白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

「言語ゲーム」と生成変化4

2019年02月01日 | 日記・エッセイ・コラム
ウィトゲンシュタインはいう。先廻りしてこう言う。

「文章の意義はーーーとひとは言いたいかも知れぬーーーもちろんあれやこれやを未定にしておくことがあるけれども、それでも文章は《一つの》定まった意義をもたなくてはならない。未決定の意義、ーーーそのようなものは、もともと《全く》いみをなさないのだ、と。ーーーこのことは、あたかもはっきりしない境界など、もともと全く境界ではない、と言っているようなものである。この場合、ひとはたとえば次のように考える。もしわたくしが『自分はその男をしっかりと室の中へ閉じ込めたーーーただ《一つ》だけ戸が開いたままになっている』と言うとすればーーーわたくしがかれを閉じこめたことには全然ならない。かれが閉じこめられているというのは、見せかけにすぎないのだ、と。ここで、ひとは『それゆえ、おまえは何もしたことにならないのだ』と言いたくなるであろう。穴のあいた囲みなど囲みで《ない》も同然だ、と。ーーーだが、これは真実だろうか」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・九九」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.95』大修館書店)

読んでみるとこう思う。暗にマスコミのことを揶揄しているのだろうか、と。(1)なぜ閉じ込めたりしたのか、と問うマスコミ。(2)なぜもっとしっかり閉じ込めて監視しておかなかったのか、と問うマスコミ。一体どちらが正しいのか。場合による。が、場合もまた必ずしも必然的とは言えず、むしろ偶然に左右されることのほうがしばしばだ、実状は。しかし、ウィトゲンシュタインの問うていることはもっと深刻な事情であって、差し当たりマスコミとは関係がない。けれどもジャーナリズムが抱える事情とは大いに関係がある。従ってマスコミ自身の問題として重点的な一つだと考えられる。マスコミという諸関係の系列はもはやインターネットとの接続なしにはありえないという時点で、それだけで、複数の課題の山積というほかないかも知れないが。しかし、ここで問題とされていることは相変わらず「言語ゲーム」だ。

「未決定の意義」。そうしておくこと〔意味を宙吊りのままにしておくこと〕が《いつも》懸命なことなのか。そうとは言えないし言ってもいない。そうではなく、意味はいつも未決定なのであり、決定打などどこにもない、ということがまず了解されていなくてはならない。決定打が出現した途端、それは全体主義化される。ファシズム化する。言語というもののリスクを考えよう。言語は人を殺すことができる。言語によって人は殺されることもある。ちなみにマスコミが使用している言語はいわゆる共通語という言語であり、似てはいるが間違っても決して東京弁ではない。ところで他人の言葉による自殺は自分で自分自身を殺したことになるのか、それとも他人の言葉によって殺されたというべきなのか。決定打はあるのか。それともないのか。あるいは裁判官にはわかっているとでもいうのだろうか。どこまで判例に従っているのか、どこから自分で思考しているのか。だがしかし、どこまで行っても規則・文法という網目を通してしか物事は見えない、ということは知っているに違いない。だとしたら、たとえば明治時代の言文一致運動のように、社会的な規模で規則・文法が変化すれば、そのときには判決は変化するのか、それとも判例を見る見方が変化すると同時に判決もまた見直しを迫られるのか。もしそうであれば、裁判官の自分自身というものは一体どこにあるのか。判例といった文書類の中に、なのか。それとも判例プラスα、なのか。おそらく後者であるほかない。しかし、そういうときの「プラスα」とは一体なんなのか。

