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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

水の上を歩く信仰

2014年01月01日 | 日記

   

  新春特大号:新年にちなみ、今日は本邦初訳のデビット・カン先生のメッセージをご紹介します。(原題・おいでなさい!)

永遠の福音―9

水の上を歩く信仰

マタイによる福音書14章で、イエス様は、「水の上を渡ってみもとに行かせてください」と言うペテロに対して、ただ一言、「おいでなさい」(マタイ14:28、29)と言われました。このイエス様の答えは、ペテロに対して、許可を与えるというより、命令そのものでした。「おいでなさい!」

イエス様はそれ以上、どんな言葉もかけられませんでした。イエス様は、ペテロに対して、水の上を歩けるような、どんな保証も確信も与えられませんでした。この時ペテロは、キリストのこの命令に対して、自分の信仰を表さなければなりませんでした。万物を創造する力に満ちた主の言葉は、ペテロに霊感を与え、確信を与えました。そこで、主の弟子ペテロは、ただちに行動し、キリストの命令に服従したのです。このような事は、神様が私たちを召される時に、しばしば用いられる方法です。神様が私たちを召される時、それは、目に見える証拠や、保証が全くない中で行われることが多いのです。

1)命令に聞こえる神様のみ声

「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭として捧げなさい」(創世記22:2)。この聖書箇所からは、神様がアブラハムに対して、“イサクを捧げよ”と言われただけで、その理由も目的も、それ以上の事は、全く何も分かりません。

「さて、イエスがガリラヤの海辺を歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた、『わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう』」(マタイ4:18、19)。これがその人を呼ばれた言葉のすべてです。

「さてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て、『わたしに従ってきなさい』と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った」(マタイ9:9)。こちらでは、ただ二つの単語だけを言われました。

38年の間、病気で苦しんでいる人が、毎日べテスダの池に運ばれて来て、水が動く時、真っ先に入り、癒しを得たいという望みを持っていました。「イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に『なおりたいのか』と言われた。この病人はイエスに答えた、『主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです』。イエスは彼に言われた、『起きて、あなたの床を取り上げ、そして歩きなさい』すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った」(ヨハネ5:6~9)。

しばらくして、この人は、自分を癒してくださったお方を探しましたが、イエス様はすでにその場を去っておられました。

2)信仰を要求される

私たちが聖書で見るこれらの実例を考える時、イエス様は、ご自分に従おうとする人々に、大きな信仰を要求しておられることが分かります。その代表的な例が、ペテロに水の上を歩くよう命じられたことでした。イエス様は、ご自身がなさった以外、人類の歴史の中で、誰もできなかった経験、それゆえに、人間には全く不可能な行動を、ご自身の弟子であるペテロに要求されました。

イエス様は、表面的には、ご自身に従う人々の道を、やさしく平坦にするために、何の努力もしておられないように見えます。イエス様は、ペテロが水の上を歩くことができる何らかの保証も与えないまま、ただ信じて行動するように言われました。またイエス様は、アブラハムに、最後にはイサクの命を取るようなことはしないと、前もって語ってはおられませんでした。イエス様は、ペテロ、アンデレ、マタイに、ご自分に従う時に、食べて暮らしていけるだけの給料を支給する、というような保証はされませんでした。イエス様は、むしろ意図的に、人間の目から見たら、ほとんど不可能と思えるような信仰を、ご自身に従おうとする者たちへ要求なさいました。それでも人は、イエス様が要求なさる信仰を十分に満たすために、完全な献身と服従をしなければなりませんでした。

イエス様の命令は、その当時と同じく、今日も、詳しい具体的な説明がなされるわけではありません。また私たちは、イエス様のみ声を、直接耳にして聴くことはできません。しかしそのお方は、聖書の言葉を通して、私たちに語られます。また、説教者や、誰かの言葉を通して、あるいは、私たちの良心を通して語りかけられます。その声は、時には細く、時には大きくはっきりと、私たちの心に、決して揺るぐことのない権威を持って語られるのです。私たちに、このようなキリストのみ声が聞こえたなら、私たちは、アブラハム、ペテロ、アンデレ、マタイ、中風患者、そしてパウロのように、主の言葉にただちに従い、船から降りて水の上を歩くべきです。

主が今静かに、私、または、あなたに、「私に従いなさい!」と、言われたなら、私とあなたは、このお方の言葉を信じて屈服し、従うことができるでしょうか?主のみ声にすぐに従うこと、まさに、そのような服従が、私とあなたに、主が要求なさる信仰です。信仰と献身、また服従は、結果的に同じものと言えます。信仰とは、あなたがキリストにすべてを委ね、そのお方の愛と導きに対して、全的に信頼することです。それこそ服従と言えるものです。それゆえ、あなたに信仰があるとするなら、あなたは屈服するでしょう。そして、あなたが屈服することによって、さらに大きな信仰を所有することになるでしょう。継続的な屈服なくしては、健全な信仰を保つことはできません。信仰とは、完全にキリストのみ声に従い屈服することを言います。

