日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

クールジャパン(4/5)

2011-02-21 15:19:52 | Weblog
 昔は、何度も、「死」と言うのを肌で感じてきた様に思う。
 小学校低学年の時、ネズミ採りで採れたネズミを、入れ物ごと水の中に入れて、殺していた。それを(今は亡き)父がしていて、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」と何度も言っていたのを思い出す。「今度生まれて来る時は、人間に生まれて来なさいね・・・」何て、父が言っていたのを思い出す。
 その(田舎の)土地では、人が亡くなると、皆の前で火葬していた。焼いている途中で煙の色が変わって行き、今どうなっているのか、焼ける音を聞きながら子ども同志で言い合っていたのを思い出す。
 又、法事で皆が集まると、ニワトリが殺されて、その場で、それが食事に出されていた。お腹の中に、小さい卵から大きい卵まで一杯入ったのを初めて見た時は、スゴク感動してしまった。
 日本人は、神社に行くと、「ニ拝二拍手一拝」する。食事の前でも、多くの人が、一拝一拍手までは行かなくても、手を合わせて、「いただきます」と言う。これって、貴方の命を頂きますってことで、生き物の命をもらって自分が生かされることに対して、感謝の気持ちを現わしている言葉なのである。つまり、ヒトは、命あるものを食べて生かされている。古来より、日本人は、生きているものには、皆、魂が宿っていると考えてきているのだ。
 そんな命の宿ったものを食べる時、それに、しばしば丁寧語の「お」を付ける。お米、おかず、お汁、お酒、お菓子、お茶・・・など。
 ご飯粒を一粒でも残すと、親から「目が潰れる!」とよく言われてきた。又、父から、次の話を聞かされていた・・・→戦国時代のある武将(ウロ覚えだが、秀吉だったかなあ・・・)の子どもが、ついだ食事をいつも少し残していた。武将の父親から、「そんなことでは、天下は取れん!自分の腹の状態も分からん様では!」と言われていた。で、やはり、父親亡き後は、天下を取れずに、あっけなく滅んでしまった。
 又、昔、私は、ニンジンが嫌いで(今は、大好き)、よく残していた。すると、父から、何度も聞かされた・・・→乃木大将は、小さい時、ニンジンが嫌いだった。それを残すと、両親が、毎日それを出し、それを食べないと他の物を出さなかった。・・・で、根負けして、食べる様になった。
 又、日本人は、食べ終わった時に、「ご馳走様でした!」と、一拝一拍手までは行かなくても、やはり自然と手を合わせて食事を終えることが多い。これって、元々は、字の如く、食事を作ってくれた人、食材を生産した人に対する感謝の言葉なのだ。
 ハングルにも、食前に「チャール・モゲッスムニダ!」、食後に「チャール・モゴッスミニダ」と言う言葉があるけど・・・。
 戦後、「陰膳」と言う言葉が薄れてきている。
 父は、家族で夕食をする時、先祖の箸を必ず据えて、晩酌する前に、「親様、どうぞお上がり下さい!」と言っていた・・・(今考えると、子ども達にスゴイ教育をしてくれていたのだなあと思う・・・)
 更には、日本語には、「もったいない」と言う、素晴らしい言葉がある。 2005年3月に、「もったいない」の日本語が、環境保全の合言葉として世界的に知られる様になった。そこでは、日本語の「もったいない」には、消費削減(リデュース)、再使用(リユース)、資源再利用(リサイクル)、修理(リペア)の4つのRが含まれているとのこと。
 限りある資源を有効に使い、みんなで公平に分担すべき。そうすれば、資源をめぐる争いで戦争を起きないって感じで・・・?!
 ツナミも世界に通用する言葉だが、この「MOTTAINAI」も、肝心の日本で浸透しないと、ホント、もったいない話。
 これを書いている時、町内放送で、「・・・今日の午後4時から、持ち投げがあります・・・」何て言っている。いい土地柄だなあ・・・。

*参考図書:日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか 武田恒泰 PHP新書 2011年1月発行
*写真は、旅先の天草の宿で、2月17日の朝食に出されたもの。