無限に拡張されていく意味内容について、その拡張を「ある程度に」留めるためには、或る種の限定がなされていなくてはならない。条件が付されなくてはならない。しかしその条件が適応されるとき、人は再びその条件についての意味内容について闘争・吟味しているのではないだろうか。ウィトゲンシュタインが「真実だろうか」と問うていることは、大変リアルな意味で「闘争・吟味」という《動作》についてだ。それは常に動的なことなのだから、境界線がどこで決定されているのか誰も知らないという事情に触れていることになる。動的という限りではどこまで行っても決着は着かない。だから境界線を引けと言っているわけか。ではなくて、境界線はいつも明確でなくてはならないのか、むしろ「時々は」ぼんやりしているもののほうが「間に合うのではなかろうか」、と問うているわけである。それでもなお境界線を決めることができるのは、関係してくるであろうすべての者が或る特定の「言語ゲーム」に従っており、その「言語ゲーム」を組織し組織され合ってもいる一時的な場合だけであり、その限りでのみ、境界線について述べることができ、また境界線を決めることもできる、ということに違いない。しかし「言語が空回り」し始めることはまったくないと言い切れるだろうか。

「われわれは、言語の慣用に関する自分たちの知識のうちに、一つの秩序を回復したいと思う。それは、一定の目的のための一つの秩序、多くの可能な秩序のうちの一つの秩序であって、秩序《そのもの》ではない。われわれは、この目的のために、自分たちの日常的な言語形式が容易に見すごしてしまう諸々の区別を、常にくり返し《強調》するだろう。そのことによって、あたかもわれわれが言語の改革を自分たちの課題と見なしているかのような外見を呈することがありうる。特定の実際的な目的のために行なわれるそのような改革、実際の語法の中で生ずる誤解を回避するための述語の改良なら、なるほど可能である。しかし、それらはわれわれの扱うべき事柄ではないのだ。われわれを煩わしている混乱は、いわば言語が空回りしているときに生ずるのであって、言語が働いているときに生ずるのではない」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・一三二」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.106』大修館書店)

「混乱は、いわば言語が空回りしているときに生ずる」、とある。まさしくそうだ。言語はいつも自分においても他の人においても「言語ゲーム」を反復させていなければ、ふっ、とばらばらに崩壊してしまう、というばかりではない。問題は、「言語ゲーム」〔共通言語共同体〕は常に複数ある、複数の「言語ゲーム」〔共通言語共同体〕は、いつどのように翻訳され合い得ているのか、翻訳され合い得ていないのか、というところにある。他者との交通が不可能になるのは或る特定の規則・文法が共有されていないからだ、と言い換えられる。そしてそれを押し付けることは誰にもできない。ただ要求することが許されているにすぎない。言語というものは取り扱いに注意すべき極めて危険な道具だ。

それでもなお「言語ゲーム」は反復されているうちにだんだん変容する。そしてこの変容を止めることは時間を止めることと同じほど困難なことだ。言語を用いるコミュニケーションの可能性も不可能性もともに反復のうちにある。

さて、次へ移りたい。

例えばいま扱っているドゥルーズ。ドゥルーズをただ単なる遊び道具として取り扱うのは、あるいは簡単かも知れない。しかし人々は、ドゥルーズを、いつもただ単なる遊び道具としてだけ取り扱っているだろうか。それはそれで簡単ではないと思われる。とりわけマスコミにとって。

「メディアに<事件>をとらえるためのじゅうぶんな手段があるとも、メディアがその使命をになっているとも思いません。まず、一般にメディアが最初と最後を見せるのにたいして、<事件>のほうは、たとえ短時間のものでも、あるいは瞬間的なものでも、かならず持続を示すという違いがあります。そしてメディアが派手なスペクタクルをもとめるのにたいして、<事件>のほうは動きのない時間と不可分の関係にある。しかもそれは<事件>の前後に動きのない時間があるということではなくて、動きのない時間は<事件>そのものに含まれているのです。たとえば不意の事故がおこる瞬間は、いまだ現実には存在しない何かを見る目撃者の目に、あまりにも長い宙づりの状態でその事故がせまってくるときの、がらんとした無辺の時間と一体になっているのです。どんなありふれた<事件>でも、それが<事件>であるかぎり、かならず私たちを見者にしてくれるのにたいして、メディアのほうは私たちを受動的なただの見物人に、そして、最悪の場合は覗き魔に変えてしまいます」(ドゥルーズ「記号と事件・P.323~324」河出文庫)

