人はなぜ苦しむのか 第13回
神様は、ご自分の御子であるイエス様が地上での働きを始められた時、その盲人が信仰を持ってイエス様のところにやって来るのを待っておられました。やがてその盲人は、信仰を持ってイエス様の前に進み出て、ついに癒されました。神様の栄光を表す目的のために、目が見えなくなったり、歩けなくなったりした人は、イエス様と出会う時、ただちに癒しを受けることになります。
そうかといって、すべての盲人や足の悪い人が、真実なクリスチャンになれば、癒されるようになるわけではありません。それらの人々に対して、「あなたが癒されていないのは信仰が足りないからです」と言うことは出来ません。ある人が障害をもったまま人生を送り亡くなったからといって、「彼は信仰のない者」と言ってはなりません。なぜなら、私たちは彼らがなぜ障害を持つようになったのか、真の理由が分からないからです。なぜ、神様が彼らの祈りに答えられなかったのか、その意味を知ることは出来ません。従って、神様が全ての秘密を明らかにされる歴史の審判の時が来るまでは、誰も結論を出すことは出来ません。誤った願望を抱いていると、失望に終わることになるかも知れません。どのような状況にあっても、静かに、そして信頼の心を持って神様の導きにゆだねる心こそ、神様に対する最も強力な信仰の証となるのです。
絶望から希望へ 第15回
ただ一つの望み
中世時代、ローマカトリック教会がプロテスタントの人々を捕らえて死刑にしていました。その時、彼らを尋問して火あぶりにする時、彼らは賛美しながら殺していたんです。どのような賛美歌だかわかりますか。「艱難と迫害の中で」という賛美です。そのような歌詞は、本来なら迫害される人が歌うべきなのに、カトリック教会側は欺瞞に陥っていて、悪の本質に任せて、悪の性質に支配されていたために、このような賛美歌を口にしながら、神様の聖徒たちを殺してしまったのです。
皆さん、私たちのあるがままの性質に身を任せると、このようなことになってしまうのです。だからこそ私たちは、み霊が私たちを創り変えてくださるこの体験を持たない限り、望みがありません。「主よ、私は罪人です。私を助けてください」。私たちは涙ながらにそのようにお祈りしなければなりません。
しかしこのローマ7章のこの人の姿には、一つの望みがあります。どんな望みでしょうか。「なんというみじめな人間なのだろうか。だれが、この死の体から、わたしを救ってくれるだろうか」と叫んでいることです。自分が願っているけれどもできない。自分は自分の中にある悪を分かります。罪を悟っています。しかし行えなくて本当にもどかしい。この苦しみから、どのようにすれば逃れられるのか。本当に嘆いています。
皆さん、この人の姿に同情出来ませんか。かわいそうな人だと思います。どのように私たちは彼を助けてあげることができるでしょうか。皆さん、この状態の方おられませんか。どのようにしたらこの状態を逃れることができるのでしょうか。しかし実は、私たちが正しい目で自分自身を見つめ、私たちの力では何一つできないことを悟る時、その時こそ私たちにまことの望みがあります。