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続・歴史観・・・

2011-02-20 14:53:23 | Weblog
  大学入試の時、社会は、「世界史」を選択した。が、受験の為に勉強したせいで、あれだけ苦労したのに、殆ど覚えていない。兎に角、受験時、社会が最も不得手であった。と言うより、暗記科目と言うイメージが強くて、興味が持てなかった。大学に入った時、アア、これで、年号を覚えなくていい何て思って、安堵していたけど・・・。
 が、そんな興味のなかった自分が、歴史に興味を抱く様になっているのだから・・・自分でも、不思議って感じだ・・・。
 海外で、日本史に結構詳しい外国の人に時々出会って驚く。昨年、イスタンブールに行ったり、京都に行ったりして、モスクやお寺や立派な仏像を見て、やはり、歴史や宗教を知らないと、見てもよく理解できないし、それに面白くないなあと思う様になった。
 で、何と言っても・・・→もう、試験もないので、マイペースで気楽に楽しく勉強できるのがいい。年齢に関係なく、必要と思った時に、勉強を始める・・・→これでいいんですね。

 昔、鎌倉幕府成立の年を、「イイクニ1192」って感じで覚えていたけど、それが、今は、「イイハコ1185年」ってなっているとか。
 で、足利尊氏による室町幕府も、1335年、1336年、1338年と諸説ありとのこと。(何をもって、成立とするかだが・・・)
 昔から大きな問題になっているのは、「卑弥呼」の「邪馬台国」、これが、大きく、北九州説、近畿説とあり、それと「ヤマト王権」の関係が、はっきりしない。ヤマト王権が邪馬台国を滅ぼしたのか、邪馬台国がそのまま(移動して?)ヤマト王権になったのか、更には、そんなヤマト王権は、東北アジアの騎馬民族によるものとの説まである(騎馬民族征服王朝説)。
 「日本書紀」には、ヤマト王権が朝鮮に出兵して、200年間、任那(みまな)の日本府を置いたとある。日本書紀の真偽が疑われたが・・・→中国や朝鮮の史書にも、ヤマト王権の朝鮮半島進出を示す史料があり、前方後円墳が朝鮮半島にもあり、高句麗の王の業績をたたえた石碑にも、「海を渡ってきた倭が、百済や新羅を破り、臣民とした」とある。果たして、真相は?!
 1万円札と言えば、前は、聖徳太子だったが、この聖徳太子に関しても、いろんな説がある。極論では、存在しなかったと言う人までいる。聖徳太子実在を認める人にも、17条憲法に関しては、疑問を抱く人がいる。
 聖徳太子の死因にしても、病死説と暗殺説(国外に太子暗殺の黒幕がいたという説まであるが・・・)がある。更には、その後の大化の改新まで、真偽が疑われた時があったが、現在では、大化の改革を根本から否定する意見は、下火になりつつある。
 昔から日本人が親しんできている「竹取物語」の作者は、不明。「いろは歌」も、空海でいいのかどうか、疑われている。琵琶法師によって語り継がれてきた「平家物語」も、作者不明。「太平記」の作者も、はっきりしてない(一人の作品ではない様だ・・・)?!(・・・←有名な作品なのに、何でこんなに不明が多いの?)
 世継ぎの問題では、真偽を正すのに、いろんな意見がある(誰も、肝心の現場を見てないので・・・?!)。
 例えば、豊臣秀吉の息子の秀頼だが・・・→正妻との間に子どもはなく、側室の間でも、淀殿以外に子どもは、いない言うより出来なかったみたいだ(?)。晩年、50歳過ぎてやっと秀吉に待望の秀頼なる子どもが出来たが・・・→実際は、他の男性の子どもだったのではとの説。(秀吉には、沢山側室がいたみたいで、医学的には、50歳過ぎて出来る方が、不自然・・・?!)
 第二大戦終了間際、神風が又吹いて、日本は負けないと思っていた日本人、多かったみたいだが・・・?!
 1274年、第一回の元寇が、博多湾であった。コテンパーにやられた感じになったのに、翌朝、元軍の姿が全く見えなくなっていた。その理由として、高麗の史書「高麗史」「高麗史節要」には、「夜中に強い風雨があり、船団が大損害を受けたので撤退した・・・」とある。元側の史書「元史」には、「日本側の抵抗は思ったより激しく、こちらの被害も大きい。それに手持ちの矢も尽きてしまった。ここは、いったん撤退した方がよいだろうと、協議が行われた・・・」とある。
 となると、神風とはあまり関係ない感じ?!・・・→外交交渉を優位に進めようと言う駆け引き策の一環としての軍事行動だったのでは・・・?!
 1281年の2回目の元寇は、確かに、台風も加担してくれて、元軍の兵船は殆ど沈んでいる。が、この時、日本側も、前回を反省して、全国に応援を求める感じで武士が集まり、かなり応戦し、水際でも持ちこたえていたらしい。となると、本来の実力で戦い、台風がそれに加担しただけだったのか・・・?!(しかし、それに対する報酬が、加わった武士に与えられなかったことにより、鎌倉幕府は滅んでしまったが・・・)
 イヤーッ、歴史は、深く知れば知る程、本当のことが分からなくなって、面白くなりますね。
 