もう遅い。「メディアのほうは私たちを」すでに「覗き魔に変えてしま」った。さらに「最悪の場合」は現在なおも急速に且つ深く進行中だ。もっとも、「メディア」の範囲を想定することは可能だ。しかしその範囲を想定することは、ただ可能だというだけであって、視聴者にとっても「自称=メディア」にとっても、もはやさっぱりわからなくなってしまっている。「覗き魔に変え」られていくばかりの「私たち」。同時に、この「私たち」の中には、もちろん、メディア関係者も入っている。共犯関係には限りがない。だからニーチェのいうように、時々は、忘却=切断しなくてはならない。世間から切り離されなくてはならない。でないと諸関係の渦の中で窒息してしまう。

「非=主体的個体化」。前回は「非=主体的」「非=人称的」の部分をわざわざ強調して少しばかり述べた。「個体化」も含めると、なぜそう言うのかというポイントがもっとよくわかってくるだろうと思う。死についての記述になる。死ぬとき、主体はすでに「非=主体的」でしかない。「非=人称的」でもある。時間性が失われているのだから。そして、個体というのは実在する「身体」のことであり、実在する「身体」として個体は死ぬ。一度目は人称性の失効として、二度目は身体=個体の死として、人間は二度死ぬ。従って、「非=主体的個体化」とは、この二重の死を前提して用いられているわけだ。とはいえ、前回述べたように、政治的な意味をまったく含まないかと問われれば、そうではない、含むことが想定されてもいるに違いないと答えることができる。ただし大事な点がある。ドゥルーズはマルクスを否定していない。スターリニズムは明確に否定されているけれども、その根にマルクスの言葉があるからといって、マルクスのすべてを否定するような下手な真似はしていない。するわけもない。むしろそうした運動家らのことを取り上げて批判している。

「ヌーヴォー・フィロゾフは、マルクスを告発するだけ告発しておきながら、資本についての新たな分析をおこなうことがまったくないため、彼らの著作では資本の存在が不思議なくらい希薄になるばかりで、要するに彼らは、政治的にも倫理的にも深刻な結果をもたらしたスターリニズムの影響を告発し、その淵源にマルクスがいると仮定したにすぎないのです。ヌーヴォー・フィロゾフは、不道徳な影響をおよぼしたとして、ことさらにフロイトを非難した人たちに近いといえるでしょう。そんな態度で哲学ができるはずはありません」(ドゥルーズ「記号と事件・P.293」河出文庫)

さて、ようやく、変身=分身の世界へ。総変身時代とでもいうべき事態なのだが。

「しかし、人間の先祖は、本人の血族ばかりでなく、文学のうちにも存在しているのだ。いや、タイプと気質という点ではこのほうが近いに相違ない。その数もすくなくなく、影響力にしても、血族の先祖よりは完全に自覚することができる。ドリアン・グレイは人間の全歴史はかれ自身の生活の記録にすぎぬと感じることがしばしばあったーーーと言っても、かれの行為や環境という意味での生活ではなく、現実のかれに代ってかれの想像力が創(つく)りあげた生活、かれの頭脳と情念の生活なのだ。次々に世界の舞台上を通りすぎ、罪悪をしてかくもすばらしきものと化せしめ、悪徳にかくも微妙な味わいを附したひとびとの怪奇な姿、それをかれはひとり残らず知っているような気がするのだった。ある神秘によって、かれらの生活がそのままかれ自身の生活であったように思われてならなかったのだ。

