ひげ爺さんのお散歩日記-3

日々新た、今日は今日、明日は明日の風が吹く

『被爆76年目・広島原爆の日』

2021-08-06 12:24:18 | 日記
         『被爆76年目・広島原爆の日』



 写真を趣味にしていた父が撮った原爆ドームです(パネルにして母の部屋に飾ってあります)

 今朝の最低気温は午前6時の26.2℃。     最高気温は午後2時の33.5℃。
今日は晴れたり曇ったり、時折小雨が降ったり、また雲間から日が差す時間帯も有りました。
曇りがちのお天気ですが、気温も湿度も高く、不快指数の高い一日です。


 今日は76年目の “広島原爆の日” です。
いつもなら8時15分、テレビの “黙祷” の声に合わせて手を合わせるのですが、
今朝はブロック注射をうちに行き、ちょうどクリニックの駐車場に着いた時でした。
カーラジオの “黙祷” の声に合わせ、核廃絶を願い原爆で亡くなられた方々のご冥福をお祈りしました。 
今年は新たに4,364人名の方の名前が、原爆死没者名簿に記されたそうです。
4年前の7月に亡くなった母の名前も名簿に記入されているはずです。

 一昨年母の3回忌を行った時に先祖代々のお墓に納骨したのですが、
その時はまだお墓に母の名前は刻まれていませんでした。
お墓の業者さんに記入を頼んで帰り、後日業者さんから母の名前が刻まれたお墓の写真が届きました。
あれからまだ一度もお墓参りをしていないのです。 
今年はぜひ帰省してお墓参り(名前の確認)をしたかったのですが、コロナですもんねぇ。


 式典で子ども代表が読み上げた “平和への誓い” に感動しました。
クリニックの待合室で携帯ラジオを聞いていました。

 【平和への誓い】…  私たちには使命があります。
あの日、広島で起きた悲惨な出来事。そのことを知り、被爆者の方々の思いや願いを聞き、
考え、平和の尊さや大切さを、世界中の人々や次の世代に伝えなければならないのです。

昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。赤く燃え、真っ黒に焼け焦げて
ボロボロになった広島の町。「兄が死ぬより、わしが死んだ方がよかった。」、
大切な人が亡くなった悲しみと生き延びた者の苦しみには終わりがありません。

心に深く傷を負った被爆者は、それでも前を向き、
「僕ら若人の力によって、きっと平和な世界を築き上げてみせる。」と決意しました。
悲しみや苦しみを抱えながらも、被爆者の方々は生きることを決して諦めず、
共に支え合い、広島の町の復興に向け立ち上がりました。

本当の別れは会えなくなることではなく、忘れてしまうこと。私たちは、犠牲になられた方々を
決して忘れてはいけないのです。私たちは、悲惨な過去をくり返してはいけないのです。
私たちの願いは、日本だけでなく、全ての国が平和であることです。
そのために、小さな力でも世界を変えることができると信じて行動したい。
誰もが幸せに暮らせる世の中にすることを、私たちは絶対に諦めたくありません。

争いのない未来、そして、この世界に生きる誰もが、心から平和だと言える日を目指し、努力し続けます。
広島で育つ私たちは、使命を心に刻み、この思いを次の世代へつないでいきます。
                     広島市立袋町小学校   6年 伊藤まりあ
                     広島市立五日市東小学校 6年 宅味義将


 それにひきかえ… 菅首相の “式典あいさつ” 情けないぞ!
クリニックから帰った後、録画しておいた “平和記念式典” の首相あいさつを見ていました。
すると… 最初のつっかえ、噛み噛み… おい、しっかり読めよ… と思っていたら…
そのうち首相が話す言葉と、テレビ画面下に流れるテロップの文字が合わなくなり…
しばらくすると、テレビのテロップが出なくなりました。 ん?菅首相、間違えて読んだ?
もしかして??? と思って検索してみると…

〖首相、平和記念式典あいさつで原稿読み飛ばし…原爆を「ゲンパツ」とも〗
2021/08/06 10:56読売新聞… 菅首相は、6日に広島市で行われた平和記念式典でのあいさつで、
用意していた原稿を一部読み飛ばした。
「日本は非核三原則を堅持しつつ、核兵器のない」と述べた後、「世界の実現に向けて力を尽くすと
世界に発信した。我が国は、核兵器の非人道性をどの国よりもよく理解する唯一の戦争被爆国であり、
『核兵器のない世界』の実現に向けた努力を着実に積み重ねていくことが重要だ」などの部分を読み忘れた。
あいさつ冒頭には、広島市原爆死没者慰霊式の名称について、「原爆」の部分を「ゲンパツ」と述べ、
直後に言い直した。 首相は式典後の記者会見で、「あいさつの際に一部読み飛ばしてしまい、
この場を借りておわび申し上げる」と陳謝した。
 雑感… 書いてある原稿を読むだけなのに… 
一国の首相が小学生にも劣るわ  菅さん、しっかりせえや! 情けないのぅ、愛想が尽きるわぁ 

 

