デビット・カン著 福音の道しるべ 110
よからぬ記憶のために、大いに悩み、惨めな気持ちにさせられることがある。しかし神は、これらの記憶を一掃することがおできになると、聖書は保証している。バベルの塔の建設中に、神は人々の記憶の一部を完全にとり去られた。反逆が全地に広まるのを妨げるために、神は人々の言語をかき乱された。たちまち、大混乱となった。これは、どのようにして起こったのか?神が、人々の頭脳から慣れ親しんだ言語の記憶〔メモリー〕を消去し、別の言語の情報をインプットなさったに違いない。ところが、彼らの性格や人格、また他のあらゆる記憶はそのままにしておかれた。神の創造力は無限である。E・G・ホワイトは、罪の除去を罪の記憶の消去と関連づけている。
キリストが昇天に際して神の御前に現れ、悔い改めた罪人のために、ご自分の血による嘆願をなさったように、祭司は、日ごとの務めにおいて、罪人のために聖所でいけにえの血を注いだ。
キリストの血は、悔い改めた罪人を律法の宣告から解放したが、しかし、それは罪を消し去るものではなかった。罪は最終的な贖罪の時まで聖所の記録に残るのである。そのように象徴においても、罪祭の血は悔い改めた者から罪を取り除いたが、罪は贖罪の日まで聖所に残った。
新生への道 : 悔い改め ③
イスラエルの人々は、サムエルの時代に神から離れてさ迷い、罪の結果に苦しまなければなりませんでした。それは彼らが、神への信仰と、神は知恵と能力をもって国を治められることを見失い、さらに、神はご自身の働きを必ず守られることを信じなくなったからです。彼らは宇宙の偉大な統治者を離れ、周囲の国々と同じような統治者を望んだのです。しかし平和を得るためには、次のようなはっきりした告白をしなければなりませんでした。「われわれは、もろもろの罪を犯した上に、また王を求めて、悪をくわえました」(サムエル記上12:19)。つまり、悪かったと自覚したその罪が告白されなければならなかったのです。彼らの忘恩の精神が彼らの魂を押さえつけ、神から切り離していたのでした。
真面目な悔い改めと改革が伴わない告白は、神に受け入れられることはできません。はっきりとした変化が生活にあらわされ、神の嫌われるすべてのものを捨てなければなりません。本当に罪を嘆いた結果はそうなるのです。私たちのするべきことは、はっきりと示されています。「あなたがたは身を洗って清くなり、私の目の前からあなたがたの悪い行いを除き、悪を行うことをやめ、善を行うことをならい、公平を求め、しえたげる者を戒め、みなしごを正しく守り、寡婦の訴えを弁護せよ」(イザヤ1:16、17)。「すなわちその悪人が質物を返し、奪った物をもどし、命の定めに歩み、悪を行わないならば、彼は必ず生きる。決して死なない」(エゼキエル33:15)と。またパウロは、悔い改めについて「見よ、神のみこころに添うたその悲しみが、どんなにか熱情をあなたがたに起させたことか。また、弁明、義憤、恐れ、愛慕、熱意、それから処罰に至らせたことか。あなたがたはあの問題については、すべての点において潔白であることを証明したのである」(Ⅱコリント7:11)と言いました。
罪のために道徳的知覚が鈍くなってしまうと、悪を行う者は自分の品性の欠陥を認めもしなければ、自分の犯した罪の恐ろしさを悟ることもありません。罪を示す聖霊の力に従わなければ、人は自分の罪に対して部分的にしか見ることができないのです。ですから、その人の告白は真面目でもなければ熱心でもありません。自分の罪を認めて悪かったと言うものの、そのたびに自分の行為に弁解をつけ加え、ああいう事情さえ起こらなかったら、自分はああもしなかったし、こうもしなかった、何もしかられることはなかったのだと言います。