ドリアンの生活に大なる影響を及ぼしたあのすばらしい小説の主人公もまた、これと同じ奇妙な想念を知っていた。その第七章でかれは物語っているーーー電撃に打たれぬように月桂冠(げっけいかん)を戴(きただ)き、キャプリの庭に座してティベリウスのごとくエレファンティスの恥ずべき書を読み耽(ふけ)り、その間、侏儒(しゅじゅ)と孔雀(くじゃく)がかれの周囲を闊歩(かっぽ)し、笛吹くものが、香炉を打ち振るものを嘲弄(ちょうろう)していた旨(むね)を。そしてまた、カリグラとなって、緑色のシャツを着た騎手と厩(うまや)のなかでえ酒宴をともにし、宝石をちりばめた帯飾りを額につけた馬と一緒に象牙(ぞうげ)の秣桶(まぐさおけ)で夕食をたべ、あるいはドミシアンとなって、人生からあらゆるものを許された人間を襲うあの倦怠(けんたい)、ある怖るべき『生の倦怠』にさいなまれて、大理石の鏡が並ぶ廊下をさまよい、自分の命を絶たんとする短剣が映ってはおらぬかと憔悴(しょうすい)しきった眼をあたりに配ったこともあり、あるいはまた、透きとおったエメラルドをとおして闘技場の血に彩(いろど)られた殺戮(さつりく)の光景を眺め、続いて、銀の蹄(ひづめ)をつけた騾馬(らば)の曳(ひ)く真珠色と紫色の轎(かご)に乗せられて、柘榴(ざくろ)並木の大路を黄金の屋敷へと向い、その途上、通りすぎるかれに対してひとびとがネロ皇帝万歳と叫ぶのを耳にしたこともあり、さらに、エラガバルスとなって、顔に絵具を塗り、女たちの群がるなかに糸巻棒を振りまわし、カルタゴから『月』を連れきたって、『太陽』と神秘的な結婚をさせたこともあった」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像・P.279~280」新潮文庫)

「かれらの生活がそのままかれ自身の生活であったように思われてならなかった」、という。よくあることだ。しかし立ち止まってみると、幾つかの宗教の中には、ただ単なる視線によってさえ「姦淫することなかれ」と謳っているものもある。キリストはよく事情に通じていたのだろう。視線によって姦淫することなど幾らでも可能だということを。とすれば性別などまったく関係なしに世界中が「偶発的姦淫」で溢れかえってしまうに違いない。実際のところ「偶発的姦淫」なら世界各地、どこへ行っても発生していない日はない。キリスト、というよりキリスト教は、性別を問わず、単なる視線による姦淫において、そこに積極的暴力が働いているということを見抜いていた。十分に強力な教義によって「視姦」が禁じられるや否やこの禁止によって、男が女を、女が男を「視姦」することが可能だった「力」は逆に自分自身のほうへと向きを変える。原始的暴力による戦闘的体制と組織力による征服と支配をもって国家が始まったのとはまた別の仕方で、宗教的権威による人間の内面化はより一層狡知な方法をもって始まる。そうした経緯を経てキリスト教的「告白」は「告白することで逆に罪を形成する」という転倒した、だがとても合理的な機能を獲得することに成功した。ところで、この部分に、「ある神秘によって」という但し書きが付いている。覚えておこう。

「頭脳には頭脳が貪(むさぼ)りたべる糧(かて)がある、恐怖ゆえにグロテスクなものと化した想像力、生物のごとく苦痛によってねじくれ、歪(ゆが)みきった想像力は、台上の醜い操(あやつ)り人形そっくりに踊り狂い、様々に相好(そうごう)を変える仮面をとおしてにたりと笑いかけるのだ。と、不意に、かれの『時』が停止する。そうだ、この盲目の微(かす)かに息づく存在はもはや這い進むことをやめる、身の毛のよだつ想念は、『時』が死んだいま、すばやくその前面に立って走り、醜怪な未来を墓から曳(ひ)きずりだして自分に見せるのだ。かれはまじまじとその未来を眺める。その怖(おそろ)しさにかれは石になってしまいそうだった」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像・P.318」新潮文庫)

死は、いつどこで待ち構えているかわからないものだ。「不意に、かれの『時』が停止する」。と、「石になってしまいそう」なのだ。例えばデッサン。被写体はただ単なる「線」状化される。それは可能的な一つの死だ。定着されると同時に死物と化す。同じことだが、単なる可能事としての死を廃棄して現実の死(石化)へと転化する。

