昔は、何度も、「死」と言うのを肌で感じてきた様に思う。
小学校低学年の時、ネズミ採りで採れたネズミを、入れ物ごと水の中に入れて、殺していた。それを(今は亡き)父がしていて、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」と何度も言っていたのを思い出す。「今度生まれて来る時は、人間に生まれて来なさいね・・・」何て、父が言っていたのを思い出す。
その(田舎の)土地では、人が亡くなると、皆の前で火葬していた。焼いている途中で煙の色が変わって行き、今どうなっているのか、焼ける音を聞きながら子ども同志で言い合っていたのを思い出す。
又、法事で皆が集まると、ニワトリが殺されて、その場で、それが食事に出されていた。お腹の中に、小さい卵から大きい卵まで一杯入ったのを初めて見た時は、スゴク感動してしまった。
日本人は、神社に行くと、「ニ拝二拍手一拝」する。食事の前でも、多くの人が、一拝一拍手までは行かなくても、手を合わせて、「いただきます」と言う。これって、貴方の命を頂きますってことで、生き物の命をもらって自分が生かされることに対して、感謝の気持ちを現わしている言葉なのである。つまり、ヒトは、命あるものを食べて生かされている。古来より、日本人は、生きているものには、皆、魂が宿っていると考えてきているのだ。
そんな命の宿ったものを食べる時、それに、しばしば丁寧語の「お」を付ける。お米、おかず、お汁、お酒、お菓子、お茶・・・など。
ご飯粒を一粒でも残すと、親から「目が潰れる!」とよく言われてきた。又、父から、次の話を聞かされていた・・・→戦国時代のある武将(ウロ覚えだが、秀吉だったかなあ・・・)の子どもが、ついだ食事をいつも少し残していた。武将の父親から、「そんなことでは、天下は取れん!自分の腹の状態も分からん様では!」と言われていた。で、やはり、父親亡き後は、天下を取れずに、あっけなく滅んでしまった。
又、昔、私は、ニンジンが嫌いで(今は、大好き)、よく残していた。すると、父から、何度も聞かされた・・・→乃木大将は、小さい時、ニンジンが嫌いだった。それを残すと、両親が、毎日それを出し、それを食べないと他の物を出さなかった。・・・で、根負けして、食べる様になった。
又、日本人は、食べ終わった時に、「ご馳走様でした!」と、一拝一拍手までは行かなくても、やはり自然と手を合わせて食事を終えることが多い。これって、元々は、字の如く、食事を作ってくれた人、食材を生産した人に対する感謝の言葉なのだ。
ハングルにも、食前に「チャール・モゲッスムニダ!」、食後に「チャール・モゴッスミニダ」と言う言葉があるけど・・・。
戦後、「陰膳」と言う言葉が薄れてきている。
父は、家族で夕食をする時、先祖の箸を必ず据えて、晩酌する前に、「親様、どうぞお上がり下さい!」と言っていた・・・(今考えると、子ども達にスゴイ教育をしてくれていたのだなあと思う・・・)
更には、日本語には、「もったいない」と言う、素晴らしい言葉がある。 2005年3月に、「もったいない」の日本語が、環境保全の合言葉として世界的に知られる様になった。そこでは、日本語の「もったいない」には、消費削減(リデュース)、再使用(リユース)、資源再利用(リサイクル)、修理(リペア)の4つのRが含まれているとのこと。
限りある資源を有効に使い、みんなで公平に分担すべき。そうすれば、資源をめぐる争いで戦争を起きないって感じで・・・?!
