NOTEBOOK

なにも ほしがならなぁい なにも きたいしなぁい

02007年011月015日(木)ハレロヤ

2007-11-15 | 休み
熱が平常より二℃ほど高く、洟は青い(”緑い”と書いて青いと読みたい)。
「ため息をつくと、その分だけ幸せが逃げる」と誰かに云ったけれど、
そう云っている本人がため息をついているけれど、深呼吸と割り切って
言い換えて、ため息のようなものをつく。息が出てくる。途切れず。


「萌え」って言葉があるけれど、あれはどうなのだろう。
伊集院さんが以前「恥丘」(読める人はエロい人)という単語は書き文字
ではあるが、声に出す言葉じゃないと云っていたのを思い出す。

エクリチュールとパロールとかそういうことじゃなくて、
いや、そうなのか?「萌え」がエクリチュールであったころは
表現しがたいものを含めることが出来て気がする。

それがテレビが取り上げたからか、オタクが動物、馬鹿になったのか
「萌え」って単語がパロールとして発せられた途端に非常に一元的な
意味合い、オタクが興奮した時に発する言葉になっちゃう。

僕の理解では「萌え」って感情の一種類であったように思う。
「萌え」が感情の一類型だとすれば、「萌えぇ~」とか云ってるのは
「俺は悲しいぞ」とか「怒っているぞ」と云ってる様なものじゃん。


それじゃ、意味不明だよ、社会人として。星飛雄馬くらいしか云わん。
駄目な脚本と同じくらい仕事放棄。パロールとして共有されると
途端に安っぽい、スノッブなものになっちゃう。本来もっと原初的で
個人的で、奥ゆかしいものであったと思うんだけれどなぁ…


パロールとエクリチュールが意味的に逆だけれど良いや。
主体が無いパロールと言うか、パロールがエクリチュール的と言うか
そもそもが「萌え」と言う単語はエクリチュールにしか存在しえない
言葉だったように思えるからで。良く分からん。


てか、20世紀のフランス人は個人しか見とらんもんね。
ネットなんてものはエクリチュールでありながらパロール的だし。
んでモノローグでもダイアローグでもなく基本マルチローグだし。