3)信仰は従順を伴う

ペテロは、彼の従順について試みを受けました。そのように、信仰はいつの場合も、従順であるかどうかを通して試されます。実際、心からの従順こそが、真の信仰を表すものだからです。それゆえヤコブは、次のような正しい手引きを書き記すことができました。「わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか」(ヤコブ2:14)。ヤコブからの問いかけに対する答えは、「できません」の一言です。ヤコブは、再び次のような挑戦を私たちに投げかけています。「行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう」(ヤコブ2:18)。ヤコブは、救いを得るための手段としての行いを言っているのではありません。彼は、信仰と屈服の結果として現れる、行いと服従を指摘しているのです。

天のお父様は、時には、私たちが疑いにとらわれることがないように、十分な証拠や、確信をお与えになります。また、安心してイエス様に従えるように、その前に十分な確証を与えて下さいます。過去の恵みと祝福を覚えている人は、イエス様の命令に、喜んで従うことができるのです。

しかし、イエス様が、「水の上を歩きなさい」と言われた時には、私たちの眼の前にも、足元にも、過去にも、どこにも、水の上を歩ける確実な保証などないのです。そこでは、ただ、イエス様が「おいでなさい」と言われたこと以外、何の保証もありませんでした。

主は時々、主に対する完全な信頼を求めて、水の上を渡ることを命令されます。それには、一つの目的があります。それは、私たちが、水の上を渡らない限り、主の絶対的な力を体験することができないからです。人がイエス様の言葉に従って、人間的には不可能と思えることを、信仰を持って行動していく時、イエス様の言葉が、本当に天地を創造された、力ある言葉であることを体験することができます。従順を通して得られる経験は、キリストに対する私たちの信仰と信頼を強め、さらに深く高い水準へと引き上げてくれるのです。

4)従順の試み

イエス様は、人々が、み言葉にただ同意するだけでなく、信じて実際に行動することを要求されます。そして、人が行動を起こすとすぐに、キリストに対するその人の信仰の状態が現れてきます。そこで、あるクリスチャンは、罪から勝利したいと望み、信仰と平和と愛に満ちた、霊的な生活をしたいと願っていますが、そうすることができず、信仰の喜びを味わうことができないでいます。

彼らは、「主よ、私に命じて、水の上を渡ってあなたの所へ行かせてください」、と口では叫んでいますが、主が、「おいでなさい!」と命令されるみ声には決して反応しません。彼らは主の言葉を聞いてはいますが、船の上でうろつきながら、どっちつかずの態度で、恐れ疑っているのです。

たとえば彼らは、イエス様が「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)と言われた時に、そうなりたいと願いながらも、そうできない自分を知っているので、ためらいます。彼らは、自分の中に服従できる力を探しますが、自分にはそのような力がないことをすぐに悟り、諦めてしまうのです。

キリストの招きに対する服従は、私たち自身の能力の中に存在するのではありません。なぜなら、私たちは、自分の力では絶対、水の上を歩くことはできないからです。主の招きに答えるためには、私自身が持っているものの中から、それを根拠として従うのではありません。私たちは、イエス様の招きと、その招きの言葉の中に含まれている、全能の神様の力に信頼することによって、従うことができるようになるのです。

私たちの信仰は、服従によって表されます。服従しない者は、彼がどんなに自分を正当化したとしても、信仰はありません。それゆえ、ある信仰者は、このように表現しています。「ひたすら信じるものだけが服従でき、ひたすら服従する者だけに信仰がある」。

神様は、服従する信仰を要求されます。なぜなら、神様は、信仰ある者のみが服従できる命令を与えておられるからです。

信仰を持って従った時に、ペテロは水の上を歩くことができました。そのような信仰を持たずに、彼は、波の上に立っておられる方のもとへ行くことはできませんでした。水の上を歩くことなど、本来、不可能なことであり、非常識なことです。ペテロが、真心からイエス様を信じ、その言葉を信頼したからこそ、このようなことができたのでした。それと同じく、私たちが、神様の命令を、真心から信じて行うなら、聖書の言葉はことごとく実行することができるようになり、罪に対して、完全に勝利させてくださるのです。

ペテロの、水の上を歩く信仰を適用して、私たちはローマ人への手紙8章2~4節の聖句を、次のように説明することができます。

「なぜなら、イエス・キリストを通して与えられる、もっと高い法則、霊的な能力は、人間は水の上を歩くことができないという、物理的な法則から、あなたを解放したのです。この世で当然とされている、普遍的な水圧の法則から解放された者だけが、水の上を歩くことができます。神様の真理と力が、この世の常識や自然の法則によって無力になっているためになし得なかった事を、神様はご自分の御子を肉体を持った方として世に送り出し、水の上を歩かせられました。これは、私たちも、御子のように、物理的な水圧の法則ではなく、天の信仰の法則にもとづいて、水の上を歩くことができるようにするためであり、私たちにおいて、み言葉に従うことが可能になるようにしてくださったのです」。

