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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の力を体験せよ 82 

2014年01月22日 | 日記

   

  福音の力を体験せよ 82 

“それがご自身のものではなかったにもかかわらず、主の魂は人間の犯した罪によって引き裂かれ、あざで染まり、私たちがご自身のうちで神の義とされるために、罪を知らないお方が罪となられた。”(1SM322)

“神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。”(Ⅱコリント5:21)

イエス様が私たちのために罪を負ってくださったことを理解し、そのことを信じるだけなら、彼は私たちを、本当の義なる者につくり変えてくださるのではなく、ただ義なる者と見なしてくださるのだと信じることになります。しかし私たちは、聖書の言葉をあるがまま信じるべきです。イエス様は、罪そのものとなられたのです。

私たちを義なる者とするため、イエス様は、私たちのうちに新しい心と新しい精神、すなわち真の義と聖を創造することがおできになります。イエス様は十字架での最後の時間に、人が罪に抵抗するために奮闘努力するときに経験する、最上の経験をされました。また、人間が罪に屈服することによってどんなに悪くなってしまうのかを、認識されたのでした。

    主の幕屋の中へ 16

 神様は、「聖所の目的は他にある。あなたがたが捧げるものは、ただ動物の死骸に過ぎない。そのようなものはいらない。それを望んではいない。わたしが聖所を通して、あなた方の中に住む理由は、あなたがたが聖であってほしいからである。私が聖なるものであるように、あなたがたも聖なる者となりなさい」と訴えておられました。

しかし、このような神様の願いを、イスラエルは聞き入れませんでした。その結果、彼らは、自分たちの罪の実を刈り取り、遠い他国へ捕虜として連れて行かれました。そして、約束の地は、荒れ果ててしまいました。

 

  イスラエルの民は、聖所の儀式を行い、礼拝を捧げていましたが、それは、ただの形式だけで、その奉仕の目的を完全に見失っていました。聖所の奉仕の目的は何だったでしょうか。それは、神様が一人ひとりの心に臨在し、品性を改革して、聖にすることでした。その本来の目的を見失うことによって、形式はますます立派になりましたが、民の心はますます悪に傾いて行ったのです。心が改革されないまま行われる、どんな立派なお祈りも、多額の献金も、賛美も、神様の前には、やかましいシンバルとしか思われないようになりました。