相続に当たって考えておかねばならない。様々なことども。その、ほんの一部について。
(「死後の手続きはこんなに大変です」「おとなの週刊現代・2019Vol.1・P.90」講談社)
五十一歳のうつ病者として「感想」を少しばかり述べたい。
多剤併用。うち、十年以上に渡って「厚労省が発表した『高齢者が注意すべき薬』①」に含まれる薬剤を三種類服用している。突然中止すると離脱症状が出る。何度か経験した。顕著な離脱症状は主にベンゾジアゼピン系の薬剤に関する。「いらいら」「不眠」「字が書きにくくなる」「パソコンが打ちにくくなる」「便秘」「食欲不振」「無気力」「無関心」「動けなくなる」「寝たきり」など。
で、どうすればよいのか。実際にあらかじめ試してみて、常日頃から備えておくのが最もよいだろう。とはいえ、離脱症状が生じてくると昏倒してその場で突然倒れてしまう人もいる。だから、ひやかしに試してみるのは考えものだ。なので、ここでは実体験しか語ることができない。それでよければ語ろう。以下。
(1)処方箋薬の離脱症状の場合
いわゆる「半減期」を過ぎるのと時間的に並行して「字が書きにくくなる」「パソコンが打ちにくくなる」「不眠」「顔の筋肉に力が入らない」といった症状が顕著に出現する。一見、矛盾した症状のように見える。しかしこれがうつ病者の現実。さらにこれらの離脱症状は、特に職場で仕事をしている人の場合、よく実感できるとおもう。だが処方箋薬の場合、薬の成分が体内から排出されて約四~五時間を過ぎれば、身体の調子はだんだん改善されてくる。しかし元に戻るといってもそれはもともとの「うつ病状態」に戻るといったことでしかない。したがって、何か他の薬剤に切り換える方向を選択肢として考えておくほうが無難だろう。それなら多剤併用しつつ徐々にどんな薬へどのように切り替えるのがよりベターなのか、把握できるかとおもう。また、個人的に言えば、「うつ病」より深層に「アルコール依存症」を抱えてもいる。次にアルコール離脱について。
特に高齢者の場合、たいへん困難だ。というのは、アルコールが体内から抜けた後もいつも何らかのアルコール関連症状(譫妄・脱力・硬直・手足の震え・寝たきり・易怒性・多弁など)を呈しているため、その病的症状を抑えるための薬の投与が逆に譫妄状態を深くさせたり、いつまで経っても寝たままだとか、まだ午後七時だというのに突然ベッドでいびきをかいて寝始めたと思いきや、急にはたと起き出してベッド脇に設置してある転倒防止用の金具を乗り越えて朦朧状態のまま床に頭から転げ落ちると同時に再び眠りこけてしまう、といった危険な行為を何度も繰り返すからだ。かつてアルコール依存症治療で専門病院に入院した時、周囲の約三分の一がそのような高齢者であって、脱アルコールの困難をじっくり見ているので、その辺りの処置方法はよく知っている。もしこれを一つの世帯の中だけでやろうとすればおそらく家族全員が介護のためだけに過酷な疲労に陥るだろうことはわかり過ぎるくらい痛切に感じた。なんだか今日は言動がおかしいように見えていた日の夜中にその高齢者の様子を見に行くと、どうやってやったのかわからないが、案の定、ベッドとベッドの間に糞尿している始末。さらに自分の糞尿の上に横たわったままぐっすり寝入っていることもしばしば。発見次第、看護師詰所にわざわざ報告しに行かなくてはならなかった。
また入院患者のうち、多くは四〇代後半〜五十代。そして四、五十代〜六十代のうちにほとんど死亡する。そのうちの生き残りが約三分の一に当たる高齢者(七〇代以上)ということになる。そのような現場での壮絶体験を目の当たりにしたのは自分自身が二〇代後半だったせいかもしれないが、観察できる余裕が残っていたし、よく覚えている。ふりかえって述べられる点だけを述べたいとおもう。
(2)アルコールの離脱症状の場合
