《岸和田だんじり彫り物・物語-6》



今朝の最低気温は午前6時の19.0℃。 最高気温は午後2時の21.0℃。
台風一過とはいかず、今日は終日曇り空。 北風が吹き、小寒い一日でした。

今日は散歩には出ず、一日中台風19号の被害の様子を見ていました。
首都圏にばかり目が行っていましたが、信州や東北の河川氾濫の映像…。
何も悪い事をしたわけでは無い人達が、突然の災害に見舞われる…。
被害の無かった地区の者が “頑張って下さい” と言うのも白々しく…。
気の毒で言葉が有りません
「岸和田だんじり祭り」 は元禄16年(1703年)と云いますから300年以上も前、
岸和田藩主岡部長泰(おかべながやす)公が、京都伏見稲荷を岸和田城の三の丸に
勧請(神仏の来臨を願うこと)して、城下の五穀豊穣を祈願した事が始まりだそうです。
“だんじり祭り” と云えば、何と言っても数々の彫刻が施された “山車(だし)” ですね。
高さ約3.8m、長さ約4m、幅約2.5m、重さ約4トンも有り、総欅(けやき)造りで、
すべて釘を使わずに組み立てられているそうです。
今日は “走る美術工芸品” とも云われている “だんじり” に彫られた彫刻をご覧ください。
過去に 《岸和田だんじり彫り物・物語-1~5》 をアップしています。 合わせてご覧ください。
《岸和田だんじり彫り物・物語-1》
《岸和田だんじり彫り物・物語-2》
《岸和田だんじり彫り物・物語-3》
《岸和田だんじり彫り物・物語-4》
《岸和田だんじり彫り物・物語-5》
【安宅之関(あたかのせき)】
“南加賀商工観光推進協議会・南加賀周遊” 勧進帳より…
源頼朝の怒りを買った源義経一行が、北陸を通って奥州へ逃げる際の加賀国(石川県)の、
安宅の関での物語。 義経一行は武蔵坊弁慶を先頭に山伏の姿で通り抜けようとする。
辿り着いた関で、弁慶は焼失した東大寺再建のための勧進を行っていると言う。
しかし、関守の富樫左衛門の元には既に義経一行が山伏姿であるという情報が届いており、
怪しんだ関守の富樫(とがし)は本物の山伏なら勧進帳を読めるはずと迫る。
もちろん勧進帳など無い。 弁慶は偽の巻物を広げ勧進帳の内容を創作し朗々と読みあげる。
納得した富樫は一旦通行を認めるが、ふと見た強力が義経に似ていると気付き、疑う。

とっさに弁慶は 「お前のような者がいるから疑われる」 と義経を金剛杖で打ち据える。
その気迫に押され、まさか主人をここまで激しく打つ家来はいないと富樫は関を通す。
関所から離れ、弁慶は大切な主君を打った非礼を心より詫びました。
そして一行は奥州をめざす厳しい旅を続ける。
【神功皇后譽田別命平産す】
神功皇后(170年~269年)は、仲哀天皇の皇后。
お腹に子供を抱えたまま朝鮮半島に出兵し、その際お腹に石をあててさらしを巻き、
冷やすことによって出産を遅らせたそうです。

その帰路、のちの応神天皇(誉田別皇子)を出産したと伝えられている。
泉州では凱旋した際、大阪湾に到着し、誉田別皇子を抱き、海辺を散歩したそうです。
【天兒屋根命神鏡を以って怪異を顕す】

天児屋根命(あめのこやねのみこと)は天岩戸神話や天孫降臨神話などに登場する
祭祀を司る神様として登場するそうです。
天照大御神が天岩戸にこもられた時に祝詞(のりと)を奏上した神様です。
その美しい祝詞のしらべに天照大御神は 「これまで人が様々なことを申してきたが、
未だこのように美しい言葉を聞いたことはない」 と喜ばれたという。
この事から天児屋根命は祝詞の祖神とされています。

ですが、いくら検索しても “神鏡を以って怪異を顕す” という記述に出会えません。
まぁ天児屋根命が神鏡をかざして、妖怪を退治したという神話なんでしょうが…。
この後は迫力ある彫り物をご覧ください。










