NOTEBOOK

なにも ほしがならなぁい なにも きたいしなぁい

02007年005月003日(木)雨のち晴れ、と言うか爆笑

2007-05-03 | 休み
パソコンのCMで
山下君と正和さんのやり取りを見ていて
「君が一番期待されている22歳です。」
(首を傾けつつ、口をしぼめて云ってみる)
急に物真似を始めた自分の姿は
絶対誰にも見せられない。
繰り返すこと10回。
ちょっとどうかしている。
自分でも思う。

たまにあふれ出るカオス。
まぁ、多分誰にも迷惑はかけないので
自分の中では良しとしている。
誰もいないリビングで
一心不乱に「学生節」を口ずさみ
植木さんの踊りを踊り狂っている姿も
誰にも見せられたものではない。
云うは易し、行うは難し、だとつくづく思う。





昨日の夜、と言うか朝方の頃は
涙をこらえていたような僕が
涙をこらえていたかと思うと
今さっきは周囲の迷惑顧みず
小説読んで、大爆笑。
払いたい、否腹痛い。
伊良部先生、素敵過ぎだ。
文庫版が待ちきれずに
単行本を買ってしまった。
みうら先生の本やさくらももこさんなどの
本で爆笑はあるけれど
小説でここまで爆笑したのは久しぶり。

でも原作が良すぎたのか
映像化された作品
映画版も、テレビスペシャル版も
今一ぱっとしない。
どちらも怪優と呼ばれる松尾さんや
阿部さんが演じられていたが
やっぱり文章から伝わってくる
イメージとは相容れない。

痩せる前の
岡田斗司夫さんなんて
イメージぴったりじゃないか
声も高いし
と言ってみたけれど
岡田さんを知らない。
常識と思い込んでいることは
そうではないんだよねぇ。

02007年005月003日(木)明け方の読書感想文

2007-05-03 | 休み
真夜中に書いたラブレターは翌朝見直せ。
真夜中に書いた日記は二度と読むな、と云うのが
世間一般の相場であり、僕自身も大抵の場合同意するのですが
真夜中の読書感想文もまた同様の効果を
人にもたらすものであると思います。

平たく言えば、キッショイです。

が、それはそれ。これはこれ。と
熱血漫画家の島本先生も仰っていますことですので
暇に任せて、自分への恥辱の限りを尽くしてみたいと
眠い目をこすり、こすりキーボードを走らせる次第です。









スキマスイッチの楽曲に「藍」というものがあります。
その楽曲の冒頭に
「愛 それは誰が創造したもんなんでしょうか 難解なんだね」
という一節がありますが
この小説も正に愛の多面性を垣間見せてくれるように思います。
そして難解だなぁと思わずにはいられません。


『塩狩峠』の中では様々な形の愛が描かれていますが
神のそれについては、僕の興味の外なので
それ以外の、一番心惹かれた愛の在りようについて
興味深く読みました。

主人公の信夫のふじ子への感情
それはキリスト教的な極めて博愛的な
同情に帰するものだったのか
彼女が足に障害を持っていたからなのか
それとも美しい彼女への情愛だったのか。
いや、信夫が自身で吐露した言葉を
信じるならば
信夫のふじ子への愛情というものの源は
彼女の心なのですね。
そんなこと思えたら、どれだけ幸せだろう。

この中で描かれた信夫のふじ子に対する感情の振れ幅は
自分自身の経験則からひどく納得させられるものがありました。
好意とそれ以上の感情。劣情や同情といった種々の感情の中で
その自分の感情が一体何であるか
ふじ子へのその感情は本当であろうか
そういった部分への信夫の戸惑い
そして疑念はひどく共感させられました。
結局、信夫はある結論を向かい入れるわけですが。


個人的なことですが、僕は恋愛において
それ以上考えないようにしてきました。
つまりは、突き詰めてこなかった。
好きという感情だけでやり過ごしてきました。
突き詰めてしまうと、信夫が抱いたような
相手への感情に対する疑念が沸いてくるから。
何だかそれを見透かされたような、言い当てられたような
言葉にしがたい気分にさいなまれます。


でも信夫のそんな愛も結局は能わない。
少なくとも信夫とふじ子の関係性に絞った場合。
信夫は人への愛を実践するために自らが犠牲となって
ブレーキの故障した列車の速度を緩め
その本懐を達してしまうから。
確かに、それは愛のひとつの形、人類愛というか
極めて宗教的な形の愛ではあるけれど
でも、お前にはふじ子さんが居るじゃないかと
お前さんの体じゃなくて
荷物とか投げ込めば良かったじゃないかと
ちょっと大声で怒鳴りつけてしまいたくなるくらいに
思うのです。


作家に限らず、クリエーターが作品を悲劇に向かわせるのは
一体何故なのでしょうか。
確かに、明確なメッセージなどを込めようと
思う場合、それは幸福な結末よりも
遥かに効用があるかもしれません。
それはそれこそキリストの受難然り。

十字架にかけられたキリストが
神為る者の何らかの力によって救われた
ではあまりにも深みがありません。
十字架の上で死んでこそ
キリストはキリストになれたのです。

やはり知恵を付けた大人を転ばすためには
苦味とコクが必要なのは
大人がしたり顔でコーヒーをさも
美味そうに飲んでいる姿を見れば明白です。
コーヒーが何かの甘いジュースであれば
今のように多くの大人に飲まれなかったはずです。
缶コーヒーが卑下されるのも同じ理由に決まっています。



(全くの余談ですが、私はコーヒーを飲むと
体からコーヒー臭がしてしまうので飲みません。
牛丼も同じ理由であまり食しません。
牛丼を食すと牛丼臭い体になります。)


しかしながら、それを物語に没入しすぎる私のような
粗忽ものにとっては酷く残酷な結末でしかないと思うのです。
昨今のみうら先生曰く、涙強盗のような商業作品と同じく
泣かすためのように思われて仕方が無いのです。
苦労してきた2人がいて、その苦労がようやく報われようかという
刹那にそれが不意に裏切られれば
そりゃ、悲しくなりますよっ。誰だって。
信夫をふじ子の幸せな将来が見たいでよ。
折角ふじ子の病気も良くなったのにっ。
何で列車を事故らせるのですか、三浦先生っ。
もう2人が幸せに暮らす同人誌でも書かなきゃいけないのですか。
というか、この小説の場合、信夫が信仰に目覚める
過程だけで十分です。解ります。お察し申し上げられますっ。


僕が思うのはハッピーかそうでないかの
二元論しかないのかと。
子供の頃に「YesかNoか、半分か?」とか云う
ファジーな選択を迫られたことは無いのかと。
別に悲しくなくても良いじゃないか、そして
殊更に幸福じゃ無くてもいいじゃないか。
そういう作品が見たいのですよ。
中間でも何か伝えることは出来るんじゃないですか。
いや、「inspired by real story」だけども。


信夫もそうだけれど、ふじ子さんが不憫でならないのですよ。
僕みたいな”セカイ系”な世界に生きる人間にとっては
万に一つの、列車事故の中でも奇跡的に助かるみたいな
そんなハリウッドな結末はいらないけれども
何かしら彼女が報われるプロットが見たかったでう。


3年ぶりに読んだ『塩狩峠』はやっぱり悲しいです。
信夫のふじ子をいとおしく思う描写は何なのでしょうか。
胸が締め付けられる思いがします。