いわゆる「半減期」というものは存在しないと言うのが正しい。体内のアルコール代謝時間は、アルコールを受け付けるタイプの人々とそうでない人々とに区別できる。しかし依存症化している場合、その区別はまったくといっていいほど、ほとんど無意味。アルコールの場合、基本的に、摂取したアルコールが体外へ排出されるまでに約二十四時間程度かかる。さらにそれから、約二十四時間、様子を見る。合わせて四十八時間。この間にアルコールに特有の離脱症状が出現するか、出現し始める。したがって一般的には処方箋薬からの離脱期間より倍以上の長時間を要する。離脱症状は諸々の症状のパッチワークを呈すると言ってよい。精神病に類するありとあらゆる多彩な症状が出現する。だいたい三日は見ておくほうがいいだろう。ただし三日を過ぎて何もなくても、四日目になって始めて突如として暴れ出したりすることもあるので、慎重を期するとなると、約一週間は必要だろうとおもわれる。アルコール離脱は高齢者になればなるほど厳しいのが現実。だから七〇代以上の高齢者の断酒となると必ず一度はほぼ失敗する。しかしまた飲み始めるとさらに苦しく全身の震えを伴う長時間の離脱症状をくぐり抜けなければ脱アルコールの見込みはほぼ完全に不可能となる。「人生百年時代」など夢のまた夢になるほかない。あるいはアルコール経由で他の病気を患う。いくつか上げてみよう。
「肝臓癌」「脳萎縮」「脳血栓」「糖尿病」「ウェルニッケ脳炎」「コルサコフ症候群」「腎臓癌」「膵臓癌」「喉頭癌」「舌癌」「食道癌」「胃癌」「十二指腸潰瘍」「認知機能障害」「アルコール性統合失調症」などが代表的。「胃潰瘍」の場合では手術で全摘出するという方法もあるが、全摘してしまうと次にアルコールを飲んだ時、胃での一旦停止を経ないので、直接的にアルコールが全身に染み渡る。そのとき、この上ない快感が全身を駆け抜けるということは病者のあいだでよく知られている。禁止薬物以上の快感を得られる。だから、一度違法ドラッグにはまった経験のある人々がなぜか違法ドラッグではなく、あえてアルコールに戻ってくることがあるのか、ということは胃の全摘を経た患者なら誰にでもわかることだ。
また、iPS細胞で胃を再現して胃を復活させることは可能である。肝臓を復活させることも可能である。しかし、せっかく再現させただけでなく将来的にはヴァージョン・アップ可能なiPS細胞であっても問題は残る、というより、問題自体が回帰・反復して出現してくる。なぜか。人間は一度記憶した快感を忘れることができない。したがって、たった一度であっても依存症を患った人々は、すべての内臓を復活させたとしても、むしろなおさら、ヴァージョン・アップされた内臓を用いて、ただし胃だけをとっとと機能不全へ追い込んで手術で全摘してしまい、再び違法ドラッグの効果を遥かに凌駕するアルコールの直接的摂取という快感を反復させるばかりだろう。そしてただ単なる「廃人」と化して一切の動きを停止させるまで、より以上の快楽獲得へと意志する、もはや人間でありながら人間でない状態へ至ることを欲しさえする、ということを見越しておかねば何一つはかどらないことは目に見えている。あらかじめ「人生百年時代」を創設して医療現場からより多くの医療費のうちの税収に当たる部分をまんまと国庫へ蓄積しようという政府の考え方は、だから、薬物依存者とかアルコール依存者とかギャンブル依存者(脳機能障害)にはまったく当てはまらない。そして今後はその中へネット・ゲーム依存者(脳機能障害並びに病的引きこもり・易怒性・DV)がどっと大量流入してくることになるだろう。酒はなるほど日本の文化の一端を担ってはいる。だが、酒だけが日本文化なのだろうか。もしくは飲酒が。よほどの馬鹿でない限り、酒は嗜むものであり、けっして日本文化の中心ではないと答えるだろう。仮に中心があるとしても、それはいまの天皇制のようにあくまで「空虚」な何ものかなのであって、ただ単なる「アル中」が強制性交を犯した後で満足気に旺盛ないびきをかきながら大の字になって眠りこけている場所ではない。
しかしマスコミ(特にテレビ)は立場上、スポンサーを背後に持っているので、その現実について事実を報道することはできない。さらに社会・福祉部門の切り離しを計画しているNHKの悪質極まる組織的体質などはもはや論外と断定するほかない。かといってネットでの書き込みは余りにも不十分かつてんでばらばらだと言わざるを得ない。その点は何度でも繰り返し心得ておく必要がある。にもかかわらず、病者であっても当然、たった今上げた様々な病気の諸症状を抱えた状態で煩雑な法的手続きにのぞむことになる。しかしこのような調子では家族会議にすらまともに出られない。出られたとしても言いたいことがなかなか上手く言えない。しかし筆談という手段があるのでは、と人々は思うかも知れない。