昨年末から家の中のものを整理していたら妻の養父が持っていた荻原井泉水(1884~1976)の著した古い本が数冊でてきた。その養父は「層雲」に属し、作句中の老いた姿は私の目の裏側にある。今も家に遺されている井泉水の掛け軸や色紙、同じ層雲に属していた山頭火の短冊などは、養父が作句にのめりこんでいた時代を窺わせる。
遺された古本の一つに「俳句の手」昭和12年発行、B6判、356Pがあり、副題に「手ほどきより奥の手まで」とある。俳句は一句も詠んだ経験のない私だが、その副題にほだされて本を開いてみた。
「まず掴め」と井泉水は言う。
私はハッとした。これは絵を描くことを始める時の心得と同じではないか。
私は教室で
「先ず描きたいなと思うものに出会ったら絵は半分以上できあがったようなものだ」 と言ってる。
絵の素材との出会いである。
「先生、これは絵になりますかねえ」と写真を持ってこられる方に対して私は、
「その写真の何処に惹かれましたか」とこちらから尋ね、その答えに少しでもチカッと光るところがあれば「それは絵になりますよ」と描くことを薦める。所詮、絵を描く稽古なので惹かれるものがあるかどうかは二の次でよいのだが、絵を描く出発点は対象の何かに惹かれているものが無ければ、完成まで気が持たない。
井泉水は「片手でよいから掴んだら握り締めよ」と言う。
これは絵でいうスケッチのようだ。シャカシャカと対象を描き取るときの気持ちは、この対象を作品にする時は、構図や色のポイントはこうしようああしようと思い巡らし、最初にこれを描いてみようと思ったときより表現のありようについて深かく考えるようになる。この思い巡らしは対象を握り締めているという言葉に合致する。
次に井泉水は「両手で掴め」と言う。これは、二つの別々の角度から見たものを合わせて一つに見ることに、自然の立体感がでると。
更に、井泉水の言葉は、
「笊(ザル)で抄うな、素手で掴め」
「素材を箱に入れ、箱の外を見よ」と言ったように次々と俳句の心を説き明かす言葉が続く。
私はこの本を読んで俳句の虜になるのではなく、絵の心を説き明かしてくれているようで、ひょっとすると絵の専門家が絵の心を説き明かしてくれているより、上手く説いているようにさえ思わせる。
井泉水は五七五の枠からはみ出した人、言い換えれば俳句文学を進化させた人である。今からじっくりこの本を読んで行こうと思う。伝統ある五七五の約束、あるいは掟といえるものからはみ出す気持ちに至ったところを知りたい。私も実は今の自分の作品に飽きているから、何とかしたいと思っているのだ。
遺された古本の一つに「俳句の手」昭和12年発行、B6判、356Pがあり、副題に「手ほどきより奥の手まで」とある。俳句は一句も詠んだ経験のない私だが、その副題にほだされて本を開いてみた。
「まず掴め」と井泉水は言う。
私はハッとした。これは絵を描くことを始める時の心得と同じではないか。
私は教室で
「先ず描きたいなと思うものに出会ったら絵は半分以上できあがったようなものだ」 と言ってる。
絵の素材との出会いである。
「先生、これは絵になりますかねえ」と写真を持ってこられる方に対して私は、
「その写真の何処に惹かれましたか」とこちらから尋ね、その答えに少しでもチカッと光るところがあれば「それは絵になりますよ」と描くことを薦める。所詮、絵を描く稽古なので惹かれるものがあるかどうかは二の次でよいのだが、絵を描く出発点は対象の何かに惹かれているものが無ければ、完成まで気が持たない。
井泉水は「片手でよいから掴んだら握り締めよ」と言う。
これは絵でいうスケッチのようだ。シャカシャカと対象を描き取るときの気持ちは、この対象を作品にする時は、構図や色のポイントはこうしようああしようと思い巡らし、最初にこれを描いてみようと思ったときより表現のありようについて深かく考えるようになる。この思い巡らしは対象を握り締めているという言葉に合致する。
次に井泉水は「両手で掴め」と言う。これは、二つの別々の角度から見たものを合わせて一つに見ることに、自然の立体感がでると。
更に、井泉水の言葉は、
「笊(ザル)で抄うな、素手で掴め」
「素材を箱に入れ、箱の外を見よ」と言ったように次々と俳句の心を説き明かす言葉が続く。
私はこの本を読んで俳句の虜になるのではなく、絵の心を説き明かしてくれているようで、ひょっとすると絵の専門家が絵の心を説き明かしてくれているより、上手く説いているようにさえ思わせる。
井泉水は五七五の枠からはみ出した人、言い換えれば俳句文学を進化させた人である。今からじっくりこの本を読んで行こうと思う。伝統ある五七五の約束、あるいは掟といえるものからはみ出す気持ちに至ったところを知りたい。私も実は今の自分の作品に飽きているから、何とかしたいと思っているのだ。