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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

救いの全行程を示す聖なる幕屋  第16回

2016年07月02日 | 日記

ご自身が永久に失われるがあっても、私はこの人類の救いのために代わりに死ぬことで、人類の罪の代価を代わりに支払ってくださるという素晴らしい愛を示されたのです。私達は子供に対する親の愛を通して、わずかに犠牲的な愛を垣間見ることができます。ですが、イエス様の死の選択は、再び生きることができるという希望が全くない恐るべき死の恐怖の中でなされました。それゆえに、全く異なったものでした。人間が罪を犯しても、悔い改めて信じるときは、その罪の代価を払わずに許しを受けることができるのは、イエス様がその対価をすでに十字架の上で払って下さったおかげです。たとえ、人類が堕落したとしても、彼の愛は決して人類が滅びるままにしておくことが出来ませんでした。全宇宙の天使たちは、十字架上で示されている愛を目の当たりにしながら胸を打たれたのです。どれほど驚くべき愛なのでしょうか!この愛をどのように理解して、その愛にお答えすればいいのでしょうか!!

 

読者の皆さん!イエス様が、私たち自身の罪のために死なれたという事実を深く考えてみてください。十字架の上で行われた犠牲と死のために、私たちに値なしに赦しと救いの希望が与えられたという事実を忘れないでください。また、人類のための値なしの赦しと救いが用意されるために払われた対価は、計り知れないということを忘れないでください。それは、神の御子、イエス·キリストの尊い血潮です。十字架は、ショー(Show)ではありません。ご自身の生命までも捨てるほどの深い愛の顕示です。私たちは2000年前にカルバリーの丘に立ってはいません。ですが、だからといって当時の人々がイエス様を十字架にかけたのであって、私はイエス様を殺したりしていないと言うことはできません。私たちの罪がイエス様を十字架につけたのです。イエス様の死は、聖なる天使たちの命であっても代わりとなるようなものではありませでした。またどのような殉教者の死をもっても、私たちに永遠の命の得る機会を与えることはできないのです。

 

しかし、イエス様の死は、私たち人類に再び永遠の命を与えるために死なれた贖いの死でした。罪祭はまさにこの感動的な事実を私たちに教えているのです。イエス·キリストの十字架を見上げて、その意味を理解するようになる時に初めて、私たちは信仰を持つことができます。その信仰は、単に知的な理解と同意ではありません。その信仰は、私たちの生涯を捧げ、神様に仕え、またそうせずにはいられない愛によって働く信仰なのです。ですから聖書は、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」と言われているのです。これこそ聖所に示されている神様からのメッセージの中心です。

 


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