なるほど筆談は可能だ。ただ、書かれた文字はほとんど象形文字と化してしまっていることがよくある。誰がその象形文字を解読するのか。親族かその代理人かそれとも司法書士か。むしろ患者は、自分は自分自身の考えていることをはっきり表明していると言っているか少なくとも書いている、と錯覚している場合が珍しくない。依存症を患う高齢者のケースでは周囲が気づいたとき既に時遅し、というパターンが余りにも多過ぎる。そうして、たとえ法廷に持ち込まれるとしても、余りにも粗雑な発言や妄言が含まれてくるため、法廷の機能自体が機能停止を余儀なくされるといったことまで生じてくる。すると親族のあいだでさらなる衝突が起こる。馬鹿馬鹿しい状況を通り越してもはや白けきって呆れるほかなくなるという珍現象を呈する。それでもなおNHKはそんな単純な将来像すら隠蔽することに奔走しつつある。NHKが以前と変わらぬ役割すら放棄してしまったら、ではどの放送局がスポンサー抜きに、何をいかに報道することができるのか。
ちなみに、「何をいかに」、という部分。このことの重要さをロシア全土に知らしめた歴史的人物のことを忘れ去ってしまっているのではなかろうか。その人の名はレーニン。マルクスとかエンゲルスとかの研究ばかりでなく、つい先日述べたフォイエルバッハについての研究で、マルクス=エンゲルスによって葬り去られたはずのフォイエルバッハが、実はいかに重要な哲学的問題を掘り下げて研究していたか。それについてはレーニン自身が「哲学ノート」の中で驚きをもって述べている。もし今の日本のNHKが仮にレーニン以上の頭脳と努力を惜しまないというのであれば、あるいはNHKにもまだ未来が残されているといえるかも知れない。が、そのような平穏無事な時期は過ぎ去った。ネットとかワイドショーで話題になっているというだけで実際は公式の場(国会での参考人招致など)で何らかの質問を受ける立場に立たされたわけではないのに、「忖度」に関して「それはない」とそそくさと言い切った。断言した。考えが足りないとはそのような、自分の頭の中だけで浮き足立ち慌てて先走った、反省なき横着な態度をいうのだ。受信料の徹底的支払い義務を目指しているにもかかわらず、である。「忖度」は頭の中だけで「推し測る」ことしかできない。外部からは可視化不可能。ゆえに実際に「ある」にせよ「ない」にせよ、いずれにしても「わからない」としか言えない。もっといえば、実は、「なかった」とも言うことはできない。言語的指示があったとかなかったとかいうケースなら問い詰めることはなるほど可能だ。しかし言語的指示ではなく「忖度」の場合、「以心伝心」という過程が割り込んでいるかあるいは割り込んでいないかするため、言葉で問い詰めてみても、相手は都合次第でどうとでも「ある」または「ない」と平気で言えてしまうものでしかない。そのような仮説の域を出ない事項について真面目に会見を開いてしまうNHKという組織が今度は問題にされなくてはならない。というか、すでにNHKはあてにならない、国民を裏切った、あえて右派の用語を用いていうなら「非国民集団」でしかない、というほかない。残念だが、むしろ逆に、期待していた側が馬鹿なのだと宣告されているようなものだ。
戻ろう。疾患として「癌」とか「腎臓病」とかの場合、主に内科を受診しているケースがほとんど。そうするとアルコールから離れるという第一の予防を怠ることに繋がるし、実際、そうなっているケースは今なお圧倒的に多い。手術中に離脱症状が出現してきて慌てて手術中止になり、改めて精神科を受診するという二度手間を省くためには日々の生活ルーティンの見直しが不可欠。だが今では様々な精神的病気を患っている人々は色々いるため、初診まで約三ヶ月待ちという医院が少なくないのが現状である。さらに、ネット検索しただけで自分で自分自身を単純に自己診断してしまうのは本当に考えものだというほかない。しかし、長々と述べてきたのにはわけがある。第一に、薬とかアルコールとかは、もはや日本人の日常生活に密着してしまっているということ。第二に、それゆえなおのこと、すでに「生前」のうちに備えておく手続きの必要性が大量増殖してきたこと。いわゆる「団塊の世代」の大量退職に伴う問題点。
