平成25年8月15日(木)晴れ。今日は68回目の終戦記念日です。敗戦記念日でもあり、戦没者追悼の日でもあり、恒久不戦を誓う日でもあります。昭和20年8月15日も今日のように暑い夏、日本はポッダム宣言を受け入れたのです。「朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク 朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ・・・」の玉音放送はノイズが多く内容が聞き取り難いものでしたが、日本の負けは分かったそうです。私は修学前で記憶にありませんが、故国の礎として亡くなった約310万人の御霊を追悼するのです。
散歩の度に参拝する鳥海月山両所宮の境内の石碑が眼に止まります。山形市宮町北部班戦没者41名の慰霊と不戦の願いを刻んだものです。碑文は次の通りです。
〔平和〕われらいくさに従い大陸に海に離島に 身をすててたたかったもの 今ここに石ふみをおこし永遠の平和を誓う 民族の歴史にふかい傷跡を刻んだあの体験を ふたたびくりかえさないために 無限に貴い人間の生命と生活のよろこびまもるために 不戦のねがいをあらたにする いのち若くしてあたら戦場の花と散ったつわものたち 深夜の星を仰いで家郷を偲び肉親を思ったそのまなざしよ けれども死者の聲はよみがえらず痛ましき沈黙に 残されたものの悲しみだけがいつまでもこだまする いま仰ぐふるさとの空は澄み山は青い 不運の魂をいだく故山の平安よ永遠なれ 眞壁 仁 (昭和39年5月11日建立)
異国で星を仰ぎ家郷を偲び肉親を思った英霊を想像し胸が熱くなります。何と残酷なことです。
山形市郊外の共同墓地にです。1区画の墓地に二つの墓石が並んでいます。小さいほうの墓石の側面には次のような文字が刻まれています。
海軍兵曹長〇〇〇〇当家次男性温厚昭和十一年海軍ヲ志シ横須賀ニ入ル 初メ普通科航海学校更ニ高等科ヲ卒エ第戦艦長門ニ乗リ 次ニ最鋭駆逐艦藤波ニ移ル 折シモ戦ヒ熾烈トナリ同十九年十月二十七日台湾沖ニテ名誉ノ戦死ヲ遂グ 二十八才一子〇〇アリ 昭和三十六年四月父〇〇七十四才母〇〇七十一才
幼子の顔を脳裏に焼き付きて戦火に散って行く、耐えられない悲しみです。残された家族の哀れさも察するに余りあります。こんな悲しい思いをした家族が沢山あったのです。
霞城公園を訪れ、歩兵第32連隊の慰霊塔に手を合わせます。歩兵第32連隊の第2・3大隊は沖縄に配属され、国吉台の洞くつで過ごし、8月末に降伏した時の生存者数は50人ほどでほぼ全滅だったそうです。あの地下のガマでの戦闘を思う時言葉もありません。
国分寺薬師堂境内の雪部隊戦没者慰霊碑に手を合わせます。雪部隊は第36師団に所属し、弘前、秋田、山形出身者が多く中国華北・山西省で約5年戦い、昭和18年12月末ニューギニア島上陸。参戦したが補給路を断たれ、人肉以外はなんでも食べたそうです。隊員14,000名のうち生存者僅か2,000余名だったそうです。
口では言い表せない地獄絵図だったそうです。故国のためと言いながら尊い命を犠牲にしたのです。皆前途有為な若者です。
護国神社の裏手に塔は建っています。正面には‘陣没軍馬慰霊塔’の文字があり、戦争で犠牲になった軍馬の鎮魂の碑のようですが、以前は‘八紘一宇’の文字があったと思います。「全世界を一つの家にする」という意味の八紘一宇を日本書紀から引用し、第二次世界大戦中日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられ、全国各地に‘八紘一宇の塔’が建てられたようです。これも戦争の遺物です。
日本国憲法第9条第2項に「・・・陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とありますが、時の為政者の憲法解釈によりいつの間にか警察予備隊が自衛隊になっています。軍ではないと言い張りますが私の読解力では理解が及びません。憲法を改めることもなくこれまでできるのです。憲法を改めないと拡大解釈してもできないものが‘徴兵制度’です。これからの少子化で隊員確保が難しくなり、加えて近隣国との摩擦がいよいよ厳しくなります。若者よ!さあ!これからどうする。国を守るのはあなた方です。
(昭和38年卒 → 東北大:42年卒 → ソニー定年退職)
ご貴殿の認識には、賛同できません。
いわゆる「東京裁判史観・自虐史観」に毒され、「 WGIP 」に冒された御仁のようですね。