*参考文献:学校で習った日本史が信じられなくなる本 歴史の謎を探る会 夢文庫 2010年12月発行
*古事記と日本書紀 坂本勝 青春出版社 2009年1月発行

http://www.youtube.com/watch?v=L7KN5h8YHrE&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=Kiz7N4z7c3M&NR=1&feature=fvwp

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クール・ジャパン(3/5)

2011-02-19 18:00:36 | Weblog
  2月18日(金)の夜に、民放で、中村哲氏の活躍が紹介されていた。彼は、クリスチャン。なのに、イスラームのアフガニスタンで、地元の人の為に、正に、体を張って頑張っている。
 医師なのに、水を引き、稲を育て、地元の人が、豊かに育った稲を刈っていた。満身の顔を浮かべて。
 ある時、意見の対立から攻撃を受けた。しかし、中村氏は、決して仕返しをしない様に、周りを説得した。・・・→これ、正に、素晴らしい解決策だったのだ!攻撃には攻撃では、負の連鎖を生む。いつまで経っても、解決しない。それが、今の世界の情勢?!時間が掛かる様だが、実際は、それが一番の近道なのだ!
 中村氏は、体を張って、地元に溶け込んで、地元の人と一緒になって、純粋に頑張っている。それが周囲の人から充分に理解されている。今も、実績を着々と積み上げている。彼は、自分の後の後継者を心配している。
 東南アジアでこんな感じで頑張っている日本人、多い。タイに行っても、インドネシアに行っても、バングラデシュに行っても、(日本のマスコミでは、あまり取り上げてないが・・・)そんな日本人の素晴らしい話をしばしば聞いて驚く。
 バングラデシュでは、多くの若者から尋ねられた、「原爆を落とされたのに、アメリカを恨んでないの?・・・ホントに恨んでないの?・・・ホントにホント・・・」何て感じで、何度も尋ねられた。
 日本人の多くの寛容さに、信じられないって感じで、イスラム教徒(ムスリム)から言われた。又、強敵ロシアを海戦で破ったり、大国アメリカの中に、勇敢にも、挑んだ国、海外から見れば、日本の姿は、クールな国って感じに思えるのかな・・・?!
 イスラームの世界では、金持ちがお金を出すのは、当たり前。少数の人間が独り占めって感じでは、アッラーの前では、反感を買うのは当たり前。それぞれ、各国固有の問題を抱えている。今後は、どうなるのか?!
 もう、軍備を中心としての力だけでは、統制は取れない感じだが・・・。
 昔から和の精神を尊ぶ日本の場合、皆殺しって言葉はない。日本の場合、民間人が殺戮の対象になる考えは、国内での戦いも海外との戦いでもない!個人的にあったとしても、上に立つ指導者の考えには・・・→敵は、軍人であり、民間人ではなかった!真珠湾攻撃にしても、あくまでも軍事施設が攻撃の対象であり、ホノルル全体を火の海にすることなど、考えてなかったはず。
 日本には、十字軍遠征やドイツの30年戦争(当時のドイツ人口の3分の1が死亡)や中東戦争などの大がかりな宗教戦争なんてなかった!天下分け目の戦いと言われた「関ヶ原の戦い」にしても、実際に戦死したのは、1万人以下で、それも1日で終わり、しかも、場所は、民間人がいない感じの人里離れた平原だった!(・・・←長崎の原爆が落とされた時、アメリカ軍、誤って、その下に同志のキリスト教徒がいたけど・・・)
 日本のとる外交姿勢は、今も全く同じ感じ?!軍備を盾にしない徹底的な平和外交なのだ。是非これを最後まで貫き通して欲しい。今、荒れているイスラームの国々も、日本を信頼し、日本の協力をアチコチで求めているのだから・・・?! 

