人はなぜ苦しむのか 第14回
4、あなたを益するために来る苦難
使徒パウロの場合を考えてみると、彼が肉体に持っていた何らかの障害、苦痛は、彼自身の益のために許されていたことが分かります。パウロは忠実な神の僕でした。神様のみ事業の進展のために、立派に用いられた人でした。しかし同時に弱さを持った人間でもありました。神様は、パウロが成し遂げた驚くべき功績や自己犠牲によって、高慢になる危険性を知っておられました。神様はパウロが、自分で自分を高めるだけでなく、他人によって高められる危険があることも知っておられました。それゆえパウロが、「肉体に一つのとげ」を持つことをお許しになりました(2コリント12:7)。私たちはその「とげ」が何であったか具体的に知ることはできませんが、その「とげ」がパウロを非常に苦しめていたことを知ることができます。
とげが刺さったまま過ごした経験がありますか。小さなとげでも違和感があり不便さを感じます。パウロに与えられた肉体のとげは大きなもので、パウロは三度もその肉体のとげを離れ去らせてくださるように祈りました。しかし神様は、そのとげをパウロの肉体にそのまま残しておくことが、最善であると思われたのです。神様はただ、「わたしの恵みはあなたに対して十分である」と言われました。それゆえそのとげは、パウロの肉体に一生涯の間そのまま残って、彼に苦痛を与えました。パウロが「サタンの使」と呼んでいたその肉体のとげは、真実な神様の僕の救いのために必要なものとして残されました。「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」(Ⅱコリント12:7~9)。
絶望から希望へ 第16回
「主よ、わたしを生かしてください。この場で私を何とか救ってください」。皆さん覚えておられますか。神殿の中で祈っていた二人を・・・(ルカ18:9~14)。一人は取税人でした。もう一人はパリサイ人でした。パリサイ人は大声で、「おお主よ、感謝します。私はこれもやってあれもやりました」。しかし、取税人は隅のほうで、誰かに聞かれはしないかと小さな声で、「わが主よ、私は罪人です。私は罪人です。この罪人をどうか哀れんでください」と祈りました。その時イエス様は、この取税人の祈りを聞いて下さいました。「あの罪人は私に受け入れられた」と。
このローマ7章の人も、自分のどうにもできない悪の姿を知っていています。しかし今のクリスチャンたちは、自分がどれほど邪悪なものであるかに気づいていません。特に日本の方々は、あまりにもさっぱりしてきれい過ぎて、いつも人を配慮して、人に奉仕しながら、90度に身をかがめ挨拶をして、「ありがとうございます。すみません、すみません、ありがとうございます」といつも口に出して、家庭はうまくやっているし、親には孝行を尽くしているし、職場では誠実だし・・・、日本人は立派過ぎて、足りないところがありません。これ程やっているのに、これ以上どうやったらいいのでしょうか。
ですから皆さんの祈りは力を発揮することができないんです。徹底的な切なる心がないのです。なぜ罪に勝利する経験を持てないのでしょうか。勝利する力であるイエス様のみ名を叫ばない人が多いですね。なぜでしょうか。それは自分がどれほど邪悪な者で、どれほど醜い姿であるか知らない、気づかないからですね。「どうか救ってください」という切なる願いの祈りがないのです。皆さんに姦淫を犯す環境がないからです。ミス日本が来て皆さんを誘惑するならば、韓国からヨン様が来て皆さんを誘惑するならば、これはいけないけれどもと言いながら、ちょっとだけと言いながら誘惑にね、一回はしょうがないかなという心が生じませんか?皆さんが実際にそのようなことを行わないとしても、そういった思いを持ったこと、それが罪なのです。皆さんは、実際には姦淫を犯したことがないかもしれませんが、心の中では、皆さんは姦淫を犯した者ではありませんか?
皆さん、もし職を失って家族が飢えて何も食べていない状態にあったとします。その時、道を通ると銀行が開いたままで警備員もいなくて、カウンターの上にはお金が置いてある、そうすると、中に行って盗って来るのではありませんか?銀行強盗まではしなくても、マーケットに人がいなかったら、食べ物を持って来ませんか?「今、家では子供たちが飢えているので、これは家族を養っていくためには仕方がないことだ」、そのように自分を欺くのではないでしょうか。