マクロス外伝大本営 新統合軍極東太平洋軍管区司令部

マクロスやロボット大好きなブログです。二次創作などを主にやります。

公式ではなく非公式です。

明日はうますぎWAVE

2017-07-03 20:42:02 | 日記
明日はスーパーロボット大戦OGラジオうますぎWAVEの放送時間です。
皆さん明日はうますぎWAVEを必ず聞きましょうね。

以上長田義家でした。

★出演者
杉田智知
遠藤正明
相沢舞
寺田貴信
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屈辱に耐えながらも日本の航空業界に貢献した空の侍 徳川好敏

2017-07-03 13:19:54 | 世界日本史偉人伝
徳川好敏
【生没】
1884年ー1963年
【学歴】
高等師範学校附属小学校
陸軍地方幼年学校
東京高等師範学校附属中学校
陸軍士官学校(第15期)
アンリ・ファルマン飛行学校エタンプ校(留学)
【軍歴】
【役割】
・陸軍飛行学校教官
・飛行第一連隊長
・航空兵団長
・航空兵団司令官
【階級】
陸軍中将
【家族】
徳川篤守(父親)
徳川登代子(母親)
吉井貞子(妹 吉井信照夫人)
森保子(妹 森明夫人)
徳川守(弟)
川上明(弟)
小原鈴子(妹 小原十三司夫人)
松尾光(弟)
徳川重子(妹 坪田修吉夫人)
山田雄(弟)
徳川豪英(長男 妻.和嘉子)
徳川輝尚(次男 妻.早知子)
徳川美枝子(長女 早世)  
徳川佐枝子(次女 土屋義弥の妻)
徳川久美子(三女 古月晴の妻)
徳川華子 (四女 高木恭治の妻)
徳川富美子(五女 
徳川慶篤(祖父.水戸藩主)
水谷清子(祖母.慶篤側室)
徳川篤敬(叔父.水戸家当主.イタリア特命全権公使)
徳川圀順(従兄弟.水戸家当主.陸軍少尉.団法人水府明徳会.初代会長)
徳川宗敬(従兄弟.一橋家当主.陸軍少尉.参議院議員)
徳川敬子(松浦陞.妻)
森有正(甥.保子と森明の息子)
【追記】
清水徳川家当主
【解説】
名家出身の若君
徳川篤守と登代子の長男として東京府高田馬場(現在の東京都)で生まれる。
祖父は水戸藩主徳川慶篤で実家の清水徳川家は御三家と並ぶ御三卿と言われる名門中の名門。
江戸の世であったら征夷大将軍の地位につけるかもしれないほどの名家でり父篤守は養子として家に入って当主になっていた。
好敏は小柄ながら強靭な体で運動能力に優れ、剣道は柳生新影流.水泳は向井流を極め。
学力面では理数系、技術系の学科が得意であり、後の飛行機乗りとしての技術に生かされる事になる。
屈辱と批難を浴びながらも軍人へ
好敏は優秀であるのである、皇族・華族の子供が大勢通う陸軍幼年学校に入学する。
ところが・・・・入学して間もなく家の経済的な問題で父篤守は爵位を返上する事件が起きる。
理由は父篤守が家政の経済的な行き詰まりのために融資を受けるが裁判沙汰になり敗訴したためであり。
仕方がなく爵位を返上するが・・・・・最終的に禁固刑になってしまう。
この事件が原因で、徳川一門で大問題になり好敏は批難を浴びる屈辱を味わう事になる。
その後、屈辱や批難に耐えながらも工兵科を進み 東京高等師範学校附属中学校を卒業し翌年に日露戦争が勃発し1年短縮で主席として卒業。
卒業後、日露戦争で第1軍参謀部情報将校として従軍.満州の馬賊をスパイとして育てる諜報活動の責任者となった。
航空機との出会い
その頃、航空機が発明され好敏は好敏は陸軍大尉日野熊蔵と共にフランス・ドイツでの飛行術の習得と飛行機購入の任務を与えて出張を命じられた。
好敏はフランスにわたり、パリの北方約50kmの小さな町・エタンブのファルマンの飛行学校に入学する。
陸軍士官学校で主席を取る程頭の良い好敏はオートバイを買っては毎朝学校に一番乗りしては真っ先に同乗飛行しては技術をどんどん覚え。
そして飛行機操縦免許を取得しファルマン式複葉機などを大金払って帰国する。
初飛行へ
帰国してまもなく日野と共に臨時軍用気球研究会主催のテストフライトを代々木練兵場(現在の代々木公園)を10万人の民衆が見ている中で行われた。
ところが・・・・日野大尉のグラーデ機が飛行準備態勢の際に発動機(エンジン)トラブルが発生し動かない事態が起こる。
臨時軍用気球研究会は好敏のファルマン式複葉機に離陸の許可を出す。
好敏のファルマン式複葉機にもトラブルが発生し硫酸式電池の電気に切り替える。
もしひっくり返したら硫酸を全身に浴びる事になり一生消えない傷を浴びる危険性があった。
それでも無事にフライトに成功、3分間.飛行距離3000m.滑走距離30m.高度70m.着陸距離20mと日本で初めての飛行記録を残す事に成功する。
好敏の初飛行成功は12月19日、日本初飛行の日として記録され清水徳川家は名誉回復する第1歩を築く事になった。
一方日野大尉は没落し山階宮武彦王の飛行機見学をエンジン整備で出迎えを忘れるなど協調性に欠ける行為が目立ち軍に疎まれ。
部下の失敗により軍人を辞め、民間で生活をするも病気もあり生活が困窮。
昭和20年の東京大空襲ですべてを失い、翌年栄養失調で病死する。
それも知らずが好敏は軍の航空機畑の看板として順調に引き立てられ、滋野清武らを排除し順調に出世していく事になった。
多くの日本人は知らない好敏の功績
好敏は独学と職人芸で名機を作ったり多くのパイロットを育て伊藤音次郎に飛行機を飛ぶコツとして。