↓中村哲氏に付いて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%93%B2_(%E5%8C%BB%E5%B8%AB)

http://blog.m3.com/syumi-syounikai/categories/1295

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独り演奏・・・

2011-02-19 11:28:17 | Weblog
 2月18日(金)、同じ所に4泊して本渡(天草市)から出る日の午後、五和町にある老人施設「ケアハウスかんな」に行って演奏した。
 天草クリニックと同じ様に、立派な演奏ステージがあり、40人前後の人がいた。時間が40分間しかなかったが、自分では、充分に納得する演奏ができた感じ。
 いきなり、篠笛で「さくら」の曲を3通りの方法で演奏を始め、40分間、息つく暇もない感じで、一気に演奏し終えたって感じだった。
 お年寄りの顔が、次第に笑顔となり、大きな声を出して歌う様になり、涙ぐんでいる人も数人いた。延岡の「ばんば踊り」の太鼓を打った時が、一番拍手が強かったかな?!(・・・←まあ、自分も、少し上達したかな?!こんな感じで、少人数で、凝集した感じですると、何故か、何となく親近感があるなあ・・・)
 もう、終わりと思っていたら、「笛も太鼓もハーモニカも上手なので、きっと歌も上手と思いますので、一曲お願いします。」と言われて、エエッて感じになって・・・(昔、自分で歌ったのをテープにかなり入れ込んで聴いてたことはありますが?!)替わりに、古賀政男の曲を1曲だけ演奏して終わった(時間の関係で、篠笛でのピアノに合わせての演奏と古賀政男メドレー4曲を省略していた)。
 終了後、タクシーで本渡に戻り、そこで、家内を拾って、龍ケ岳町のいつものアパートに帰った。
 まあ、4泊5日、有意義だったかな(来月も、又、同じ所に泊まることになっているけど・・・)。本渡にある本屋さんで、本を8冊も買い、毎日、(天草市の天草宝島国際交流会館)ポルトに行って、読んでいたけど・・・。

↓(昨年の夏の、地元の供養盆踊り大会の時に、私が打った時のものですが・・・)
http://www.youtube.com/watch?v=kurkMm7QNUk
http://www.youtube.com/watch?v=fUIPqyei6YE

 

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クール・ジャパン(2/5)

2011-02-17 15:21:20 | Weblog
  2月17日(木)の昼、天草市本渡のある和食の店に行った(もう、とっくに10回以上来ているけど・・・)。
 そこの着物姿の職員に、この店のことに付いて尋ねたら・・・→昔は、ここは、老舗の旅館だったが、周りにホテルができた関係で、(経営上、14年前に)食事だけになったとのこと。
 1100円の和食を家内と一緒においしく食べた(昨日は、ここで、も少し安い和定食を摂ったが・・・)。
 待っている間、メニューの2枚目に書かれてたものを読んだ。
・・・「地産地消」自分の生まれ育った土地の食べ物が健康には幸いです。○○○家では、お客様を健康な野菜、健康な魚でおもてなし致します。
 「手間と暇 かかっています この逸品」仕込みに始まり、仕上がるまで料理人は美味しい料理を作ろうという想いで一生懸命です。手作りです。多少お時間がかかることもございますので、どうぞご寛恕の程ねがいます。「言の葉を おつまみして 待つ料理」(古民家食事処 茶寮 ○○○家)

 次の様に書かれたものが貼っていた。
 酒に十の得あり
 1、隷(れい)を正し
 ・・・
 8、人と親しみ
 9、縁を結ぶ
10、人寿(いのち)を延(の)ぶ

 思うに、食事をするにも、待つ間にも、何か精神というか、心と言うか、温かい、目に見えない何かを感じでしまう(のは、自分だけではないと思うが・・・)。

 2007年に、「ミシュランガイド東京 2008年」が発売されて、話題になった。しかし、日本では、なぜか冷めた空気があったのも事実。
 この東京版の発売で最も強い衝撃が走ったのは、欧州だった。何故なら、星付きの店の数が、東京が150軒で、パリの74軒の倍ほどあったから。つまり、東京は、世界一の美食都市として地位を確保したのだ。しかも、2年後の2010版になると、東京の3つ星が11軒となり、パリの10軒を越えた。推移を見ると、パリと東京では、一つ星が、08版では、50軒と117軒、09版では、55軒と128軒、10版では、53軒と144軒となっている。二つ星では、それぞれ、15軒と25軒、15軒と36軒、14軒と42軒、三つ星では、それぞれ、9軒と8軒、10軒と9軒、10軒と11軒となっている。つまり、パリの数が年毎に殆ど伸びていなのに、日本のそれは、着実に増加している。
 星が付いた東京の197軒の内、132軒が、日本料理店だった。
 更に海外の人が驚くのは、そんな評価に多くの日本人が、「エッ、あそこが○星何て、こちらの方がもっといいのに・・・」とか、「何を持ってそんな評価をしてるの?」何て感じで、冷ややかであること。
 そうです、東京だけでなく、日本中、アチコチに、それに肩を並べる感じの料理店、沢山ありますね。
 昨年、京都に行った時、京料理の素晴らしさに感激しましたが・・・。歴史の古い京都の方では、3つ星が目白押しでは・・・!! 魚料理で有名な佐伯でも天草でも、3つ星までは行かなくても、星の付けられる店、結構あると思いますけど・・・?!
 東京では、老舗の一流料理店は、一元客は入れないと聞く。当然、ミシュランガイドの関係者も、そこには入れなかったのでは・・・?!
 土台、東京の飲食店の数何て、パリとは大違い。パリが1万3000軒、ニューヨークが2万5000軒に対して、東京は、何と、16万軒程もあるのだから!!

