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「日々の暮らしの中から感動や発見を伝えたい」

美しい国だった日本(前編)

2020年04月02日 | 日本
(彼らはみな感激した面持ちで日本について語ってくれた)
ドイツの考古学者ハインリッヒ・シュリーマンは、1871(明治4)年にギリシャ神話上のトロイアの遺跡の発掘に成功して、世界的に有名になるが、その6年前、1865(慶応元)年に日本を訪れている。

日本で最初の、小さな岩ばかりの島が見える地点に到達した。私は心躍る思いでこの島に挨拶した。これまで方々の国でいろいろな旅行者に出会ったが、彼らはみな感激した面持ちで日本について語ってくれた。私はかねてから、この国を訪れたいという思いに身を焦がしていたのである。

シュリーマンの期待は裏切られなかった。入国の際、税関で荷物を解くのが面倒なので、金を渡して免除して貰おうとしたら、断られた。「日本男児たるもの、心づけにつられて義務をないがしろにするのは尊厳にもとる、というのである」と、その役人の高潔さをシュリーマンは讃(たた)えた。

また、当時は過激志士が外国人を襲う危険があったので、警護の武士がついてくれたが、「役人たちが欲得づくでこのげんなりするまでの警備に励んでいるのではないことは承知している。だからなおさらのこと、その精勤ぶりに驚かされるのだ。彼らに対する最大の侮辱は、たとえ感謝の気持ちからでも、現金を贈ることであり、また彼らのほうも現金を受け取るくらいなら『切腹』を選ぶのである」と感心する。

(英国夫人が一人旅をしても絶対大丈夫だろう)
シュリーマンからやや遅れて明治11(1878)年に来日したイギリスの女性旅行家イザベラ・バード。女性の身でありながら、アメリカ、カナダ、ハワイ、日本、マレー半島、チベット、ペルシャ、朝鮮、中国、モロッコと、通算30年に渡って世界中を旅した。その体験をまとめて『日本奥地紀行』『ロッキー山脈踏破行』『朝鮮奥地紀行』『中国奥地紀行』などの著作を残している。

これだけ広く世界を旅して、詳細な旅行記を残しているという点で、当時の日本を客観的に語って貰うには、好適な旅行者である。

バード女史から東北・北海道への旅行計画を聞いた英国代理領事は、その時、「英国夫人が一人旅をしても絶対大丈夫だろう」と太鼓判を押している。それは正しかった。

奥地や北海道を1200マイル(1931km)にわたって旅をしたが、まったく安全で、しかも心配もなかった。世界中で日本ほど、婦人が危険にも不作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと私は信じている。

ヨーロッパの多くの国や、わがイギリスでも地方によっては、外国の服装をした女性の一人旅は、実際の危害を受けるまではいかなくとも、無礼や侮辱の仕打ちにあったり、お金をゆすりとられるのであるが、ここでは私は、一度も失礼な目にあったこともなければ、真に過当な料金をとられた例もない。群集にとり囲まれても、失礼なことをされることはない。

(それは美しいものであった)
バード女史は、実際の旅での見聞をこんな風に語っている。私達は三等車で旅行した。「平民」のふるまいをぜひ見てみたかったからである。客車の仕切りは肩の高さしかなくて、たちまち最も貧しい日本人で一杯になった。

三時間の旅であったが、他人や私達に対する人びとの礼儀正しい態度、そしてすべてのふるまいに私はただただ感心するばかりだった。それは美しいものであった。とても礼儀正しくてしかも親切。イギリスの大きな港町で多分目にするふるまいと較べて何という違いだろう。

さらに日本人は、アメリカ人と同様、自分やまわりの人への気配りから清潔で見苦しくない服装で旅行している。老人や盲人に対する日本人の気配りもこの旅で見聞した。私達の最も良いマナーも日本人のマナーの気品、親切さには及ばない。

ものを紛失した時に、馬子は一里も戻って探してくれ、バード女史が骨折り賃として何銭かあげようとしたが、「旅の終わりまで無事届けるのが当然の責任だ」と言って、どうしてもお金を受け取らなかった。

「どこでも警察は人々に対して非常に親切である」し、かならず助力してくれるので、「困ったときはいつも警官に頼む」。

こうした日本人の振る舞いに触れて、バード女史はこう述べている。
この国民と比較しても常に英国民が劣らぬように----残念ながら実際にはそうではない!----

(日本人にすべてを教える気でいたのであるが)
バード女史と同時期、明治10(1877)年から13(1880)年まで東京大学で生物学を教えたエドワード・S・モースの談を聞いてみよう。東京で大森貝塚を発見した事で知られている人物である。

外国人は日本に数ヶ月いた上で、徐々に次のようなことに気がつき始める。即ち彼は、日本人にすべてを教える気でいたのであるが、驚くべきことには、また残念ながら、自分の国で人道の名に於いて道徳的教訓の重荷になっている善悪や品性を、日本人は生まれながらにして持っているらしいことである。

衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりしていて魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情に就いての思いやり・・・
これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である。

机の上に小銭を置いたままにしても召使いは一切手を触れない。街中の店では、時折店主が店を開けっ放しにして出ていくので、モースは逆に盗みに入られないかと心配するほどだった。「盗み」などの犯罪が皆無であることに驚嘆し、「人々が正直である国にいることは実に気持ちがよい」。

モースの母国アメリカでは、盗難防止のために、戸外の寒暖計はねじくぎで壁に留められ、噴水のひしゃくは鎖で結びつけられていた。

正直、節倹、丁寧、清潔、その他わが国に於いて「キリスト教的」とも呼ばれる道徳のすべてに関しては、一冊の本を書くことも出来るくらいである。

(礼儀という点で、日本人にまさるものはない)
さらに時代を遡ってみよう。元禄3(1690)年に来日してオランダ商館付の医師として、約2年間、長崎の出島に滞在したドイツ人・エンゲルベルト・ケンペル。オランダ商館長に随行して、二回、江戸に上り、将軍にも拝謁している。日本の動植物、風俗、地理、歴史、宗教などに関心を示し、帰国後、ロンドンで出版した「日本誌」はフランス語、ドイツ語にも訳され、ゲーテやモンテスキューなども愛読したと言われている。

江戸への道すがら、ケンペルはこんな感想をもらしている。
旅館の主人らの礼儀正しい応対から、日本人の礼儀正しさが推定される。旅行中、突然の訪問の折りにわれわれは気がついたのであるが、世界中のいかなる国民でも、礼儀という点で、日本人にまさるものはない。

のみならず彼らの行状は、身分の低い百姓から最も身分の高い大名に至るまで大へん礼儀正しいので、われわれは国全体を礼儀作法を教える高等学校と呼んでもよかろう。

当時の日本は、キリスト教国の侵略から国を守るために、オランダと中国以外の国とは貿易を禁止していた。ケンペルはこの「鎖国」政策に賛成している。当時の日本は自給自足ができており、外国から物資を輸入する必要はなかった。そして、国内は戦争もなく、生活水準が非常に高かった、という理由からである。

---owari---
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