離陸滑走して地面から離れたら、いっぺんに高所に登ろうとせず、空気の中に階段があると思って、一段登ったら水平にして力を貯え、一段一段と登っていくことだ

と教えたり・・・・
部下で当時陸軍軍曹で航空業界に功績を残す白戸栄之助に自作で航空機を造ったり日本初の民間飛行場を造るなどの功績を残すことになる奈良原三次を紹介して従事させるなど。

空気の階段を登るように登れ

と言う言葉は後の日本名パイロット達の合言葉になる程。
多くのパイロット達の心に刻み込んでいた。
第1次世界大戦と飛行中隊長
欧州で初めて全て根こそぎ動員の総力戦争第1次世界大戦が勃発する。
日本は日英同盟を理由にドイツ帝国に宣戦布告.中国に上陸し青島要塞を攻撃した。
好敏は気球連隊に属しておりモーリス・フールマン式飛行機からなる飛行班を指揮した。
詳細な要塞地図を軍司令部に報告したが参謀たちは航空に無知なためか信用しない。
かえって・・・航空写真の必要だと感じていた好敏は開発に情熱に燃える事になる。
ドイツ降伏後、日本陸軍最初の航空部隊が創設され初代飛行中隊長に主任する。
その後、所沢飛行機学校、陸軍航空学校教官、研究部長を歴任し陸軍航空部隊を育成。
そればかりではなく民間航空業界の発展に取り組むようになる。
名誉回復と戦後・・・そして晩年
昭和3年日本帝国政府より航空業界の功績に対し男爵の位を受け賜る。
華族復帰であり、好敏は喜び既に亡くなっていた父の墓前に報告している。
日本国内だけではなく世界からもバロン徳川.日本航空界の開祖とかつての批難が嘘みたいに人気者になる。
航空兵団司令部の兵団長になり事実上のに日本空軍の頂点になる。
陸軍中将として予備役になるが再び招集、終戦まで陸軍航空士官学校長として勤務。
昭和15年に勲一等旭日大綬章を受賞する。
戦後公職追放になってしまう。
昭和38年、78年の生涯を終えるが・・・・・・・・

その3年前。
第2次世界大戦で敵として戦ったアメリカ空軍(当時はアメリカ陸軍航空軍)から日米修好100年.日本航空50年を記念して招待状が贈られた。
75歳の老体を推して米国・ヨーロッパなどの世界旅行の旅に飛び立つ。
ライト兄弟から直接操縦を教わった事のある米国最年長のパイロット、ベンジャミン・フロア少将が終始付き添って案内される。


日本初飛行と言うけれども・・・
既に大日本帝国陸軍には気球連隊が存在しており、歴史は西南戦争に開発され。
好敏が情報将校として従軍していた日露戦争では旅順攻囲戦に投入され、戦況偵察に活躍していた。
ただ好敏は航空機専門なので別物とみてもいい。

自分の言葉
好敏は長い間死亡事故や大事故を起こさなかった名パイロットであるが、これは周到な準備と繊細な整備点検故であった。
なんたって100時間飛行機が飛ぶとエンジンを分解しエンジンの消耗度を測定し詳しく調査研究する程であるから。
航空への情熱.技術に優れるなど、誉め言葉なのか分からないが航空馬鹿と言っていいほどの飛行機好きであり情熱家です。

好敏は日本人ではあんまり知られていなかった人物ですが。
現在の日本航空業界の大きな源を造った偉大な偉人だと私は思います。
ぜひとも多くの人々に知ってもらいたいです。
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ソフトはなんでもOK

2017-07-03 11:09:31 | グルメ
私はソフトクリームはどの味も好きですよ。
チョコやバニラなどの味はなんでも好きです、なんでも好きです。
むしろ苦手な味がないくらいですよ。

皆美味しいですもんね、福島に夏行くことになったらはたけんぼのアイスが食べたいですね。
だって美味しいんだもん🎵
コメント (2)
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いろいろと苦労する対馬国主 宗義智

