(道徳から宗教を抜いたときに陥(おちい)る「自分のみよかれの世界」)
世の中の道徳についての議論がやや抽象(ちゅうしょう)的になる理由の一つとしましては、やはり、今、この道徳の根源にある宗教、霊的世界の問題を外して、道徳を捉(とら)えているからだと思います。
やはり、「なぜ生きているのか」とか、「なぜ人に優しくしなければいけないのか」といったことが、伝える側も理解する側も分かりにくくなっている世の中ではないでしょうか。
そこで、この「新しい時代の道徳」を考えるに当たり、改めて、道徳における宗教の大切さ、宗教と道徳の関係性について、考えてみましょう。
「宗教を抜く」ということが、結局、「神様・仏様。それから、あの世の世界をすべて外してしまう」ということになると、信じているか否(いな)かは別にして、結果論的には、唯物論(ゆいぶつろん)的世界観になるわけです。
それは、つまり、動物や植物、昆虫(こんちゅう)等の生きている世界や、あるいは機械、ロボットたちの動いている世界が、人間の世界に相当するということです。
そういう唯物論的世界観になるとどうなるかというと、最終的には、やはり、「この世における幸福」というものが、快楽説にかなり近づくでしょう。結果的には、「持っている体が自分の全体」ということになるので、「肉体を持った自分、体そのものが、快適に、あるいは快楽に、数十年の人生を生きられることが最大の幸福であり、最大の美徳なのだ」という考えになっていきやすいのです。
ですから、実は、ここがいちばん“衝突(しょうとつ)”するところだと思います。
もちろん、医療行為や社会福祉的なもののなかには宗教的行為もあるし、人間とのつながりを修正するところを持っているものもあるでしょうが、徹底的に唯物論的社会観で考えると、やはり、どうしても「自分のみよかれ」の世界になってくるので、「自分が快楽に、快適に生きるにはどうしたらよいか」という考えになるのです。
(“戦争法案”と称する反対運動の先に待ち受けるもの)
もう5年前になりますが、安保法案に対し、左翼が“戦争法案”と称(しょう)して反対をし、「人殺しだ。平和に反する」などと言っていましたが、一見、理想的なよいことを言っているように見えつつも、「自分が殺されたくない」ということを言っているようにも見えます。
つまり、「殺されないことが最大の幸福であり、快楽に生きられたらよいのだ。あとのことは知ったことではない。国のプライドだとか、そんなものは、もう知ったことではない。国家なんていうものはどうでもよいのだ。そんなものは考えずに、とにかく自分が害を受けることなく安楽に生きられれば、それでよいのだ」というぐらいの価値観に見えなくもないのです。
しかし、リアルポリティクス(現実政治)にはそれを許さないところがあり、そういう人たちの集まりの国になると、野心を持った国に侵略(しんりゃく)されることが多いわけです。自分の身の安泰(あんたい)のみを願う人ばかりになったら、簡単に侵略されてしまいます。そういうときには、それを踏(ふ)み止(とど)まらせるヒーローたちが出てこないと、彼らを護(まも)ることはできなくなってくるのです。
一見、平和を愛しているように見えながら、実は、悪(あ)しき心を持った暴力性のある国家に、野心を持って狙(ねら)われたりしたときには、自分の最終目標である「身体の安楽」という究極の目的自体も奪(うば)われることがあるわけです。そういう難しさはあります。
ですから、ミクロだけ、個人個人だけで考えてもいけないところがあります。やはり、人間は社会的動物でもあるので、そういう意味での「社会性」と、「個人」の両方を常に考える目は持っていなければいけないのではないかと思います。
---owari---
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