霊的な経験において、私たちは、水の上を歩けないだけではなく、最初から船に乗り込もうともしません。つまり、罪に勝利する体験がなく、罪と戦おうとさえしないのです。船に乗り込んで、沖へ漕ぎ出すと、私たちはすぐに、荒れ狂う罪の波と戦わなければなりません。しかも私たちには、そのような罪の波を乗り越える力はありません。私たちがこのような状況に直面するとき、私たちはこのように思うでしょう。「人が完全になること、罪を全く克服することなど、不可能なことだ。水の上をどうやって渡れるんだ?」

こうして多くの人は、クリスチャンとは名ばかりの、敗北した惨めなクリスチャン生活を送っているのです。絶えず罪に負けて溺れてしまい、その都度イエス様に助けていただきますが、ほんとうの勝利の喜びを味わうことができません。「罪と死の法則」(ローマ8:2)から解放されない限り、私たちは、いつまでも水の中に沈まざるを得ません。

イエス様は、「あなたの信じたとおりになるように」と言われました。この主の言葉は、そのような人たちにも適用されます。まず、主の言葉を信じましょう。そして信頼して歩き出しましょう。そうすれば、主はあなたを支えて下さいます。

信仰の従順について、私たちが知っておくべきことは、従順に関するあらゆる責任は私たちにあり、従順のためのすべての力は、神様から来るということです。ペテロが水の上を歩いた時、キリストは、ペテロができないすべての事をなしてくださいました。しかし、キリストは、ペテロができる事は、何一つ彼の代わりになさいませんでした。ペテロは自分で立ち上がり、船から降りなければなりませんでした。そして、水の上に足を置き、一歩踏み出さなければならなかったのです。ペテロは信じ行動する、そしてキリストが彼を支え水の上を歩かせる、ここに信仰と行為、人間の働きと神様の恵みの、素晴らしい実例が表されています。このようにして、人は水の上を歩くのです。

5)信仰は常に水の上を歩くこと

ペテロは、絶対的に不可能なことを現実化しました。彼は、それ以前にも以後にも、どんな人もできなかった事を実現しました。彼はこの世のあらゆる科学的法則に反して、水の上を歩いたのでした。

どうしてペテロは、水の上を歩くことができたのでしょうか?水よりも大きな比重を持った、成長した人間の重さを支えたものは何だったのでしょうか?それに対する答えは、「ただ信仰によって」ということです。信仰とは、人が自分の力で成し遂げる、自己達成ではありません。信仰とは、イエス・キリストの言葉に対する、完全な信頼です。そして、人が表明するこの信仰を根拠に、神様は私たちに奇跡を起こして下さるのです。

私たちが、クリスチャンになったなら、このように言うべきです。「主よ、私にとって、不可能であることを行うことができるように、私にお言葉をください。どうぞ、私に命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」と。もしあなたが、キリストの生涯と信仰を、こんな風に理解していないとしたら、あなたはまだ、キリスト者の真実な生き方を正しく理解しておられないのです。自分の信仰経験の中で、不可能な事が起きていない人は、どんなに信仰生活が長くても、教会の奉仕をしていたとしても、今だに、真実なクリスチャンとして生きているのではありません。

もし、クリスチャンの生活が、単に宗教的な形式を継続することだけであるなら、それは比較的簡単なことです。教会出席、奉仕、献金、こうしたことは大事なことですが、そのような生活を繰り返していたとしても、本質的な心の変化がなければ、それは実質的なクリスチャンの生涯ではありません。ほんとうのクリスチャンとは、心に内住しておられるイエス・キリストの力によって、あらゆる罪と悪に打ち勝って、征服する者です。

真実なクリスチャンとは、イエス様に次のように訴える者です。「主よ、私に命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」と。そして私たちは、このように祈るべきです。「主よ、私の生涯の中で罪を克服したいと願います。私は、ねたみ、恨み、憤り、憎しみ、そして、いい加減な食生活を捨てたいと願います。私はこのどうしようもない罪意識から解放されたいと願います。主よ、私は水の上を歩きたいと願いますが、自分では出来ないことを知っています。私の出来る唯一の方法は、ただあなたの助けをいただくことです。主よ、水の上を渡って、あなたのみもとに近づけるようにお命じ下さい!」。

このような願望に対する主の答えは、いつでも「おいでなさい!」です。私たちが本物のクリスチャンになりたいと願いながら、このような訴えを主に差し出さないのであれば、私たちは、いつまでも溺れ続けるしかありません。クリスチャンが、罪の満ちたこの世にあって、罪を犯さないように生きること、それは、水の上を歩くことです。イエス・キリスト無くして、水の上を渡ることはできません。キリストは、すでに、人間の性質を取りながら、水の上を歩かれました。そのキリストを見つめ、信頼するあなたに、キリストは、もう一度、言われます。「おいでなさい!」