人はなぜ苦しむのか 第10回
2、悔い改めを与えるために臨む苦難
人生の苦痛が、悔い改めなかったために、神様の裁きの結果としていろいろな形で臨むことがあります。イエス様が、ピラトによって殺されたガリラヤ人たちのことについて語られたことを思い起こしてみてください。「ちょうどその時、ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた」(ルカ13:1)。歴史家ヨセフスの記録によると、その当時、ピラトが数多くの人々を神殿で殺した事実を確認することができます。それらの人々は神様に儀式を捧げる途中神殿で殺されたのです。そのために当時の人々は、このようなことが起きたのは、間違いなく彼らが他の人々よりもっと罪深い人間であったからだと思っていました。
その時、イエス様は言われました。「そこでイエスは答えて言われた、『それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう』」(ルカ13:2、3)。続くイエス様の言葉に耳を傾けて下さい。「また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」(ルカ13:4、5)。ガリラヤ人が神殿で殺されたのも、シロアムの塔が倒れて押し殺された人々も、罪を悔い改めていなかったために刑罰を受けて死んだというのが、イエス・キリストの説明でした。
絶望から希望へ 第12回
救いはどこに
愛する皆さん、この人がここで叫んでいる絶叫は、皆さんの叫びではありませんか?この『ローマ人への手紙』7章は皆さんの心の叫びではありませんか。「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、全なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」(ローマ7:18~20)。
常に私たちは倒れてしまいます。常に私たちは罪の奴隷下に置かれてしまいます。やりたいと思わないのにいつの間にかやってしまっている。そのような人は結局、このように思ってしまいます。「私は主のみ心に従って生きたいと願うが、それができない。だけどこれはもうどうしようもない。私は罪を持って生まれてきた者だから・・・」。このように嘆いてあきらめている姿です。そしてローマ7章21節に「そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪が入り込んでいるという法則があるのを見る」とあります。皆さんの心の中には、悪が共にありますか。ありますね。私にもあるでしょうか、ないでしょうか。私はないように見えますか。あります。