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ひまわりさんより(2月12日)
長男から連絡があって、「ある有名な書家の書を送ったからどこかに飾ってほしい、50万円はする作品だから」と言ってきました。昨夜届いたので開けてみたら、なんのことはない、長男の書いたものでした。どこかで、ひそかに習っていたようです。上手なのか下手なのか、私にはさっぱりわかりませんし、洋室ばかりの家にはそぐわないのですが、せっかくなので飾ってみました。(ちなみにこの家には、美術館のように額を飾る専用のレールと吊るす器具があちこちについています)。書の意味は、竹はどんなにびっしり生えていても水はその間を流れていく、山はどんなに高くてもその上を雲は飛んで行く、というようなことらしいです。
私は、長いこと聖書の真理を知りたいと思ってがむしゃらにやってきたのですが、そんなこととは全然次元の違う世界で、ある時、聖書の真理は私の心に流れ込んできたのだと思います。人間の思いをはるかに超えて、神様の世界は広がっている、私はこの書の言葉の意味を知って、そんなことを感じました。
イエス様に従うとは 8
しかし、イエス様は言われました。「自分を捨て、自分の十字架を負うてわたしに従ってきなさい」と。イエス様に従うということは、自分を捨てるということなのです。自分の意志も、自分の欲望も否定することです。世に対する私たちの願望を捨てることです。何でも一番になりたいという願望を捨てることであります。イエス様こそが、真のキリスト者の模範であります。あのような暗い状態で、イエス様は十字架にかかられました。そして、恐るべき苦しみを味わわれました。その時、誰も突き破ることのできない闇でもって、父なる神様は十字架を覆われました。
この時の、イエス様の選択肢は何だったでしょうか。自分は失敗した、ということを認めて、家に帰るべきだったのでしょうか。あるいは、最後まで耐え忍ぶべきだったのでしょうか。そこには、勝利のしるしは何も見えず、彼の任務はうまくいかなかったかのように感じられました。彼の犠牲を、本当に正しく評価し、感謝している人間を、その時見いだすことはできなかったのです。