今日の歩数 0歩。




台風一過とはいかず、今日は終日曇り空。 北風が吹き、小寒い一日でした。


首都圏にばかり目が行っていましたが、信州や東北の河川氾濫の映像…。
何も悪い事をしたわけでは無い人達が、突然の災害に見舞われる…。
被害の無かった地区の者が “頑張って下さい” と言うのも白々しく…。
気の毒で言葉が有りません

「岸和田だんじり祭り」 は元禄16年(1703年)と云いますから300年以上も前、
岸和田藩主岡部長泰(おかべながやす)公が、京都伏見稲荷を岸和田城の三の丸に
勧請(神仏の来臨を願うこと)して、城下の五穀豊穣を祈願した事が始まりだそうです。
“だんじり祭り” と云えば、何と言っても数々の彫刻が施された “山車(だし)” ですね。
高さ約3.8m、長さ約4m、幅約2.5m、重さ約4トンも有り、総欅(けやき)造りで、
すべて釘を使わずに組み立てられているそうです。
今日は “走る美術工芸品” とも云われている “だんじり” に彫られた彫刻をご覧ください。
過去に 《岸和田だんじり彫り物・物語-1~5》 をアップしています。 合わせてご覧ください。
《岸和田だんじり彫り物・物語-1》
《岸和田だんじり彫り物・物語-2》
《岸和田だんじり彫り物・物語-3》
《岸和田だんじり彫り物・物語-4》
《岸和田だんじり彫り物・物語-5》
【安宅之関(あたかのせき)】
“南加賀商工観光推進協議会・南加賀周遊” 勧進帳より…
源頼朝の怒りを買った源義経一行が、北陸を通って奥州へ逃げる際の加賀国(石川県)の、
安宅の関での物語。 義経一行は武蔵坊弁慶を先頭に山伏の姿で通り抜けようとする。
辿り着いた関で、弁慶は焼失した東大寺再建のための勧進を行っていると言う。
しかし、関守の富樫左衛門の元には既に義経一行が山伏姿であるという情報が届いており、
怪しんだ関守の富樫(とがし)は本物の山伏なら勧進帳を読めるはずと迫る。
もちろん勧進帳など無い。 弁慶は偽の巻物を広げ勧進帳の内容を創作し朗々と読みあげる。
納得した富樫は一旦通行を認めるが、ふと見た強力が義経に似ていると気付き、疑う。

とっさに弁慶は 「お前のような者がいるから疑われる」 と義経を金剛杖で打ち据える。
その気迫に押され、まさか主人をここまで激しく打つ家来はいないと富樫は関を通す。
関所から離れ、弁慶は大切な主君を打った非礼を心より詫びました。
そして一行は奥州をめざす厳しい旅を続ける。
【神功皇后譽田別命平産す】

神功皇后(170年~269年)は、仲哀天皇の皇后。
お腹に子供を抱えたまま朝鮮半島に出兵し、その際お腹に石をあててさらしを巻き、
冷やすことによって出産を遅らせたそうです。

その帰路、のちの応神天皇(誉田別皇子)を出産したと伝えられている。
泉州では凱旋した際、大阪湾に到着し、誉田別皇子を抱き、海辺を散歩したそうです。
【天兒屋根命神鏡を以って怪異を顕す】

天児屋根命(あめのこやねのみこと)は天岩戸神話や天孫降臨神話などに登場する
祭祀を司る神様として登場するそうです。
天照大御神が天岩戸にこもられた時に祝詞(のりと)を奏上した神様です。
その美しい祝詞のしらべに天照大御神は 「これまで人が様々なことを申してきたが、
未だこのように美しい言葉を聞いたことはない」 と喜ばれたという。
この事から天児屋根命は祝詞の祖神とされています。

ですが、いくら検索しても “神鏡を以って怪異を顕す” という記述に出会えません。
まぁ天児屋根命が神鏡をかざして、妖怪を退治したという神話なんでしょうが…。
この後は迫力ある彫り物をご覧ください。










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