 以下の文章は被爆者二世として “原爆を語り継ぐ” という意味を込めて、
毎年 “広島原爆の日” に私の子供の頃の記憶を紹介しています。


 “あの日(原爆投下の日)も良う晴れて暑い日じゃった”… 
当時の様子を語る人がまず最初に口にする言葉です。
そして原爆の事を地元の人は “ピカドン” あるいは単に “ピカ” と言います。
ピカッと光ってドンと破裂した事からそう呼ばれたのです。 
それほどすさまじい閃光だったのでしょうね。
母も8月6日になると 「ピカの日も良う晴れて暑い日じゃった」 と言っていました。
ですが、母から聞いたのはその言葉だけです。 辛い体験を思い出したくなかったのか、
原爆についてはあまり話したがらない母でした。

 私はその日から2年後の8月に生まれているので、もちろん直後の様子は知りません。
ですが、物心付いた5~6年後の光景は記憶に有ります。 
住んでいた近くに法正寺(ほっしょうじ)という寺が有り、当時小学低学年だった私と友達は
倒れた墓石の上を、飛び跳ねて遊んでいる光景です(罰当たりな事です。
当時はなぜこんなに大きな石が倒れているのか、気にもしないで遊んでいました。
後年、原爆の爆風で倒れたのだと知りました。

  土を掘っていて、熱で溶けて飴のようになったガラスも良く見かけました。
今でも掘り起こせば出て来るのではないでしょうか。

  広島駅前の橋のたもとで… 戦争で片足を失った傷痍軍人が白装束でアコーディオンを弾き、
物乞いをしている光景。 ♪ここはお国を何百里…離れて遠き満州の…

 銭湯の女湯… 顔から肩や背中にケロイドのある人が、人目を気にしながら入浴している光景。
当時内湯の有る家は少なく、ずい分恥ずかしい思いをしながらの入浴だったと思います。
こんな事も思い出しました… 父が働いていた会社の社長さんの家に行った時の事。
社長の親せき(女性)の方に出会い 「お父さん、さっきの人、鼻緒(はなお)が切れてる」
と言ったのです。 その人は顔の半分がケロイドで、鼻がつぶれたようになっていたのです。
私は鼻緒の意味も知らずに、ただ鼻からの連想で鼻緒と口走ったのです。 
父の妹(私の叔母)も被爆者で肩に酷いケロイドが有るのです。
父に目から火が出るくらい叩かれました。 
 
 被爆前の町の様子を知らない私は、世の中はこういう物だと思って受け入れていました。 
戦争に行っていた父以外の親戚は皆んな被爆者でしたが、原爆については殆んど口にしませんでした。 
うすうす近い過去に何か有ったとは気付いていましたが、何が有ったのかを訊くのも憚られる雰囲気で、
私から積極的に聞く事はしませんでした。 

 そうそう、知り合いのお姉さんが原爆に遭っているという理由で、
結婚を断られたと憤慨して話している両親や親戚の光景も思い出します。 
この時はもう原爆が落とされた事は知っており、私たちは何か重い物を背負わされて
いるなと感じたものです。
幸い被爆者である母や親戚の人たちは皆んな長生きしていますが、まだ若かった頃は、
身体に不調が有るたびに原爆と結び付けて、得体の知れない不安に怯えていました。

 いま、広島に落とされた原子爆弾の数千倍もの威力が有る原爆、水爆が、
世界に1万5千発存在するとか。  隣国ではその開発にトチ狂っているし…
誰か気の狂った奴がボタンを押さないとも限らない…
原子力発電にしても1度事故が起こればその処理に数百年もかかる… 原子力なんて要らない。


 今日の花は “広島の市花” 「キョウチクトウ(夾竹桃)」 です。

広島を故郷に持つ者にとっては 「夾竹桃」 は特別な花です。
昭和20年、広島市に原爆が落とされ、70年間は草木も生えないと言われた焦土に、
いち早く 「夾竹桃」 の花が咲き、広島復興のシンボルとしてこの花が市花に選ばれました。
原爆ドーム周辺にも沢山植えられています。


復興のシンボルであるこの花は、一方で猛毒を持つ木でもあります。
調べてみると木全体に “青酸カリ” より強力な毒 “オレアンドリン” という
劇毒を持っていて、体内に入ると心臓発作や下痢、痙攣などを引き起こすそうです。
実際にキャンプをしていて、この枝で作った箸で中毒を起こしたとか、
バーベキューの串に使い、死者が出た事故などが報告されていました。
原爆投下、復興のシンボル、劇毒を持つ花 …何か皮肉な物を感じます。


以前、俳句を読まれる沖縄にお住いのブログ友達が
【夾竹桃 フェンスを隠し 基地隠し】 という句を詠んでおられました。
ある俳壇で入選した句だそうです。 「夾竹桃」 が基地のフェンス周りに植えられ、
基地を隠しているように思える …との句ですが、ここにも「夾竹桃」が…。


私は 「赤い夾竹桃の花」 より 「白い夾竹桃の花」 の方が好きです。


この木は乾燥や公害に強く、街路樹などで良く見掛けます。
「夾竹桃」 の名前は、葉がタケに、花がモモに似ていることにちなむそうです。
原産地はインド北部で、日本へは中国を経て江戸時代中期に伝来したそうです。
コメント (6)
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