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クール・ジャパン(15/)

2011-02-16 15:20:58 | Weblog
 自分がどんな人間か・・・ある医学部の面接試験で、「貴方は、周囲からどんな人間に思われていますか?」何て設問が、なされていたけど・・・?!
 自分では、自信喪失気味で、何をしてもだめ人間と思っていても、周囲から、そうでなく、実行力のある人間何て言われたら、それが正しいことになるのかな・・・?!自分の性格や人格なんて、多くの他人がそうだと言えば、そうなるのかな・・・?!
 そうですね、他から言われて、そうかぁ、そうだなぁってこと、あるし、それが確かなこと、多いみたいですね・・・?!
 海外に行ってしばらく住んでみると、日本のことがよく分かったと言う人、実に多い。海外に行って、日本を知るのだ・・・?!行かないと、分からないことが多いかな・・・?!

 2006年、「世界に良い影響を与えている国」として、英国のBBC放送が、33カ国で約4万人を対象に世論調査をしている。
 この調査で最も高く評価されたのが、何と、日本だった。2007年も、2008年も1位で、2009年4位となったが、2010年、ドイツに続き2位となり(肯定の%は、ドイツ59%、日本53%、EU53%、英国52%、カナダ51%・・・・ロシア30%、イスラエル19%、北朝鮮17%、パキスタン16%、イラン15%)、この5年間の平均では、世界で最も肯定されている国になっている。(・・・←スゴイ!!)
 驚くのは、「自国の影響力に対する自己評価」であるが・・・→日本人の日本に対する評価は、肯定が何と43%と極めて低調!
 中国人の中国の評価は、肯定が何と81%にも達している。ブラジル84%、ドイツ79%、ロシア76%、韓国76%、カナダ75%、フランス72%、英国62%、米国60%、インド59%となっているのに・・・なしか?!(・・・←あまりにも、低過ぎ!!)
 中国人が日本を否定に見ている割合は、全体では確かに、多いが・・・→2010年に中国の全国紙「環球時報」が調査会社に委託して、北京、上海、広州、武漢、重慶の五都市の15歳~64歳の男女1350人に電話で聞いたところ、最も好きな国に、日本が第5位に入っている。しかも、15歳~20歳に限定すれば、何と、第1位になっているのだ。一番低かったのは、31歳~40歳においてで、この世代は、反日教育が強化された時代に学生時代を過ごした層となっている。(・・・←ナルホド!)
 反日国家の権化の北朝鮮でも、金正日総書記は、大の日本好きで有名。息子二人もディズニーランドに来ていた程?!
 世界最大級のオンライン旅行会社のエクスペディアが、「エクスペディア・ベストツーリスト2009」を発表した。
 調査は、欧州、アメリカ、アジア太平洋の地域別で集計され、何と、全ての地域で1位、又、その点数の差がメチャスゴイ・・・→1位の日本人71点(3年連続トップ)、2位の英国人52点、3位のドイツ人51点となっている。

参考図書:日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか 竹田恒泰 PHP新書 2011年1月発行

