10数畳の広さだろうか、日当たりの良いアトリエに通されました。スケッチと写真がびっしりと納められた本棚に囲まれています。すぐ隣の部屋が寝室になっており、これまた仏教や石仏の本がびっしりと納められた本棚に囲まれています。
「あなたの個展の案内状は、ちゃんとここにとってありますよ」
と、すっと本棚から取り出して下さった。すっかり恐縮してしまったのが正本さんとの会話の始まりでした。
正本さんは1921年生まれ、絵の好きな少年でした。長じて徴兵検査をパスし、入営します。戦争は太平洋戦争となります。周りの者は次々と外地へ行き散っていく中、正本さんは不思議にも内地に残ります。鹿児島の地で、やりきれない気持ちのまま終戦を迎えました。若松にもどり生活のため就職してサラリーマンの道に入ります。職がきまるとすぐ絵を描きたい気持ちが持ち上がり独歩で始めます。当時、白い絵具がないので天花粉を菜種油で分散して代用したとのお話でした。
1948年東光展に出品し初入選、以後入選が続きます。日展への出品も始めます。1956年新世紀美協会発足と同時に出品を始め、入選し会員に推挙されます。このように精力的な中央展への出品で、生涯の出会いが生まれました。それは、展覧会に赴いた際の宿の直ぐ近くでの、同じく宿をとっていた刑部人(おさかべじん1906~1978、)との出会いです。軽く挨拶をして後、同じ展覧会に来ていたことが分かって話しが進み、弾みます。
刑部画伯はヨーロッパの新しい絵画の流れに憧れは持ちながらも
「奈良や京都の風景が10年かけても描けないのに数ヶ月ヨーロッパに滞在できたからといってバルビゾンの人々がフォンテンブローの森を生涯描いたようにはいかない」
といって、油絵というヨーロッパの画法を追求しながらも生涯を日本の風景を描くことに捧げた画家です。徹底した現場での写実です。
正本さんはそんな画伯の姿勢に惹かれ、1972年、画伯を九州のスケッチ旅行に招きました。耶馬溪へのスケッチに同道しました。現場で画伯の筆さばきをつぶさに見せてもらい感動しました。以後、正本さんは刑部画伯に心酔し、たびたびスケッチ旅行に同行するようになります。正本さんの作品に「奥入瀬」や「十和田湖」の風景が多いのはそんな背景があります。
「あなたの個展の案内状は、ちゃんとここにとってありますよ」
と、すっと本棚から取り出して下さった。すっかり恐縮してしまったのが正本さんとの会話の始まりでした。
正本さんは1921年生まれ、絵の好きな少年でした。長じて徴兵検査をパスし、入営します。戦争は太平洋戦争となります。周りの者は次々と外地へ行き散っていく中、正本さんは不思議にも内地に残ります。鹿児島の地で、やりきれない気持ちのまま終戦を迎えました。若松にもどり生活のため就職してサラリーマンの道に入ります。職がきまるとすぐ絵を描きたい気持ちが持ち上がり独歩で始めます。当時、白い絵具がないので天花粉を菜種油で分散して代用したとのお話でした。
1948年東光展に出品し初入選、以後入選が続きます。日展への出品も始めます。1956年新世紀美協会発足と同時に出品を始め、入選し会員に推挙されます。このように精力的な中央展への出品で、生涯の出会いが生まれました。それは、展覧会に赴いた際の宿の直ぐ近くでの、同じく宿をとっていた刑部人(おさかべじん1906~1978、)との出会いです。軽く挨拶をして後、同じ展覧会に来ていたことが分かって話しが進み、弾みます。
刑部画伯はヨーロッパの新しい絵画の流れに憧れは持ちながらも
「奈良や京都の風景が10年かけても描けないのに数ヶ月ヨーロッパに滞在できたからといってバルビゾンの人々がフォンテンブローの森を生涯描いたようにはいかない」
といって、油絵というヨーロッパの画法を追求しながらも生涯を日本の風景を描くことに捧げた画家です。徹底した現場での写実です。
正本さんはそんな画伯の姿勢に惹かれ、1972年、画伯を九州のスケッチ旅行に招きました。耶馬溪へのスケッチに同道しました。現場で画伯の筆さばきをつぶさに見せてもらい感動しました。以後、正本さんは刑部画伯に心酔し、たびたびスケッチ旅行に同行するようになります。正本さんの作品に「奥入瀬」や「十和田湖」の風景が多いのはそんな背景があります。