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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

主は我らの義(デビット・カン講演20)

2012年10月06日 | 日記


 
  ひまわりさんより(10月6日)

今日の安息日は、我が家のホームチャーチで、デビット・カン先生のビデオを見て礼拝をしました。ここへきて3か月になりましたが、感謝なことに、毎安息日、集会室に飾る花が、必ず庭のどこかに咲いています。今日は、ムクゲと季節外れの八重のヤマブキ、これも季節外れのツツジ、それにカキの実を飾ることができました。ささやかな花たちですが、これも神様の祝福と思って感謝しています。それから、今日は、夫が、今の職場を退職することになり、同僚たちが送別会を開いてくれました、その時、記念にといって、素敵な花束を贈ってくれましたので、それも紹介させていただきます。

  信仰による義の真の意味(デビット・カン講演20)

たしかに、「私のためにイエス様は十字架にかかってくださった」ということを、私たちは受け入れています。それだけではなく、今現在の、私の救い主として受け入れるのです。そうすることによって、今日の、私の現在の状況をイエス様が助けてくださいます。それ故に、私は、私の義としてイエス様を受け入れるのです。イエス様だけが、人として義なる生涯を全うされた方であります。私たちは不義なる者です。自分の努力で義を作り出すことは、決してできません。それを試みるなら、必ず失敗します。それは不可能だからです。ではどのようにして、義なる者となるのでしょうか。イエス様に心に入っていただくことによってです。誘惑がやってきたとき、私の自我、罪深い性質もそれに反応します。私たちは外からも、中からも誘惑を覚えるわけです。その時、イエス様を私の義として心に入っていただくのです。そうするときに、私のエゴ、自我はなくなっていきます。(下線部は意訳しています)
韓国に行ったら、「自分たちは永遠に救われた」と称している人たちがいるそうです。「もう救いは決まっているんだから、悔い改めは必要ない。2000年前に私の罪の問題は十字架上で解決された」、と言います。「もう、未来に犯すであろう罪も解決済みだ、イエス様が2000年前に十字架上で死なれた故に、すべて解決済みだ。だのに悔い改めの祈りをやり続けるなら、それは不信仰だ」というわけですね。「もう悔い改める必要はない、永遠に救われているんだから」。 このような言い方は、信仰による義の、本当の意味を理解していないのです。信仰によってイエス様を受け入れるというのは、イエス様が私たちの心のうちに創造の力を発揮して下さることなのです。





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