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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

罪から逃れる道 第4回

2015年03月06日 | 日記

   

  罪から逃れる道 第4回

 ≪心の武装とは?≫

ところで聖書は「あなた方も同じ覚悟で心の武装をしなさい」と述べています。これはどのような意味でしょうか。一つひとつ、順序を追って理解していきたいと思います。第1にまず、イエス様はどのような肉において苦しまれ、苦難を受けられたので罪のない生活を送られたのか、それを見てみましょう。

イエス様が受けられた肉における苦しみとは何でしょうか、皆さん、イエス様の苦しみとは、日々十字架を背負う苦しみでした。毎日毎日、神様の御心に従順に生きるために、肉の苦しみを受けられたのです。イエス様がこの地上におられた時に、肉において苦しまれたというのは、神様の御心に従う時に生じる戦いでした。サタンが攻撃してきたり、誘惑してきたり、邪悪な人たちが非難し訴えたりする、それらの全てのことの中で、神様に従おうとするときに心のうちに生じる葛藤が、肉における苦難、イエス様がこの地上で味わわれた肉における苦しみであったのです。

 

私たちはどうでしょうか?私たちもそうなのです。私たちも清く聖なる者として生きようとするならば、肉の苦しみを受けます。肉における苦しみ、肉の苦しみとは、罪と戦うときに生じるのです。私たちが罪を捨てようとしないで、罪と妥協していくならば、このような苦しみを受けることはありません。私たちは罪を防ごうとしないなら平安なのです。問題は何も起きません。ところが、私たちが罪と戦おうとするとき、私たちには苦しみが生じるのです。私たちがきっぱりと神様の御心にかなって歩もうとするなら、そのときに私たちの負う十字架はあるのです。私たちの罪への傾向、私たちのうちにある罪の性質であったり、欲情であったり、私たちが過去に行っていた悪い習慣だったり、私たちがそういったものを捨てようとするときに戦いがあり、そうしたものを十字架につける苦しみを経験するのです。それが、私たちが背負う十字架、肉における十字架だとパウロは述べているのです。

 

皆さん、クリスチャンもそうでない人も、病気にかかったり、事故にあったり、人と会って気を遣って疲れたりとか、どこかに行って体が疲れたりとかします。そういったものを肉における苦しみ、十字架と言うならば、ここでどうして特別に聖書が語る必要があったのでしょうか、クリスチャンもそうでない人も、同じように、疲れたり苦しんだり悩んだり、そういったことは当然あることなんです。しかし十字架を負う生活とは、私たちが自我を放棄し、罪と戦って勝利するために心の中で葛藤する、そのような戦いを始めたときに生じる肉の苦しみなのです。そのような戦いが、十字架による肉の苦しみと聖書は述べているのです。


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