ツナミも世界に通用する言葉だが、この「MOTTAINAI」も、肝心の日本で浸透しないと、ホント、もったいない話。
これを書いている時、町内放送で、「・・・今日の午後4時から、持ち投げがあります・・・」何て言っている。いい土地柄だなあ・・・。
*参考図書:日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか 武田恒泰 PHP新書 2011年1月発行
*写真は、旅先の天草の宿で、2月17日の朝食に出されたもの。
小学校低学年の時、ネズミ採りで採れたネズミを、入れ物ごと水の中に入れて、殺していた。それを(今は亡き)父がしていて、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」と何度も言っていたのを思い出す。「今度生まれて来る時は、人間に生まれて来なさいね・・・」何て、父が言っていたのを思い出す。
その(田舎の)土地では、人が亡くなると、皆の前で火葬していた。焼いている途中で煙の色が変わって行き、今どうなっているのか、焼ける音を聞きながら子ども同志で言い合っていたのを思い出す。
又、法事で皆が集まると、ニワトリが殺されて、その場で、それが食事に出されていた。お腹の中に、小さい卵から大きい卵まで一杯入ったのを初めて見た時は、スゴク感動してしまった。
日本人は、神社に行くと、「ニ拝二拍手一拝」する。食事の前でも、多くの人が、一拝一拍手までは行かなくても、手を合わせて、「いただきます」と言う。これって、貴方の命を頂きますってことで、生き物の命をもらって自分が生かされることに対して、感謝の気持ちを現わしている言葉なのである。つまり、ヒトは、命あるものを食べて生かされている。古来より、日本人は、生きているものには、皆、魂が宿っていると考えてきているのだ。
そんな命の宿ったものを食べる時、それに、しばしば丁寧語の「お」を付ける。お米、おかず、お汁、お酒、お菓子、お茶・・・など。
ご飯粒を一粒でも残すと、親から「目が潰れる!」とよく言われてきた。又、父から、次の話を聞かされていた・・・→戦国時代のある武将(ウロ覚えだが、秀吉だったかなあ・・・)の子どもが、ついだ食事をいつも少し残していた。武将の父親から、「そんなことでは、天下は取れん!自分の腹の状態も分からん様では!」と言われていた。で、やはり、父親亡き後は、天下を取れずに、あっけなく滅んでしまった。
又、昔、私は、ニンジンが嫌いで(今は、大好き)、よく残していた。すると、父から、何度も聞かされた・・・→乃木大将は、小さい時、ニンジンが嫌いだった。それを残すと、両親が、毎日それを出し、それを食べないと他の物を出さなかった。・・・で、根負けして、食べる様になった。
又、日本人は、食べ終わった時に、「ご馳走様でした!」と、一拝一拍手までは行かなくても、やはり自然と手を合わせて食事を終えることが多い。これって、元々は、字の如く、食事を作ってくれた人、食材を生産した人に対する感謝の言葉なのだ。
ハングルにも、食前に「チャール・モゲッスムニダ!」、食後に「チャール・モゴッスミニダ」と言う言葉があるけど・・・。
戦後、「陰膳」と言う言葉が薄れてきている。
父は、家族で夕食をする時、先祖の箸を必ず据えて、晩酌する前に、「親様、どうぞお上がり下さい!」と言っていた・・・(今考えると、子ども達にスゴイ教育をしてくれていたのだなあと思う・・・)
更には、日本語には、「もったいない」と言う、素晴らしい言葉がある。 2005年3月に、「もったいない」の日本語が、環境保全の合言葉として世界的に知られる様になった。そこでは、日本語の「もったいない」には、消費削減(リデュース)、再使用(リユース)、資源再利用(リサイクル)、修理(リペア)の4つのRが含まれているとのこと。
限りある資源を有効に使い、みんなで公平に分担すべき。そうすれば、資源をめぐる争いで戦争を起きないって感じで・・・?!
ツナミも世界に通用する言葉だが、この「MOTTAINAI」も、肝心の日本で浸透しないと、ホント、もったいない話。
これを書いている時、町内放送で、「・・・今日の午後4時から、持ち投げがあります・・・」何て言っている。いい土地柄だなあ・・・。
*参考図書:日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか 武田恒泰 PHP新書 2011年1月発行
*写真は、旅先の天草の宿で、2月17日の朝食に出されたもの。