真正への道 8 キリストにある成長 ⑩
救い主のみかたちをいちばんよく反映したといわれる愛された使徒ヨハネでさえ、生まれつき美しい性格の持ち主ではありませんでした。彼は、差し出がましく名誉心の強い人でした。そればかりでなく血気にはやって、何か害でも受けるとすぐ怒り散らしました。けれども、高潔なキリストの性格を見せられたとき、彼は自分の欠点を知り謙遜になりました。神のみ子の日常生活に接して、力強さと忍耐深さ、権威と優しさ、犯しがたい尊厳を持ちながらも謙遜であるというその姿をながめて、彼の魂は賞賛と愛で満たされました。日一日と、彼の心はキリストに引きつけられ、ついに、主を愛するあまり自分を忘れてしまいました。彼の怒りやすい、野心満々の気質はキリストの感化力に屈服し、聖霊の更生力が彼の心を新しくしました。つまり、キリストの愛の力が性格を一変させてしまったのです。これは、イエスと一つになった確かな証拠です。キリストが心のうちに住まれるとき性格全体が変化し、キリストの霊、キリストの愛が心を和らげ、魂を制御し、思想や欲求を神と天に向けるのです。
主に会う備えをせよ ⑩
しかも、私が考えていた信仰による義と、あの、十字架上の強盗や、放蕩息子の救いとは、決定的に違うところがあることも知りました。彼らは、神から〈父から〉離れた自分たちの生活が、いかにみじめであるかを知り、すべてに行き詰まり、絶望し、絶体絶命のギリギリの地点で、自分の全存在をかけてキリストのもとに行ったのです。それにくらべ、私の方は、まだたっぷりとこの世に未練を残し、この世の安楽も、天国も両方得ようとするようなものでした。私の救いへの願望そのものは偽りではなかったとしても、まだ自分の一切をあげての叫びではなく、「あわよくば」という程度のものでしかありませんでした。
その後私は、いろいろな出来事を通して、自分の神様への不服従、愛のなさ、自己愛の性質が見せられてきました。そしてある時、私なりに、パウロの言う、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ローマ人への手紙7章24節)という所まで追いつめられ、死のような、すべてが停止した状態を通って、神の子として、新しく生まれる、という経験へと導かれました。それは聖書の言う、「もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに彼の復活の様にもひとしくなるであろう。わたしたちはこの事を知っている。私たちの古き人はキリストとともに十字架につけられた」(ローマ人への手紙6章5節)という経験でした。