ロレンスから。有名な小説のことを忘れてしまいそうだった。

「雨があがってきた。槲の木の間の暗さがうすれてきた。コニイは帰ろうと思いながらすわっていた。だんだん寒くなってきた。だが胸の中に湧いている憤怒の感じがからだをもの憂くするので、彼女は麻痺したようにじっと動かなかった。犯されている!人間は触(さわ)られることがなくてもりっぱに犯されてしまうのだ。死滅した言葉に犯されては卑猥(ひわい)になり、死滅した観念に犯されては我執が生まれる」(D.H.ロレンス「チャタレイ夫人の恋人・P.152~153」新潮文庫)

「私には肉体を下さい。確かに肉体生活は精神生活よりももっと偉大な現実だと思いますわ」(D.H.ロレンス「チャタレイ夫人の恋人・P.364」新潮文庫)

「人間は触(さわ)られることがなくてもりっぱに犯されてしまう」と並行して「言葉に犯されては卑猥(ひわい)になり」「観念に犯されては我執が生まれる」と、作家が、ではなく、コニイは言っている。本当は誰が〔何が〕語っているのか。「誰が〔何が〕」はニーチェ的問題だが。

第一次対戦中、ロレンスは小説「虹」を出したが発禁処分を受けた。「虹」を読んだ読者は知っているに違いない。極めて退屈な本だ。にもかかわらず当局から「風俗壊乱」だとされた。しかし「虹」に続く長編「チャタレイ夫人の恋人」でロレンスはコニイに〔コニイを通して〕「肉体生活は精神生活よりももっと偉大な現実だ」とわざわざ語らせている。「現実」かどうかが問題なのではすでにない。コニイにとっては、ただ単なる精神生活より肉体生活のほうが遥かに「現実」なのであって、どちらがより一層「現実」かなどという子供じみた問いはもうすっかり終わっている。「肉体」は空気と同じほど大地に近い。そう解するほかない。この点では特に意味の輪郭を鮮明にしておこう。そして女性の「脚」について。女性の「脚」はたった一つしかないのだろうか。そうではない、見本(モデル)などない、と声を大にして言わねば理解してもらえないほど黴臭い時代だったようだ。それでも当時どれほど理解者がいたか。はなはだ疑問なのだ。その点で近代人はロレンスを見殺しにしたと言える。

「コニイは脚の存在に目ざめた。彼女には脚が、あまり真実のものでない顔よりも、もっと重大に思われてきた。ーーー女は飼いならされていなかった。それどころか多くの女性の、工場の支柱のような怖ろしい脚!まことにそれは驚くべきものであり、人殺しをしたくなるのもあたりまえのような脚であった。それでなければ哀れにもやせた脚!あるいは少しも生命あるとも思われない、絹の靴下に包まれた小ぎれいなよく整った脚!怖ろしくもたくさんの意味もない脚が、意味もなくはねまわっている!」(D.H.ロレンス「チャタレイ夫人の恋人・P.395」新潮文庫)

ところで、次のセンテンスで子供は「小さな獣(けだもの)」へ変身しているばかりか、変身した自分を自分自身で謳歌している。この「小さな獣(けだもの)」はまるで「恍惚(こうこつ)とした喜び」それ自体に《なる》。「喜び」だけなら「感じる」ことしかできないと、なるほど言えるのかもしれない。しかし「恍惚」は感じる「もの」ではない。恍惚それ自体に《なる》のだ。

「彼女は、その小さな獣(けだもの)がよちよち歩きながら、鼻をくんくんいわせ、ものに触わって正体を確かめたり、《やみくも》に走りだして、陽光と、その腹や鼻をやさしく撫(な)でる熱い妙なものに恍惚(こうこつ)とした喜びを感じているのをじっと見ていた」(D.H.ロレンス「二番手がいちばん」『ロレンス短編集・P.132』新潮文庫)