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続・インフルエンザの歴史・・・

2011-02-15 16:34:16 | Weblog
 一昨年の6月、佐伯市の姉妹都市であるオーストラリアのグラッドストーンに行って帰る時、日本の成田空港では、物々しい感じのチェック体制だった。で、私もウイルスを持っているかも知れないって感じで、予定を1週間程延長して、勤務に就いた。あれって、一体、何だったのだろうか?
 病院では、新型インフルエンザに備えて、宇宙服を来た感じでの訓練まであったけど・・・。
 で、実際は、新型と言われたインフルエンザウイルスは、H1N1で、既に抗体を持っていた人が多く、それによる死亡者は、いつものインフルエンザによる死亡者よりも多くなく、むしろ少なかったのだが・・・(←ここのところは、マスコミで、強調されていなかった様だったが・・・?!)
 「前橋レポート」なるものがある。「ワクチン非接種地域におけるインフルエンザ流行状況」の内容で、医療関係者が中心になって大掛かりに行われている。
 ・・・その内容は(調査した1984年は、大流行の年)、医療関係者も驚く程の結果だったのだが・・・→ワクチンを打たなかった方が、比較にならない程、自然感染によって強い免疫力が付いていた。自然感染すると、翌年同じ型(A香港型、Aソ連型、B型)が流行した場合でも、ほぼ完全に掛からなかったし、3年経過すれば、その防御率は下がるものの、それでも、感染したことのない人とは大差があった。更には、症状の出ない不顕性感染が20%もいた。集団接種をしている高崎市との比較でも、インフルエンザワクチンをやめたことによる前橋市の死亡率が上がっている事実がなかった。(http://www.kangaeroo.net/D-maebashi-F-view-no-6.html・・・←驚きですね!)
 更にさかのぼると、大正時代のインフルエンザ論争があった。(・・・←笑っちゃいますね!)
 ・・・その内容とは・・・→(エッエッ!)大正時代、日本の学界を真っ二つに分けた大論争があった。結局、大論争の結果、決着の付かないまま、二種類のワクチンが作られた。インフルエンザの原因として、伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)では、インフルエンザ菌と肺炎球菌の二次感染が原因として両方の菌の混合ワクチンが、北里研究所では、インフルエンザ菌自体が病原であるとして、インフルエンザ菌のワクチンが作られた。さて、どちがら効くのか大論争に。帝国議会でも取り上げられて・・・。
 現在の私たちであれば、その騒動の馬鹿馬鹿しさがよく分かるのですが、当時の偉い人たちは、それを真面目に討論していました。そして、当時の内務省にしても、無効だという人の意見を無視して、「インフルエンザの予防接種をするように」と国民に訓令を出していたのです。
 インフルエンザ菌と肺炎球菌は、常在菌として、多くの人が持っています。が、その多くで、発病しません。免疫力が低下すると、発病します。インフルエンザ後のお年寄りの肺炎では、その多くが、免疫力が低下したことによる細菌性肺炎によるものです。

*参考図書:インフルエンザワクチンはいらない 母里啓子 双葉新書 2010年12月発行 (平成23年2月15日、天草市本渡の書店にて購入)

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1時間の演奏・・・

2011-02-15 07:25:06 | Weblog
 昨日(月曜日)、 雨の中、タクシーに太鼓を積んで、アパートから本土にある宿泊施設「海心」にちょっと寄ってから(家内がそこで下車して)、「天草第一病院」の隣にある「天草クリニック」に行った。
 13時ちょっと前に着いた。とてもきれいで新しい造りの病院。演奏前にトイレに行ったが、とても素晴らしくて、感動してしまった。大学の同級生の(竹脇無夢と児玉清を足して2で割った感じの、きさくな)院長が、直ぐに来てくれた(以前、天草○○病院を訪れて、彼と話したことあり)。(院長なのに週1回?)当直をしているとのことで、少し疲れ気味の顔に見えたけど・・・。こっちは遊び感覚で申し訳ないなあと思いながらも・・・。
 で、院長としばらく話して、演奏場所に行って、準備をし、予定の13時半から演奏を始めて、ちょうど1時間で終わった(同級生の院長、忙しくて、時々携帯の電話で外に出ながらも、最後までずっと聞いてくれた!・・・←この精神が、病院をこんな感じで大きくしたのかな?!)
 いつもの様に、篠笛→盆踊り太鼓→ハーモニカ→ピアノに合わせて篠笛→拍子木で一本締→古賀メドレー→篠笛→太鼓演奏で終わった。
 終わったらい、汗びっしょりかいていた。歳を少し感じだ。いい汗だったが・・・、疲れた。こんな感じで、後、こんな感じで、何年間出来るかなあ?
 院長の話だと・・・→最後の(15分間の)太鼓演奏が一番良かった・・・みたいだった。
 楽しかった。こちらも楽しまなくちゃあ・・・。又、ここに演奏に来たいなあ・・・。