2017-07-03 01:54:12 | 戦国武将・戦国姫図鑑
宗義智
【諱】義智
【苗字】宗
【朝臣】平
【通称】彦三郎
【洗礼】ダリオ
【官位】
従四位下
侍従
対馬守
【生没】1568年ー1615年
【父親】宗将盛
【養父】宗義調
【母親】竜安院
【兄弟】
宗茂尚
宗義純
宗調国
【正室】妙
【子息】
宗義成
女(杉村智次室)
女(柳川調興室)
女(宗成親室)
女(古川成倫室)
女(内野助成室)
【解説】
宗将盛の息子として生まれる、兄に宗家当主茂尚。
兄にや兄義純などが亡くなり、当主になっていた宗義調も子がいないため彼の養子にやり宗家を存続する。
養父義調が隠居から復活し家督を返還する。
一方で、宗家は豊臣秀吉の九州征伐により従属する。
李氏朝鮮を服属させるようにとの命令を受け、義調や小西行長、島井宗室らと共に交渉に尽力するが思うようにいかず難航。
養父が亡くなり家督を再び継ぐが、秀吉の朝鮮出兵の和平交渉や従属作業で翻弄される事になる。
結局文禄の役では舅・小西行長の一番隊に属して自身の兵士を率いて朝鮮出兵する事になる。
対馬北端の大浦を出港し釜山に上陸し東莱など朝鮮の各地に転戦する。
秀吉の死後朝鮮から撤兵、朝鮮水軍の追撃を受けるが無事に帰国する。
西軍に属し伏見城攻撃に参加し、大津城攻めや関ヶ原本戦などに家臣を派遣するが西軍は敗北。
だが悪化した朝鮮との国交修復を迅速に進める事を考えていた徳川家康により罪に問われなかったが行長の娘で妻とは離婚している。
そして江戸期では朝鮮の和平交渉に成功し、幕府から独立した機関での朝鮮貿易をする事を許されている。

48歳没


【朝鮮出兵の宗家の状況】
小西行長 7000人
宗義智  5000人
松浦鎮信 3000人
有馬晴信 2000人
大村喜前 1000人
五島純玄  700人

【桓武平氏との関連】
平清盛
|
知盛
|
知宗
|
宗助国
|
盛明
|
盛国
|
経茂
|
頼茂
|
頼茂(父親と同じ名前)
|
尚茂
|
貞茂
|
盛国
|
貞国
|
右馬
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盛弘
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将盛
|
義智
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廃嫡された武田家嫡男 武田義信

2017-07-03 01:25:47 | 戦国武将・戦国姫図鑑
武田義信
【諱】義信
【苗字】武田
【朝臣】源
【生没】1538年ー1567年
【通称】太郎
【父親】武田晴信/武田信玄
【母親】三条の方
【正室】嶺松院
【兄弟】
海野信親
武田信之
武田勝頼
仁科盛信
葛山信貞
武田信清
黄梅院
見性院
真竜院
松姫
菊姫
【子息】
岩間正成
園光院
【解説】
武田晴信(後の信玄)の嫡男として生まれる。
13歳で元服し、1550年に今川義元の娘と結婚している。
将軍足利義輝に拝謁しび清和源氏の通字である「義」の偏諱を受けて武田太郎義信と名乗る。
信濃国佐久郡の知久氏攻めであり、この時落ち武者を300人討ち取る活躍を見せる。
川中島の戦いにおける義信の活躍は凄まじく、自軍の旗を隠し不意に謙信の本陣を襲撃し志田源四郎義時・大川駿河守高重などの家臣や旗本の過半数が討ち取られるほどである。
信玄暗殺を企てた謀反にかかわったとされ甲府東光寺に幽閉され1567年死去する。
謀反の原因は今川攻めであり、飯富虎昌共に信玄を暗殺しようとしていたが。
飯富三郎兵衛(山県昌景)の密書により露見し虎昌らが処断され自身は幽閉された。
息子正成がおり、熊本細川家に仕えている。
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尾池義辰

2017-07-03 00:35:54 | 戦国武将・戦国姫図鑑
尾池義辰
【諱】義辰
【苗字】尾池
【朝臣】源
【生没】不詳
【父親】足利義輝
【養父】尾池光永
【母親】烏丸氏の娘
【子息】
西山至之
尾池藤左衛門
尾池官兵衛
【解説】
足利義輝の息子で母親が讃岐国の豪族で横井城主の尾池光永の元に身を寄せ。
やがて横井城で義辰が生まれ、光永の養子になる。
やがて生駒氏
讃岐国高松藩藩主家生駒氏家臣となり、2000石を賜る。
その後出家し消息を絶つが、二人の息子は生駒騒動や島原の乱が起こった後細川忠利に仕え長男は西山と改める。
一方末息子の官兵衛は生駒氏の元に残りそのまま仕えた。
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