さらに「新しい」知覚へ「入れ替わ」るということ。思いもよらない文章。

「パーヴィンはよく慣れている環境の中を、すべてが暗闇に包まれているにもかかわらず、ほとんど意識せずに動き回った。彼は物に触れる前に、それの存在がわかるようだった。一種の血の予知によって押し流されるように、物の世界の中をこのように楽々と進んで行くことは彼には楽しかった。彼は大して考えることもなく、大して悩むこともなかった。彼が実在の世界とまったく直接(じか)にこうした血による接触をつづけている限り、彼は幸福だったし、視覚の介在もまったく必要としなかった。このような状態において、ときには恍惚(こうこつ)にも似た、ある豊かな確信があった。生命が彼の中で潮のように、あらゆるものを暗黒に包み込みながら、ひたひた、ひたひたと、進んでいくように思われた。前へ手を伸ばして見えないものに触れ、それをつかみ、ただ触れるだけでそれを所有することは喜びだった。彼は記憶したり、視覚化しようとしなかった。したいとも思わなかった。知覚の方法が彼の中で新しく入れ替わったのだ」(D.H.ロレンス「盲目の男」『ロレンス短編集・P.289』新潮文庫)

こうも言う。

「彼女の既知の意識や既知の意志よりもっと深い、彼女の内部のある神秘な意志によって、彼女が太陽と結ばれると、太陽の流れは彼女をつらぬいて、彼女の子宮のまわりを流れた。彼女自身、つまり彼女の意識している自己は二次的なもので、二次的人間、いわば傍観者に近い存在だった。ほんとうのジュリエットは、彼女の深い肉体の内部で暗い光線の流れが渦を巻いているように、彼女の子宮の甘美な、閉じた蕾のまわりを暗く菫色(すみれいろ)に渦巻いている、太陽の暗い流れの中に生きていた。彼女はこれまでいつも自分を抑え、自分のしていることを意識して、自分を堅苦しく守っていた。いまや彼女は自分の内部に、まったく別種の力、彼女自身よりもっと偉大な、もっと暗くてもっと野蛮なもの、自然の力が自分に流れてくるのを感じた。いまや彼女は彼女自身を超えたある力に呪縛(じゅばく)されて、もうろうとしていた」(D.H.ロレンス「太陽」『ロレンス短編集・P.366』新潮文庫)

「別種の力」「もっと偉大な」「もっと暗くてもっと野蛮なもの」、とある。しかしこれはいわゆる「権力への意志」ではない。「権力への意志」というのは誤訳であって、誤訳だということはわかっていたものの、ほかに何かもっと適切な表現がないかと翻訳者らは思っていた。で、三十年ばかり前から「権力」ではなく「力能」と訳されるようになった。「への」もまた問われている。「力」といってもそれはあくまで「諸力」だからだ。それらは連関している。連関しつつ進行形を取っている。いろいろ試行錯誤があったらしい。単なる「生命力」ではまったくないので、仮に「力意志」とか。しかし決定打は出なかった。事実上、身体は受動的であり同時に能動的でもあり倒錯しており錯綜していてーーー、様々な諸力=諸関係の所産なわけで。ロレンスはそのような多様で柔軟な「力」の原始性を「性」の威力を通して回帰させたいと思っていた。

次のセンテンスはなかなか面白い。ロレンスとしてはほかに書きようもなかったのだろう。ただ、叙述した。だからリアルなのだ。

「だがいまやあの妙にいどむような彼の青い目が、太陽の青い中心のように青く圧倒するばかりに、彼女をとらえていた。しかも彼の薄いズボンの下で、自分にむかって、男根が激しくそそり立つのを彼女は見た。そして赤ら顔と、たくましい体を持った彼は、彼女にとって太陽、灼熱(しゃくねつ)する太陽のようであった。彼女は彼をあまりにも力強く感じていたので、彼から離れることができなかった。彼女は相変わらず木の下にすわりつづけていた。すると家のほうから乳母が鈴をチリンチリンと鳴らしながら、大声で呼ぶ声が聞こえてきた。そして子どもは呼びもどされた。彼女は起きあがって家に帰らねばならなかった。午後になると彼女はオリーヴの斜面を海まで見わたせる、家のテラスにすわっていた。男は仙人掌の茂みのはずれにある、彼の農地に建っている小屋を出たり入ったり、出たり入ったりしていた。そして彼は彼女の家のほうを、テラスにすわっている彼女のほうを、またしてもちらっと見た。すると彼女の子宮は彼にむかって開くのだった」(D.H.ロレンス「太陽」『ロレンス短編集・P.374』新潮文庫)

