-『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』(公式)
ウディ・アレンの50作品目、『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』を観る。
今まで私が観てきたアレン作品の中でテーマ的にも、物語的にも最も何も無い映画だと感じた。もちろん良い意味で。ヴィットリオ・ストラーロの陽光を活かした演出(そのシーンにおけるキャラクターの熱量の表現)や登場人物のキャラクターに合わせた固定カメラとステディカムとの使い分けなど、特にこの手のライトなラブコメディ映画では珍しいくらいの力の入れ様。ヴィットリオ・ストラーロが担当した過去2作、『カフェ・ソサエティ』、『男と女の観覧車』と比べると、シンプルな物語の中で用いられると更に贅沢に感じる。
この映画は「雨の降るロマンチックなニューヨークを撮りたい」アレンがインタビューで語っているように、雨が降るニューヨークの中でロマンチックな事が起きる以外何にも無い。もちろんアレン印のスノッブでハイコンテクストな会話や主人公のギャツビーと言う名前にまつわる分析は出来るのだと思うのだけれど、私としては、映画館で92分間そぼ降る雨のニューヨークとティモシー・シャラメ、エル・ファニング、セレーナ・ゴメスの恋模様を面白がるのが正解なんだと思っている。引きで撮ることが多い昨今の映画で律儀に登場人物の顔のクローズアップと多用し、且つカットバックで会話を進める。古臭いと言えば古臭いのだけれど、美男美女と雨のニューヨークがあれば、魅力的になる。
物語は男女のすれ違いと恋愛模様以外にほぼ要素は無い。アレンはインタビューで大分昔に書いた脚本と言っている。「アラファト似の女」と言う台詞が現代の20代前半の登場人物が使うことからも90年代くらいに書かれたのかなと想像するが、主人公ギャツビーのモラトリアムや家庭の問題と言う要素はあるものの余り大きなテーマではない。主人公ギャツビーと彼女であるエル・ファニング演じるアシュレーの関係性とオチは既視感が凄い。『ミッドナイト・イン・パリ』のギル・ペンダーの物語から1920年代へのタイムスリップ要素をごっそりそぎ落としたような話だと思った。
この前に観た映画が『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』だった。オルコットの原作を読み込んで、リサーチしまくったグレタ・ガーウィグが物語的な面白さと思想性を両立させつつ、これでもかと詰め込んだ素晴らしい物語だった。それと比べると、『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』は物語的に全く中身が無い。あるのは「雨の降るロマンチックなニューヨーク」だけだ。キネマ旬報2020年7月上旬号で菊地成孔さんが本作を評して「観光映画」と評していたが、その通りだと思う。結局アマゾンから逃げられて、アメリカでは出資してもらえず、欧米からの出資で映画を作るほか無いアレンにとっては、ニューヨークでお金の掛かる雨を降らせる映画を撮るのは大変だったらしい。それでもなおニューヨークと雨に固執した本作のテーマはやはり物語には無くシチュエーションなんだと思う。(ニューヨーク以外、出資してくれるヨーロッパの街であれば、実現難易度は低かったようでもあるし)
そういう意味では、『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』は非常にポストモンダン的な映画と言えなくも無いと思っている。物語はクリシエであり、あくまで添え物でしかなく、焦点はニューヨークと雨と恋愛模様と言う極めてフェティッシュな領域に定められている。そこでは驚くべき物語は起こらないが、素晴らしく魅力的なニューヨークとティモシー・シャラメとエル・ファニングとセレーナ・ゴメスが雨のニューヨークに美しく映える。
この映画、観る人によって頗る評価が割れると思う。退屈だと言う意見に抗うことは出来ないけれど、全くダメな映画かと言えばそうとは言えなくて。映画館の大きなスクリーンと贅沢な音響の中でダラダラと観るのが適しているのだと思う。大画面で垂れ流したい、そういう映画だと思う。日本版のブルーレイが発売されたら欲しいくらいには私はこの映画が好きだ。
本作以上にクリストフ・ヴァルツが出演する新作『Rifkin's Festival』が撮影完了していると言うことを知れたのが嬉しい。そして延期されたとは言え、今夏(2020年)に新作撮影予定だったとは。次も次の次も期待します。
