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義認とは、私たちがブドウの木につながることです。そうするときに、生きた聖霊の養分が木から枝へと流れ入ります。このようにして成長を遂げたら、聖霊の実を結ぶようにになります。つまり、聖霊の実を持って生きる生涯が聖化であって、罪を処理し続けることが聖化ではありません。
聖所
ここで、聖所についてのポイントを見ていきましょう。聖所の観点から、聖書の言葉をもういちど考察してみたいと思います。聖所の外庭に入ると、まずそこには犠牲の祭壇があります。いけにえの血がその上で流された後、角に血がつけられます。これは自らを主のみ前に屈服させて、罪を差し出すことを表しています。すべての罪を、イエス様の頭の上に告白します。そうするときに、イエス様がすべての罪を赦してくださるのです。
主の幕屋の中へ 6
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私たちは神様の宮になるべきなのです。 聖所が建てられた目的は, 単純に彼らの群れの中におられるためとか、 イスラエルの陣営の中心にただ幕屋を用意することではありませんでした。イスラエルの民は、単純にそのように思っていました。聖所の真の目的を忘れてしまったのです。幕屋を作って、イスラエルの陣営の中に建てておくだけで、彼らは満足していました。神様が、彼らのうちに住まわれるとは、そのようなことだと思っていました。
今日も同じです。 多くの人は、教会が近くにあって、毎週出席していることで、満足しながら暮らしています。 聖書が身近にあることで、満足しています。聖書が机の上に置かれていたり、いつでも取り出して読める本棚に並んでいることで満足しています。真理に関する本が、書棚にぎっしり詰まっていれば、十分だと思っています。教会の役をしたり、奉仕をしていることで満足しています。真理の教会にいて、真理の知識を学んだことがある、と言うことで満足しています。
毎日のいけにえや、供え物を捧げること、奉仕する祭司たちがいて、最高の材料を用いて作られた、イスラエルの陣営の中心に立っている聖所! しかしこれが聖所のすべてではありません。
このような施設を備えさせられた、目的は何だったのでしょうか?それは、イスラエルから、罪を消滅させるためだったのです。それによって、イスラエルの民を清く尊い神の民とするためだったのです!7