福音の力を体験せよ 83 (我が家で初めて夏を越したシクラメンが咲きました)
ある人たちは、「イエス様はテレビを知らなかったので、現在この世にあふれている罪悪を知り得なかっただろう」と言います。しかしイエス様は、人が話し、考え、行動したあらゆる罪悪を認識なさいました。私たちを義なる者とするために、イエス様は罪そのものとなられる必要があったのです。イエス様は、神の律法を犯したことの恐るべき結果を味わわれましたが、それは、全人類の罪悪が彼にのしかかったためでした。
“さて、栄光の主は、人類のあがないとしていま死なれるのであった。そのとうとい生命をささげるに当たって、キリストは勝利の喜びによってささえられなかった。すべてが重苦しく陰うつであった。キリストに重くのしかかっていたのは、死の恐怖ではなかった。言い表しようのないキリストの苦悩をひき起こしたのは、十字架の苦痛と恥辱ではなかった。キリストは受難者たちの君であった。しかし、主の苦難は、罪の害毒についての意識、すなわち人間は罪と親しむことによってその無法さに対して盲目になったことを知られたからであった。罪が深く人の心にくいこみ、その力をたちきろうとする者が少ないのをキリストはご覧になった。”(DA752)
主の幕屋の中へ 17
ねじ曲がった民の救い
このような状況の中で、神様は、エレミヤを通してこう語られました。
「 主からエレミヤに臨んだ言葉はこうである。『主の家の門に立ち、その所で、この言葉をのべて言え、主を拝むために、この門をはいるユダのすべての人よ、主の言葉を聞け。万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、あなたがたの道とあなたがたの行いを改めるならば、わたしはあなたがたをこの所に住まわせる。あなたがたは、”これは主の神殿だ、主の神殿だ、主の神殿だ”という偽りの言葉を頼みとしてはならない。 もしあなたがたが、まことに、その道と行いを改めて、互いに公正を行い、寄留の他国人と、やもめをしえたげることなく、罪のない人の血をこの所に流すことなく、また、ほかの神々に従って自ら害をまねくことをしないならば、わたしはあなたがたを、わたしが昔あなたがたの先祖に与えたこの地に永遠に住まわせる」(エレミヤ7:1~7)
しかし、イスラエルは、聖所とその奉仕に対する神様の大きな目的が、自分たちを通して成就されるようにするどころか、むしろ、その目的を完全に曲解させました。聖所の奉仕を通して、神様は、どれほど彼らの心に住むことを願われ、どれほど彼らを聖なる品性に変えて、彼らをこの世にあって、ご自分の「宝の民」(申命記26:18)としたいかと願われましたが、彼らはそれに失敗してしまいました。むしろ、自分たちの罪を手軽に赦し、汚れた行為を隠す手段として利用するだけでした。