ウディ・アレンの50作品目、『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』を観る。
今まで私が観てきたアレン作品の中でテーマ的にも、物語的にも最も何も無い映画だと感じた。もちろん良い意味で。ヴィットリオ・ストラーロの陽光を活かした演出(そのシーンにおけるキャラクターの熱量の表現)や登場人物のキャラクターに合わせた固定カメラとステディカムとの使い分けなど、特にこの手のライトなラブコメディ映画では珍しいくらいの力の入れ様。ヴィットリオ・ストラーロが担当した過去2作、『カフェ・ソサエティ』、『男と女の観覧車』と比べると、シンプルな物語の中で用いられると更に贅沢に感じる。
この映画は「雨の降るロマンチックなニューヨークを撮りたい」アレンがインタビューで語っているように、雨が降るニューヨークの中でロマンチックな事が起きる以外何にも無い。もちろんアレン印のスノッブでハイコンテクストな会話や主人公のギャツビーと言う名前にまつわる分析は出来るのだと思うのだけれど、私としては、映画館で92分間そぼ降る雨のニューヨークとティモシー・シャラメ、エル・ファニング、セレーナ・ゴメスの恋模様を面白がるのが正解なんだと思っている。引きで撮ることが多い昨今の映画で律儀に登場人物の顔のクローズアップと多用し、且つカットバックで会話を進める。古臭いと言えば古臭いのだけれど、美男美女と雨のニューヨークがあれば、魅力的になる。
物語は男女のすれ違いと恋愛模様以外にほぼ要素は無い。アレンはインタビューで大分昔に書いた脚本と言っている。「アラファト似の女」と言う台詞が現代の20代前半の登場人物が使うことからも90年代くらいに書かれたのかなと想像するが、主人公ギャツビーのモラトリアムや家庭の問題と言う要素はあるものの余り大きなテーマではない。主人公ギャツビーと彼女であるエル・ファニング演じるアシュレーの関係性とオチは既視感が凄い。『ミッドナイト・イン・パリ』のギル・ペンダーの物語から1920年代へのタイムスリップ要素をごっそりそぎ落としたような話だと思った。
この前に観た映画が『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』だった。オルコットの原作を読み込んで、リサーチしまくったグレタ・ガーウィグが物語的な面白さと思想性を両立させつつ、これでもかと詰め込んだ素晴らしい物語だった。それと比べると、『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』は物語的に全く中身が無い。あるのは「雨の降るロマンチックなニューヨーク」だけだ。キネマ旬報2020年7月上旬号で菊地成孔さんが本作を評して「観光映画」と評していたが、その通りだと思う。結局アマゾンから逃げられて、アメリカでは出資してもらえず、欧米からの出資で映画を作るほか無いアレンにとっては、ニューヨークでお金の掛かる雨を降らせる映画を撮るのは大変だったらしい。それでもなおニューヨークと雨に固執した本作のテーマはやはり物語には無くシチュエーションなんだと思う。(ニューヨーク以外、出資してくれるヨーロッパの街であれば、実現難易度は低かったようでもあるし)
そういう意味では、『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』は非常にポストモンダン的な映画と言えなくも無いと思っている。物語はクリシエであり、あくまで添え物でしかなく、焦点はニューヨークと雨と恋愛模様と言う極めてフェティッシュな領域に定められている。そこでは驚くべき物語は起こらないが、素晴らしく魅力的なニューヨークとティモシー・シャラメとエル・ファニングとセレーナ・ゴメスが雨のニューヨークに美しく映える。
この映画、観る人によって頗る評価が割れると思う。退屈だと言う意見に抗うことは出来ないけれど、全くダメな映画かと言えばそうとは言えなくて。映画館の大きなスクリーンと贅沢な音響の中でダラダラと観るのが適しているのだと思う。大画面で垂れ流したい、そういう映画だと思う。日本版のブルーレイが発売されたら欲しいくらいには私はこの映画が好きだ。
本作以上にクリストフ・ヴァルツが出演する新作『Rifkin's Festival』が撮影完了していると言うことを知れたのが嬉しい。そして延期されたとは言え、今夏(2020年)に新作撮影予定だったとは。次も次の次も期待します。
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