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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

新生への道 8 キリストにある成長 ⑫

2013年10月23日 | 日記

 


 新生への道 8 キリストにある成長 ⑫

 主の昇天後、彼らは集まって、イエスのみ名によって天の父に熱心に願いと祈りをささげていました。厳粛なうやうやしい気持ちをもって頭をたれ、確証の言葉をくり返しながら祈っていました。「あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう」(ヨハネ16:23、24)。「キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなしてくださるのである」(ローマ8:34)という確証をもって、彼らは信仰の手を高く高く伸ばしたのです。こうしてキリストが、「あなたがたのうちにいる」(ヨハネ14:17)と言われた慰め主、聖霊がペンテコステのときに彼らに与えられたのです。キリストは「わたしが去っていくことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたのためにつかわそう」(ヨハネ16:7)と言われましたが、それ以来、キリストは聖霊を通して常にその子らの心のうちに住まれるのです。こうして、彼らは、この地上に主がおられたときよりいっそう近く、主と一つになることができたのです。内住されるキリストの光、愛、そして力が弟子たちから輝き出たので、人々は驚き、「不思議に思った。そして彼らがイエスと共にいた者であること」(使徒行伝4:13)を知るようになったのです。

      主に会う備えをせよ ⑫

私は、自分が最も大切にしていた自己愛の心を指摘され、それをささげた時、その時点での自分のすべてが神に受け入れられたことを知り、自分が神の子として、今までとは全く違った神様との関係に入れられたことを感じました。そして、それが私にとっての信仰による義の経験だと思いました。信じこみや、思い込みの義ではなく、自然に、自分が神様と結び付けられたことを体験できたとおもいました。

 信仰による義とは、確かにただ信じることによって救われることですが、それは、自分が全く無力であり、自己信頼の思いを捨てさせられてはじめて得ることができるものです。他のいっさいの道が閉ざされ、切羽詰まった時、神様のみ言葉が逃げられないような形で臨み、救いを与えるのです。それは決して、御言葉にしがみついたり、御言葉を信じようとする強い意思などではなく(そのような時期は通らなければならないとしても)たしかな、内なる証として、神の子であることを信じさせられていることです。神様ご自身が、私たちの心に置いて下さる救いの確かさ、動かない平安、神様との生きたつながりを持つこと、それが信仰によって義とされる、ということです。そして、この経験の上にのみ品性の実が実るのだと思います。

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