福音の力を体験せよ 76
皆さん、「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」とのみ言葉を覚えていますか(ヘブル12:14)。私たちにはこの「きよさ」が必要なのですそして。聖い生き方というのは、私たちが全身全霊、主のために生きることです。それが聖化であります。
義認とは、罪から完全に洗い清められることであり、聖化とは、聖い生涯を送ることです。個々の罪を処理しても、罪の問題が解決するわけではありません。聖なる実が徐々に成長することが、解決への道であります。
聖化について、どれだけの人が、その意味を十分に理解しているでしょうか?真のクリスチャンは、神聖をもたらす経験を得ることができます。そのような人は、良心のうちに一点の罪悪感もなく、魂のうちに一点の腐敗もありません。主が私たちの魂を洗い清められるとき、あらゆる汚れを完全に洗い清めます。
しかし皆さん、私たちがイエス様の御前に出るまで、彼はその働きをなさることができません。主がそれをしてくださることを信じなければ、清めの経験にあずかることはできません。
主の幕屋の中へ ⑩
エジプトから出て来ても、悟ることができなかった! 聖所が彼らの中にあっても、悟ることができなかった!・・・ 他人の話ではありません。私たちもまた、罪の世界、バビロンから出てきたにもかかわらず、荒野でさ迷い、天国を失うことになるかも知れないのです!
カナンの地に入るならば、大丈夫でしょうか?カナンの地に入った人々でも、同じく過ちを犯しました。たとえ私たちが、バビロンから出て清い教会に入ったとしても、問題が生じてしまうことがあります。それはただ、神様が幕屋におられることを信じているだけで、聖所の奉仕の目的が、神様ご自身が、彼らの心に住まれることであるという真理を理解し、体験していなかったことと同じです。真理の知識を持っていることで満足して、真理そのものを体験することができない状態です。そのため多くの人は、罪の問題に根本的な解決をすることができないのではないでしょうか。これは、ただイスラエルの話だけでしょうか?あなたのことではないでしょうか?