国道一号線に通じる旧吉田邸正門
立派な庭園と屋敷
消火活動も空しく (NHKヘリ画像)
日米トップ会談(大平首相・カーター大統領)が開催された場所でもあった。
在りし日の吉田茂さんと 幼少期の麻生太郎さん
悔しさを滲ませる神奈川県知事さん 同じく大磯町観光協会会長さん
(上掲画像は全てNHK TV報道から拝借したものである)
少し前に撮った吉田茂さんの銅像。火災現場とは離れた海際にある為被害はなし
(銅像建立の際、すーの先祖も協賛している)
火災原因の早期究明と再発防止策の確立が急がれるが、この不幸な出来事をひとつの契機として、
大磯町の再活性化に向けた取り組みが一段と進むことに期待したい。
以下は毎日新聞の記事から転載:
旧吉田邸全焼:戦後史の証人、無残 歴代首相「大磯詣で」 歴史的建物、また焼失
戦後日本の歩みを決定付けた「ワンマン宰相」の政治ドラマの舞台が、炎とともに消え去った。
22日全焼した神奈川県大磯町の旧吉田茂邸。元首相の孫である麻生太郎首相ら政界関係者は懐古と
ともに焼失を惜しんだ。ゆかりの各国元首らから贈られた貴重な調度品も失われたとみられる。
県内では近年、歴史的建造物の焼失が相次いでおり、防火の難しさも浮き彫りにした。
旧吉田邸には数々の逸話が残っている。吉田元首相の孫で、「おじいちゃんっ子」だった麻生首相に
とっては、元首相の晩年、週末に足を運んだゆかりの深い屋敷でもある。
首相は著書「麻生太郎の原点 祖父・吉田茂の流儀」の中で、旧吉田邸にまつわる祖父との数々の
思い出話を紹介している。
組閣の際、大磯の私邸で構想を練った元首相は、閣僚候補の名前を記した巻紙を「チョットこれを
持っていろ」と太郎少年に持たせたことがあった。孫が両手で広げたその巻紙に、元首相が朱筆で
○×△などの印を入れて組閣名簿を完成させていったという。
吉田内閣総辞職(1954年12月)後も、「吉田学校」の優等生だった池田勇人、佐藤栄作両元首相ら
が現職首相として足しげく訪れ、助言を得た姿は「大磯詣で」と言われた。吉田元首相の死後、79年には
大平正芳元首相とカーター元米大統領による日米首脳会談の場所ともなった。
吉田元首相は風光明媚(めいび)で温暖な大磯の地をこよなく愛した。首相退陣から10年を経た
64年11月の宮中園遊会の折、昭和天皇が元首相に「大磯は暖かいだろうね」と問いかけると
「はい、あたたこうございますが、私の懐は寒うございます」と答えたというエピソードもある。
佐藤元首相の次男で運輸相や通産相を務めた佐藤信二元衆院議員は「大磯には父について行った。
父が首相に就任した後は、吉田さんは父を上座に座らせた。父は拒もうとしたが、吉田さんは
『佐藤君にではなく日本国の総理大臣に敬意を表しているのだ』と言った。権威というものを
そうやって教えたのだろう」と語った。【古本陽荘】
◇防火設備なく、貴重品も灰に
蒋介石のガラス製ついたて、ネール元インド首相のクジャクはく製、カーター元米大統領が使った
大テーブル……。県平塚土木事務所によると、旧吉田邸には、歴史を物語る贈り物の数々も保管されていた。
吉田元首相と首相官邸を結んだ「官邸電話」も含め焼失したとみられる。駆けつけた地元選出の河野太郎
衆院議員は「建物は図面で再建できるかもしれないが、調度品は取り返しがつかない」と肩を落とした。
火災の一報は午前6時2分。
大磯町によると、旧吉田邸の警備員から「煙が出ています」と119番が入った。消防車計18台で
消火活動に当たったが、強風に妨げられ全焼を防げなかった。
住宅を所有・管理する西武鉄道によると、警備員1人が敷地内に常駐し、漏電警報装置と消火器は
あったが、火災報知機やスプリンクラーなどの防火設備はなかった。文化財ではないため消防法上の
設置義務はない。
ただ、神奈川県内では、火災報知機がない歴史的建物の焼失が相次ぐ。15日には横浜市戸塚区に
ある国の重要文化財「旧住友家俣野別邸」が全焼したが、原因は調査中。藤沢市の「旧モーガン邸」は
07年5月と08年1月の火災で全焼、県警は放火とみて捜査中だ。【渡辺明博、吉住遊】
◇「象徴」なくなった--御厨(みくりや)貴・東京大教授(日本政治史)の話
戦後政治史に
一つの区切りができそうな時期に、その象徴が一足先になくなった気がする。昔の政治家は大邸宅を構え、
ぜいたくな空間で物事を考えていた。今の政治家にはないが、そうした歴史を追体験できなくなるのは残念だ。