またこうも。

「彼にとってそれは、烈(はげ)しい、大きな、汗の出る、別の陽ざしを浴びているようなものだった。それでいて後になれば忘れてしまうのだ。個人として、彼は存在しなかった。それはまさに、温かい、力強い生命のーーーやがて別れて忘れてしまう、生命の湯浴(ゆあ)みであった。しかもまた、太陽のように、生殖をもたらす湯浴み。だがそれはどうにもうまくいかなかった!彼女は個人的な接触や、あとでその男と話をしなければならぬことを思うとまったくうんざりした。あの健康な男は、そのあと、たぶん満足して立ち去るだろう。彼女がそこにすわっていると、生命が彼から彼女へ、そして彼女から彼へ、流れて行くのを感じた。彼女は彼の身の動かし方から、彼女が彼を感じているよりももっと彼が彼女を感じていることがわかった。それはもうほとんど、彼ら二人がたがいに肉体を意識している苦痛にほかならず、どちらも鋭い目をした配偶者、すなわち所有者に監視されて、気もそぞろにすわりつづけていた。そしてジュリエットは考えた。なぜ、わたしは彼のところへ行ってはいけないのだ!なぜわたしは彼の子どもを産んではいけないのだろうか?それは無意識の太陽と無意識の大地の間に子どもを、果実のような子どもを産むようなものであろう。ーーーすると彼女の子宮の花が放射状にひろがった。それは感情も所有も問題にしていなかった。それはまったく先のことを考えずに、男の雫(しずく)だけを求めていた」(D.H.ロレンス「太陽」『ロレンス短編集・P.390~391』新潮文庫)

この部分の主語は、おそらく、彼でも彼女でも構わない。「個人として、彼は存在しなかった」というのであれば、この場合、並行して、「個人として、彼女は存在しなかった」、とするのが適切だろう。交合はもう間近なのだが、両者の間には障壁がある。自意識だ。互いの観念的で過剰な自意識が互いの直接的な肉体的接近を逆に阻んでしまうというもどかしさ。それでも「彼女がそこにすわっていると、生命が彼から彼女へ、そして彼女から彼へ、流れて行くのを感じた」。或る人から他の人へ流動する力。

次にロレンスは仮に「彼女」としているがーーー。「彼女の子宮の花が放射状にひろがった。それは感情も所有も問題にしていな」い。だから、媒介物のない〔あいだに言語、従って貨幣も介在しない〕無媒介の交合とはこういう状態をいうのだ。欲望する諸機械。「宇宙論的性」あるいは「性の宇宙」。

さて、いったんワイルドに戻ろう。「ある神秘によって」という但し書き。覚えておこうと述べた。分野は異なるが、この「神秘」は取り除くことができる。より一層困難且つ「不可解」な「神秘」もあったが取り除かれた前例がある。参照してみるのもいいかもしれない。

「資本のすべての部分が一様に超過価値(利潤)の源泉として現われるということによって、資本関係は不可解にされる」(マルクス「資本論・第三部・第一篇・第二章・P.81」国民文庫)

マルクスによる経済学批判=資本論は、この、一見「神秘的」な「不可解」さを解いてみせた空前の作品として古典になってしまった。どの作品もそうかもしれないが一度古典になってしまうと、なぜか、ありがたがられるばかりで実はあまり読み返されないという珍現象を引き起こす。資本論は読むものであってどこからどう見ても聖書ではない。しかし聖書は読むものではないのだろうか。十字軍のように軍事武装にばかり駆り立てるものでなければならないのだろうか。少なくとも、飾り立ててありがたがっているだけのものではないだろう。それでは余りにももったいない気がする。

なお、「チャタレイ夫人の恋人」は一九二八年に出版された。日本でいう昭和三年。トロツキー逮捕。日本共産党一斉検挙(3.15事件)。張作霖爆殺事件。第一回全日本学生陸上競技大会開催。

BGM