『非婚同盟』面白いなぁ。中島丈博さんの脚本モノは『真珠婦人』、『牡丹と薔薇』も好きだったけれど毎回途中からといつも中途半端に観てますが、途中から見ても面白い。ストーリーが分からなくても、毎回山のシーンがあってそれがどれも過剰で面白いです。しかもどれも強烈で70歳過ぎた人の脚本なのかと思えるほどに過激で、過剰です。前2作が愛憎に溢れていたのに対して、ユーモアと激情がシュールに昇華されていてこちらの方が好みです。安心して観てられます。
この中島さんの脚本もそうなんですが『渡る世間は鬼ばかり』や『ありふれた奇跡』を観ていても感じるのがこの世代の人たちの脚本がいまのそれと全く違うこと。今の脚本は登場人物が”キャラクター”として自立した存在であるのに対して、中島丈博さんや山田太一さん、橋田壽賀子さんの脚本の登場人物は”キャラクター”じゃない感じがします。
例えば『相棒』なんかを観ると、杉下右京という自立した存在が言葉なり推理を発しているように感じられるのですが、『非婚同盟』の由起子さんとか『ありふれた奇跡』の加奈&翔太の台詞を聞くと、由起子さんや加奈&翔太がそれぞれ自立的に言葉を発しているというよりも、脚本家という1つの自我がそれぞれの”登場人物”を演じ分けているある種の一人芝居のような感じを抱きます。
”キャラクター”ではく”登場人物”でしかないから本から自立した存在になりえず、例えば同人誌みたいな二次創作が出来ないような感じ。『相棒』の同人誌は作れる(実際にBLモノであったりする)けれど、『ありふれた奇跡』の同人誌は多分作れないように思います。杉下右京みたいなその存在の根拠がデータベース的なものによれるのが”キャラクター”とすると、その存在の根拠が元の作品にしかなく、作品から乖離して存在できない加奈&翔太みたいなのは”登場人物”と定義できるのかなぁ。
なんかこういったこをどこかの本に書かれていたような気がするんだけれども…なんだったかな。
それにしても1月からやっていたのにもったいないなぁ。第1部の幼少期もかなりパンチが効いていて面白いらしいのでどうしようか。
この中島さんの脚本もそうなんですが『渡る世間は鬼ばかり』や『ありふれた奇跡』を観ていても感じるのがこの世代の人たちの脚本がいまのそれと全く違うこと。今の脚本は登場人物が”キャラクター”として自立した存在であるのに対して、中島丈博さんや山田太一さん、橋田壽賀子さんの脚本の登場人物は”キャラクター”じゃない感じがします。
例えば『相棒』なんかを観ると、杉下右京という自立した存在が言葉なり推理を発しているように感じられるのですが、『非婚同盟』の由起子さんとか『ありふれた奇跡』の加奈&翔太の台詞を聞くと、由起子さんや加奈&翔太がそれぞれ自立的に言葉を発しているというよりも、脚本家という1つの自我がそれぞれの”登場人物”を演じ分けているある種の一人芝居のような感じを抱きます。
”キャラクター”ではく”登場人物”でしかないから本から自立した存在になりえず、例えば同人誌みたいな二次創作が出来ないような感じ。『相棒』の同人誌は作れる(実際にBLモノであったりする)けれど、『ありふれた奇跡』の同人誌は多分作れないように思います。杉下右京みたいなその存在の根拠がデータベース的なものによれるのが”キャラクター”とすると、その存在の根拠が元の作品にしかなく、作品から乖離して存在できない加奈&翔太みたいなのは”登場人物”と定義できるのかなぁ。
なんかこういったこをどこかの本に書かれていたような気がするんだけれども…なんだったかな。
それにしても1月からやっていたのにもったいないなぁ。第1部の幼少期もかなりパンチが効いていて面白いらしいのでどうしようか。