SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

生ける神の印 VS 獣の刻印 第12回

2017年05月25日 | 日記

10.信仰と忠誠の証

 安息日は神様と私たちの間の「しるし」です。もちろん私たちは、戒めを守った報奨として救いを受けるのではありません。私たちは信仰によって救いを受けるのです。イエス・キリストの十字架の恩恵によってのみ救いを得るのです。しかし、イエス様の血の功績によって救いを受けた人たちは、彼の戒めを守ることでその信仰を確証するのです。神様の戒めと命令を無視する人たちが、どうして十字架の恵みによって救いを受けたと語り、イエス様を愛していると言えるのでしょう?

「このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」(マタイ 7:20-23)。

 「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである」(ヨハネ14:15)。「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない」(Ⅰヨハネ5:3)。

聖書の最後の書である黙示録の、最後の章には次のようにあります。「都の門を通って、命の木にあずかる特権を得るために、神の戒めを行う者たちは幸いである」(黙 22:14・欽定訳)。安息日は、私たちが神様の戒めを守る者であることの、外面的なしるしなのです。

「そして、アブラハムは割礼というしるしを受けたが、それは、無割礼のままで信仰によって受けた義の証印であって、彼が、無割礼のままで信じて義とされるに至るすべての人の父となり・・・」(ローマ 4:11)。心の中で起きた信仰による義の経験が、外に表現されたものが割礼でした。割礼は罪と偶像を切り捨てる生まれ変わりのしるし、証印でした。そしてこの割礼は、神様とイスラエル民族との間に結ばれた契約のしるしでもありました。

 イエス様の十字架以後、この割礼によって神様と契約を結ぶということはなくなりました。しかし、現代のイスラエルである私たちと、神様との間にある契約のしるしこそ、安息日なのです。安息日を守ることは、心の中にある信仰による義の経験の外面的な表現であり、しるしなのです。安息日を守ることは、神様がこの世界を、そのみ言葉の力によって、文字通りの七日間で創造されたことを信じることです。そして同じその創造の力によって、私のような罪人も再創造され、天にふさわしい心にしていただけるという、神様の能力を信頼していることを表明するものです。ですから安息日は、救いが全く自分の力によるのではなく、神様の能力を信頼して安んじ、休むという経験です。農業を営む人が、種まきや収穫の時も、自然界のすべての営みを支配しておられる神様に信頼して安息日を休み、学校や仕事で不都合や支障が起きることが予想される時でも、「万事を益となるようにしてくださる」(ローマ8:28)神様に、すべてをゆだねて安息日を休むのです。安息日は、私たちが、本当に神様を信頼して安息していることを証明する日です。