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チョコの実力・・・

2011-02-14 10:54:50 | Weblog
 バレンタインデーの日の今朝、NHKの「あさイチ」で、チョコレートの実力に付いて解説していたけど・・・。
 チョコレートは、カカオから出来るけど、それって、中南米では、神様に捧げるものとして、身分の高い者しか口にできなかった程の貴重なものだったとのこと。(マザーテレサも、チョコが大好きだったみたいだが・・・)
 現在の科学的な分析では、ドーパミンが出て集中力が増すので、何かをする前には、それなりの効果があるとか。
 糖尿病の予防になるとか、動脈硬化の予防になるとか、血管を広げるので、冷え性にいいとか、更には、今流行のインフルエンザの症状を軽くするとか、いろんな効果を言っていたけど・・・。
 実際にそれを裏付ける感じで、マウスやウサギを使って、立証していたけど・・・。で、実際に、医療にも利用されていて・・・→外科の術後の傷の整復に、ココア(チョコレート同様に、カカオから出来る)を患者さんに与えている。何でも、亜鉛が含まれているので、それが細胞の再生を促進させるとか・・・?!
 で、注意点もあって、甘いチョコは、糖分が多くてカロリーが高いので、ダイエットにはならない。血管を広げるので、片頭痛持ちの人には、良くない。ビターがいい。食べ過ぎは、良くない・・・など。
 私は、86%と72%のチョコを、アーモンドと一緒にしばしば食べているけど・・・。まあ、いいみたいですが・・・実際は、どんなもんでしょうか?!
 
 ・・・2月11日に、早々と、義理チョコをもらってしまった。で、添え書きに、「おはようございます。いつもお世話になり、少し早いですが、私の気持ちです。」何て、書かれていたけど・・・。
 ・・・2月12日に、ニューヨークで(カイロプラクターとして)開業している長女から、航空便で小包が届き、その中に、ヘーゼルナッツチョコレートが入っていた。それがメチャクチャ美味しくて、あっと言う間に食べてしまって、感想をメイルで送ると、「危険!、美味しいので、ついつい食べ過ぎてしまう!カロリーが高いので太る・・・」何て返事がメイルで返って来たけど・・・。
 ・・・今月は、今日から5連休もらっている。本渡に行く日の今日(雨が降っているけど)と、帰る日(18日金)に、演奏することになっているけど・・・。


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インフルエンザの歴史・・・

2011-02-13 14:06:04 | Weblog
  インフルエンザの歴史を調べてみると・・・

1、今は、A型に関しては、ソ連型と香港型が、ある年には、一つだけ、ある年には、両方が流行する感じになっているが・・・。
 長いインフルエンザの歴史の中では、ある時期までは、A型のあるタイプが流行すると、嘘の様に他の型は消えていた!
 1890年、H2N8の旧アジア風邪が流行した。
 1900年、H3N8の旧香港風邪が流行した。
 1918年、H1N1のスペイン風邪が流行した。(4000万人以上が死亡)
 1931年:ブタインフルエンザが発見
 1933年:A型インフルエンザウイルスが発見
 1940年:B型インフルエンザウイルスが発見
 1950年:C型インフルエンザウイルスが発見
 1947年、H1N1のイタリア風邪が流行した。
 1957年、H2N2のアジア風邪が流行した。(日本で100万人感染し、8000人死亡)
 1968年、H3N2の香港風邪が流行した。
 あるタイプが流行すると、その前のタイプは、嘘の様に、消えていた!
 ところが、1968年、H3N2の香港風邪が毎年続いているのに、1977年に、H1N1のソ連風邪が、香港風邪と共存する感じで、流行する様になってしまった。
 何故だろうか?(・・・←多くの人が、予防接種をする様になってから?!)
 2001年には、マスコミでは、大きく取り上げられなかったが、H1N2の小流行もあってはいるが・・・。
 今は、A型は、H3N2の香港型とH1N1のソ連型が、入れ替わり立ち替わり、共存している感じで、流行している(ある年には、一方だけで終わることもあるが・・・)。

2、インフルエンザの始まりは、(昔は検査がなかったので)小児科外来では、急に年齢層が上がることで気が付く。
 兎に角、インフルエンザが流行すると、同じ症状の人がどっと急に来院する。何せ、潜伏期が1~3日なので、直ぐに発症するから。
 流行すると、春休みに入るまで、多いのが続いていた。
 ・・・春休みに入って、小児科外来のインフルエンザの患者さんが少なくなると、「今年も、無事に体が壊れることなく、無事に時間が過ぎた、良かった・・・」何て思っていた。流行時期には、自分の勤めていた佐伯市の病院では、月曜などは、1日250人を何度も超えていた(それ以外に、新たな入院が一日3~5人程あり、かつ、新生児・未熟児医療のお産も、年間500件近くあり、フラフラ状態で、過労死寸前って感じだったが・・・→それで、やむなく、開業しましたが・・・)
 ところが、今は、インフルエンザの大流行が長引くことは少なく、嘘の様に急速に終息するケースが多い。大流行があっても、3月になる前に、既に終息していることも多い。
 更に新たなこととして、春休みが終わって、新学期になってB型が流行する現象が出ている。(・・・←予防接種をしているのに!)

