50歳を過ぎてこの化学染料に取り組んだのです。

 

ところが友禅染に化学染料を使っても結果は散々だった。化学染料は糸目糊の縁取りを越えて広がってしまい、模様にならなかった。更に生地に色を定着させる方法が見つからず、すぐ色落ちしてしまったのです。

 

困り果てた広瀬は、遂に掟破りの行動に出た。商売敵に技を教えてほしいと頼み込んだのです。

そんな厚かましい願いに応えてくれたのは、京都で毛織物を染める工場を経営していた堀川新三郎だった。

 

毛織物を染める技は友禅染と発想が違う。糊と染料を最初から混ぜ合わせ、生地に定着させる。生地と色がしっかり結びつき、色落ちはない。この技を応用できないか、でも問題は化学染料と糊の相性が悪いことだった。化学染料とばっちり合う糊はないか。広瀬は糊の配合を変えては試し、来る日も来る日も研究を続けた。


商売そっちのけで研究に没頭すること3年。遂に広瀬は化学染料と相性の良い糊を見つけ出した。この方法で広瀬が初めて染めた生地の本物が残っている。菊の花の鮮やかな赤、130年以上経った今も色褪せていない。化学染料に糊を混ぜ定着させる技法を「色糊」と名づけた。

 

京都市右京区、広瀬の技は今も息づいている。生地の上に型紙を置き、その上から色糊を刷り込んで模様を出す。「型友禅」と呼ばれる技法だ。型紙を変えながら色を足していき、美しい模様を完成させていく(模様を完成させたあと、高温で蒸して仕上げる)。この型友禅も広瀬の発明。筆で色を挿すよりぐっと仕事が早くなり、コストダウンになったのです。

 

化学染料を使った型友禅によって量産が可能になり価格も安くなって、普通の人たちが着物を使えるようになった。これは画期的なものだったのです。

 

天下人や裕福な町人たちだけのものだったトキメキは、今はみんなのものになった。科学技術と職人の執念の合作。それが着物を大変身させた原動力だったのです。

 

---owari---

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