しかしなぜ、まだ生きているうちに、このようなことを考えておかなければならないのだろうか、と思わないわけにはいかない。だが特にアメリカで、しかし日本でも、すでに「生前贈与」が基本定型化しつつある傾向を踏まえ、考えておきたいことがどんどん出てきた。ちなみに、あえていえば、個人的には異性愛世帯であってLGBT世帯ではないけれども、しかし「子どもがいない」世帯なので、次のことに触れておく必要がある。自民党所属の某国会議員による予告殺人的発言によって有名になった「子どもがいない」=「生産性がない」世帯にとってはのっぴきならない注意点。
(岡信太郎「子どもなくても老後安心読本・第三章・P.52~79」朝日新書)
ページ数をピックアップした第三章「『たすき掛け遺言』の作成」。たいへん参考になる。遺言書の作成は今なお最も有効な法的措置だといえる。しかし、それだけで大丈夫なのでは何らない。まだその先の手続きが続々とあるわけだが、それは第四章以下を参照してほしい。
また、アメリカ発祥の「信託制度」について、一つの特集記事あるいは一冊の新書があってもよいのでは、とおもわれる。信託制度は今、日本でも東京を中心に主に首都圏で選択されつつある。全国では一〜二割程度。社会の成り立ちそのものが複雑なアメリカ発祥の制度だけあって、「生前」という観点から合理的検討が加えられており、一考の価値がある。もちろん遺言書だけでは不安材料が残るといった場合などは特に検討してみる価値を有する、と述べるに留めておこう。
さて、いつもの哲学に戻ってきた。時間的制約は常にある。ベルクソンから一言だけ。
「知覚が脳内にあるのではない。脳こそが知覚群のうちに存在するのである。ーーー身体とは、だから、受容され、送りかえされる運動が《通過する地帯》であって、私に作用する事物と私が作用する事物とのあいだの連結点である」(ベルクソン「物質と記憶・P.301」岩波文庫)
この中で、「私に」《と》「私が」とのあいだに、截然とした区別が設けられていることに着目したい。ニーチェはいう。
「私はと私をとはつねに二つの異なった人格である」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一六四・P.99」ちくま学芸文庫)
そしてこのことは文法の問題だとも言いうるが、ニーチェは単にそれだけをいつまでも考えているほど馬鹿ではない。もっと別の次元への応用を踏まえて言っていることは確実だ。いわゆる「総力戦」は第一次世界大戦をもって始まると思っているほんの一部のぼうっとした馬鹿にとっては、なるほどただ単なる文法問題の枠内に留まるほかないかも知れない。しかしニーチェの場合、明らかにヘーゲルのいう「飛び道具」(鉄砲・大砲)の発明への言及(「飛び道具は個別的なもの<=個人的人間>にではなく一般的なもの<=所与の社会>に狙いをつける」)が頭の中でいつも表象されている。そのような「歴史哲学講義」内での歴史認識を十分に意識していることを踏まえて、それとともに考えられるべき問いだろう。
ところが人間社会はまだまだそこまで到達していない。にもかかわらず、使い方を学ぶ以前にそれら「飛び道具」を先に手にしてしまった失敗作が人間なのだ、という真相を真摯に受け入れねばならない。原爆投下はその実例の、わずかではあるが、相当決定的だったものの一つに違いない。その前後、細菌とか有毒ガスとかの兵器への転用が検討された。実施されもした。そして禁止されはしたが、いまなお人間は弱い。武器を全面的に放棄してしまうには余りにも弱すぎる。下劣すぎる。というより、人間=下劣それ自体ではないのか、と問い直したくなるほどだ。ゆえに天上ばかり夢みていて、しっかり着地することを忘れてしまうのかもしれない。個人的には悪夢のほうが圧倒的に多いのだが。それはそれとして。
しかし、では、たとえば「飛び道具」がない時代。いわゆる「矛と盾」があった。しかし「矛」を失った兵士は「盾」を水平に持ち替えて「矛」として用いていなかったろうか。あるいは「盾」を失った場合、兵士らは「矛」を横棒状態に持ち替えて「盾」として戦わなかっただろうか。むしろ「たった一本の樹木」の使用でさえ、一定の場所を全面的に占領したことの証明として採用されてはいなかったろうか。このことはけっして矛盾ではない。そうではなく逆に、古代世界は無-矛盾的地平をありのまま生きていたと見るべきではないだろうか。