3、インフルエンザの予防接種の改善も、かなり進んで来ている。当たる確率が多くなった。抗体値が4倍前後上がる様になった。基礎疾患を持っている人も、打てる様になった(より、積極的に)。
 それに、検査が出来、治療も1日で終わる吸入、注射薬まで、出来てしまったし、既に、使われている。

 しかし、毎年、しっかりと予防接種をしてきていても、手洗いやうがいやマスクを徹底的にしていても、インフルエンザには勝てない感じです。
 それは、何故・・・?!

http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20110130/2
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20110211/1
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20110213/2

以下は、インターネットから引用
 インフルエンザと人類の関わりは古く、古代エジプト時代にはすでにこの感染症が知られていたことが記録に残っている。古代ギリシャのヒッポクラテスの記録(紀元前5世紀)にも残っている。
 1878年のコッホによる炭疽菌の発見以降、さまざまな感染症についてその病原体が分離・発見されていったが、インフルエンザ病原体の発見は困難をきわめた。
 1889年-1900年:H2N2の流行
 1892年、北里柴三郎らがインフルエンザ患者の気道から病原体の候補となる細菌を分離し、Haemophillus influenzae(インフルエンザ菌)と名付けたが、コッホの原則に基づいた証明には至らなかった。当時はまだウイルス自体が認知されておらず、ディミトリ・イワノフスキーによってウイルスの存在が初めて報告されたのが、北里の発見と同じ1892年のことである。
 1900年-1918年:H3N8の流行
 1918年から1919年にかけて、スペインかぜ(病原体はH1N1亜型)の大流行が発生。人類は初めてインフルエンザの世界的大流行に遭遇した。このときの感染者数は6億人、死者は4000-5000万人にのぼる(当時の人口は20-30億人)と言われるが、候補となる細菌やウイルスが報告されたものの、マウスやウサギなどの一般的な実験動物で病気を再現することができなかったため、その病原体の証明には誰も成功しなかった。
 1933年、ワシントンで発生したインフルエンザの患者から分離されたウイルスを使って、フェレットの気道に感染させてヒトのインフルエンザとよく似た症状を再現できることが実験的に示された。この実験によって、インフルエンザの病原体がウイルスであることが明らかとなり、インフルエンザウイルス(後にA型インフルエンザウイルス)と名付けられた。後に、この当時の流行株に対する抗体が、スペインかぜのときに採取されていた患者血清から検出され、スペインかぜの病原体がこれと同じもの(H1N1亜型のA型インフルエンザウイルス)であることが明らかになった。
 1940年、インフルエンザ患者から従来とは抗原性が異なるウイルスが分離され、B型インフルエンザウイルスと名付けられた。
 1946年、鼻かぜ症状を呈した患者からA、B型と異なるウイルスが分離され、1950年に病原性が証明されてC型インフルエンザウイルスと名付けられた。
 1957年、アジアかぜが世界的大流行を起こす。それまで流行していたH1N1亜型とは異なり、H2N2亜型に属する新型ウイルスであることが明らかになった。同時にH1N1亜型のものは姿を消した。
 1968年、香港かぜの世界的大流行。H3N2亜型に属する新型ウイルスであった。同時にH2N2亜型のものは姿を消した。現在の季節性インフルエンザの原因の1つである。
 1977年、ソ連かぜが流行。これはスペインかぜと同じH1N1亜型に属するものであった。アジアかぜ以降姿を消していたH1N1型が再び出現した理由は明らかになっていない(一説には、アザラシなどヒト以外の生物が保存していたためとも言われている)。このときはH3N2亜型は姿を消すことなく、以後H1N1とH3N2が毎年流行を起こすようになっている。現在の季節性インフルエンザの主な原因である。
 1997年、香港でH5N1亜型という高病原性鳥インフルエンザウイルスが、トリからヒトに直接感染して死者が発生した。トリからヒトへの直接感染は起きないというそれまでの定説を覆すものであり、世界的大流行が危惧されたが、ヒトの間での伝染力が低かったため大流行には至らなかった。
 2001年、欧米や北アフリカ、中近東の数カ国でH1N2亜型に属するウイルスがヒトの間で流行していることが確認された。これはH1N1亜型のH1とH3N2亜型のN2を併せ持ったウイルスであった。2006年現在、流行は小規模にとどまり、H1N1やH3N2に取って代わるほどの勢いはない。
 2009年メキシコから新型インフルエンザの流行が始まった。H1N1型ではあるが、スペイン風邪やソ連風邪と異なる種類である。(ウイルスは米国内から入ったと言う説が有力である)


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