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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

生ける神の印 VS 獣の刻印 第11回

2017年05月24日 | 日記

9.なぜ必ず七日目なのか?

 安息日は、なぜ一週間のうちのどれか一日ではなく、七日目を必ず守らなければならないのでしょうか?この疑問に対する答えとしては、安息日とは神様の十戒の一つだということです。なぜ盗みはいけないのでしょうか?なぜ偶像を崇拝しないのでしょうか?なぜ偽証してはいけなのでしょうか?道徳的にいけないからですか?違います。それは、罪だからです。十戒に背くことは罪であり、神様が禁じられたからです。安息日も同様です。神様が守れとおっしゃったので、守らなければならないのです。

 昔、神様はアブラハムに、一人息子のイサクをモリア山に連れて行き、いけにえとして捧げよと言われました。それはとんでもない命令であり、理解できないものでした。しかし、アブラハムは神様を愛し信じていたので、神様に服従しました。そうすることがまさに信仰ではないでしょうか?彼はどんなに心が痛んでも、息子を連れてモリア山へ行きました。自分の息子を殺し、いけにえとして捧げよという命令に、彼は従ったのです。そのような信仰を表明したことによって、アブラハムは私たちの信仰の父となりました。しかしなぜ、神様がそのようにしろと言われたのでしょうか?

それはアブラハムが、神様のお言葉なら、何であっても従うかどうか、お試しになったからです。「み使が言った、『わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った』」(創世記 22:12)。神様はアブラハムに「あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」と言われました。神様の言われることを、最も優先させる生き方が、信仰なのです。なぜ安息日を守らなければならないのでしょうか?それは、神様が守れと言われたからです。信仰とは、私たちが信じたいように信じ、信じられないことは拒否するというようなものではありません。また神様は、アブラハムが、神様ご自身の一人子であるイエス様を十字架に送られた、父としての心情を理解できるようにするため、そうなさったのです。神様のお心を理解し、共有することほど大きな特権はないのです。

 安息日は神様に対する私たちの信心と忠誠の証です。しかし、それだけではありません。神様は私たちに、安息日を祝福として与えてくださったのです。「神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである」(創世記 2:2,3)。神様は、特別に第七日目に祝福を与え、この日を神聖なものとされました。土曜日も他の日と同様に24時間であり、そこに違いがあるわけではありません。しかし神様は、第七日に特別に祝福を与え、神聖な日とし、私たちに守るようにと言われました。その日は私たちの心と体が休む日であり、霊的に再充電される日です。安息日は聖霊の恩恵をたっぷりもらえる日です。さらに安息日は、神様の民の「しるし」になると聖書は言っています。まだ地上にユダヤ民族がいない時、神様は安息日を制定されました。この地球を神様が創造された時、最初に定められたのが安息日の制度です。ですから、安息日はユダヤ人のための日ではなく、人類のための日です。そして神様は、人々が安息日を忘れてしまうことを思って、「安息日を覚えて、これを聖とせよ」(出エジプト20:8)と言われたのです。

 最近のクリスチャンたちは、教会に行って1~2時間礼拝を捧げ、それで安息日を守ったと考えているようです。しかし、神様は、この日に個人的なことをしてはならないと言われました。この日は一日、礼拝を捧げることと、神様に関することだけをしなさいと言われたのです。「あなたの子らは久しく荒れすたれたる所を興し、あなたは代々やぶれた基を立て、人はあなたを『破れを繕う者』と呼び、『市街を繕って住むべき所となす者』と呼ぶようになる。もし安息日にあなたの足をとどめ、わが聖日にあなたの楽しみをなさず、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、これを尊んで、おのが道を行わず、おのが楽しみを求めず、むなしい言葉を語らないならば、その時あなたは主によって喜びを得、わたしは、あなたに地の高い所を乗り通らせ、あなたの先祖ヤコブの嗣業をもって、あなたを養う」これは主の口から語られたものである」(イザヤ58:12-14)。聖書は、長く破られていた真の安息日を回復する者たちが、これから現れると言っています。

 また聖書では、安息日は、神様と私たちの間のサイン、しるしだと言っています。この研究の最初に、生きておられる神様の「しるし」について述べたことを思い出してください。「わたしの定めを彼らに授け、わたしのおきてを彼らに示した。これは人がこれを行うことによって生きるものである。わたしはまた彼らに安息日を与えて、わたしと彼らとの間のしるしとした。これは主なるわたしが彼らを聖別したことを、彼らに知らせるためである」(エゼキエル 20:11,12)。安息日は神様が私たちを聖化させてくださるしるし、サインなのです。「主なるわたしはあなたがたの神である。わが定めに歩み、わがおきてを守ってこれを行い、わが安息日を聖別せよ。これはわたしとあなたがたとの間のしるしとなって、主なるわたしがあなたがたの神であることを、あなたがたに知らせるためである」(エゼ 20:19,20)。