だからといって、LGBTに対する「自民党所属の某国会議員による予告殺人的発言」の余韻は、LGBTに対する「魔女狩り」的恐怖を与えたまま、余韻どころか逆にオーケストラのように国内中に響き渡り、さらなる増殖の余地を発散させている。総括の何たるかも忘れた政府与党。LGBTに対する「魔女狩り」的恐怖の予告は、ミハイル・バフチンがドストエフスキーの長編群について述べたように今やポリフォニー状態に達しており、なおかつカーニバル状態のようにちぐはぐな言説が俗世間と地方自治体を混乱に陥れて留まるところを知らない。見た目は静寂に包まれているが、この静寂は人々が判断停止に追い込まれ、発言の自由に対して感じ取っている仮の静寂に過ぎない。一方で予告殺人的発言で恐怖心を植え付けられ、もう一方でいわゆる知識人以外は何一つそれについて考え方を改めるという作業を停止されてしまった一般の人々はいわば行き場を失っている、ということは何を意味しているか。要するに、言葉を失っているのだ。言語が遠のく。暴力が近づく。
ところで新潮社は、場所を「新潮」へ移して作家とか批評家とかに広く論じる場を設定することで、かろうじて事態の収拾を図り、何とか事態を乗り切った形に持っていきはした。けれども、発端になった本人は今どこで何をしているのだろうか。また、そのような差別主義者を地域の代表者として国会へ送り出している選挙区民の頭の中は全世界から非常に奇怪な目でじろじろ凝視され疑われているということをどこまで知っているのだろうか。そもそも選挙区民は「生産性発言」が、グローバル化した世界の中でも極めて奇異な目で、動物園の檻の「外」に転がっているダニか何かでも眺めるかのような目で上から覗き込まれ面白がられているという現状を知らされているのだろうか。このままでは、少なくとも先進国間での今後の外交交渉は、多かれ少なかれ挫折の連続を経ていくほかなくなるに違いない。
ちなみに、先進的諸外国の国会議員の中にも差別主義者は当然のように複数いる。が、それは選挙民が、わかった上であえて一時的支持を与えているだけのことに過ぎない。選挙民は自分たちの目的が達成されれば、達成された瞬間、次には落選させることにするという暗黙の民主主義的伝統を持っているからこそ、そういうことができるのだ。あいにく日本にそのような伝統はない。むしろ丸山真男は皮肉を込めてこういった。
「心構えの希薄さ、その意味での《もの》分りのよさから生まれる安易な接合の『伝統』が、かえって何ものをも伝統化しない」(丸山真男「日本の思想・P.16」岩波新書)
なお、「物質と記憶」は一八九六年発表。日本でいう明治二十九年。オスカー・ワイルド「サロメ」初演。イギリス「デイリー・メール」創刊。明治三陸大津波。ダウ平均株価初公表。陸羽地震。川崎造船所(後の川崎重工)設立。金重陶陽生まれる。浜尾四郎生まれる。クローニン生まれる。宮沢賢治生まれる。アルトー生まれる。フィッツジェラルド生まれる。ヤコブソン生まれる。ヴェルレーヌ死去。ミレー死去。ブルックナー死去。樋口一葉死去。尾崎紅葉「多情多恨」発表。泉鏡花「照葉狂言」発表。
BGM
(「死後の手続きはこんなに大変です」「おとなの週刊現代・2019Vol.1・P.90」講談社)
五十一歳のうつ病者として「感想」を少しばかり述べたい。
多剤併用。うち、十年以上に渡って「厚労省が発表した『高齢者が注意すべき薬』①」に含まれる薬剤を三種類服用している。突然中止すると離脱症状が出る。何度か経験した。顕著な離脱症状は主にベンゾジアゼピン系の薬剤に関する。「いらいら」「不眠」「字が書きにくくなる」「パソコンが打ちにくくなる」「便秘」「食欲不振」「無気力」「無関心」「動けなくなる」「寝たきり」など。
で、どうすればよいのか。実際にあらかじめ試してみて、常日頃から備えておくのが最もよいだろう。とはいえ、離脱症状が生じてくると昏倒してその場で突然倒れてしまう人もいる。だから、ひやかしに試してみるのは考えものだ。なので、ここでは実体験しか語ることができない。それでよければ語ろう。以下。
(1)処方箋薬の離脱症状の場合
いわゆる「半減期」を過ぎるのと時間的に並行して「字が書きにくくなる」「パソコンが打ちにくくなる」「不眠」「顔の筋肉に力が入らない」といった症状が顕著に出現する。一見、矛盾した症状のように見える。しかしこれがうつ病者の現実。さらにこれらの離脱症状は、特に職場で仕事をしている人の場合、よく実感できるとおもう。だが処方箋薬の場合、薬の成分が体内から排出されて約四~五時間を過ぎれば、身体の調子はだんだん改善されてくる。しかし元に戻るといってもそれはもともとの「うつ病状態」に戻るといったことでしかない。したがって、何か他の薬剤に切り換える方向を選択肢として考えておくほうが無難だろう。それなら多剤併用しつつ徐々にどんな薬へどのように切り替えるのがよりベターなのか、把握できるかとおもう。また、個人的に言えば、「うつ病」より深層に「アルコール依存症」を抱えてもいる。次にアルコール離脱について。
特に高齢者の場合、たいへん困難だ。というのは、アルコールが体内から抜けた後もいつも何らかのアルコール関連症状(譫妄・脱力・硬直・手足の震え・寝たきり・易怒性・多弁など)を呈しているため、その病的症状を抑えるための薬の投与が逆に譫妄状態を深くさせたり、いつまで経っても寝たままだとか、まだ午後七時だというのに突然ベッドでいびきをかいて寝始めたと思いきや、急にはたと起き出してベッド脇に設置してある転倒防止用の金具を乗り越えて朦朧状態のまま床に頭から転げ落ちると同時に再び眠りこけてしまう、といった危険な行為を何度も繰り返すからだ。かつてアルコール依存症治療で専門病院に入院した時、周囲の約三分の一がそのような高齢者であって、脱アルコールの困難をじっくり見ているので、その辺りの処置方法はよく知っている。もしこれを一つの世帯の中だけでやろうとすればおそらく家族全員が介護のためだけに過酷な疲労に陥るだろうことはわかり過ぎるくらい痛切に感じた。なんだか今日は言動がおかしいように見えていた日の夜中にその高齢者の様子を見に行くと、どうやってやったのかわからないが、案の定、ベッドとベッドの間に糞尿している始末。さらに自分の糞尿の上に横たわったままぐっすり寝入っていることもしばしば。発見次第、看護師詰所にわざわざ報告しに行かなくてはならなかった。
また入院患者のうち、多くは四〇代後半〜五十代。そして四、五十代〜六十代のうちにほとんど死亡する。そのうちの生き残りが約三分の一に当たる高齢者(七〇代以上)ということになる。そのような現場での壮絶体験を目の当たりにしたのは自分自身が二〇代後半だったせいかもしれないが、観察できる余裕が残っていたし、よく覚えている。ふりかえって述べられる点だけを述べたいとおもう。
(2)アルコールの離脱症状の場合
いわゆる「半減期」というものは存在しないと言うのが正しい。体内のアルコール代謝時間は、アルコールを受け付けるタイプの人々とそうでない人々とに区別できる。しかし依存症化している場合、その区別はまったくといっていいほど、ほとんど無意味。アルコールの場合、基本的に、摂取したアルコールが体外へ排出されるまでに約二十四時間程度かかる。さらにそれから、約二十四時間、様子を見る。合わせて四十八時間。この間にアルコールに特有の離脱症状が出現するか、出現し始める。したがって一般的には処方箋薬からの離脱期間より倍以上の長時間を要する。離脱症状は諸々の症状のパッチワークを呈すると言ってよい。精神病に類するありとあらゆる多彩な症状が出現する。だいたい三日は見ておくほうがいいだろう。ただし三日を過ぎて何もなくても、四日目になって始めて突如として暴れ出したりすることもあるので、慎重を期するとなると、約一週間は必要だろうとおもわれる。アルコール離脱は高齢者になればなるほど厳しいのが現実。だから七〇代以上の高齢者の断酒となると必ず一度はほぼ失敗する。しかしまた飲み始めるとさらに苦しく全身の震えを伴う長時間の離脱症状をくぐり抜けなければ脱アルコールの見込みはほぼ完全に不可能となる。「人生百年時代」など夢のまた夢になるほかない。あるいはアルコール経由で他の病気を患う。いくつか上げてみよう。
「肝臓癌」「脳萎縮」「脳血栓」「糖尿病」「ウェルニッケ脳炎」「コルサコフ症候群」「腎臓癌」「膵臓癌」「喉頭癌」「舌癌」「食道癌」「胃癌」「十二指腸潰瘍」「認知機能障害」「アルコール性統合失調症」などが代表的。「胃潰瘍」の場合では手術で全摘出するという方法もあるが、全摘してしまうと次にアルコールを飲んだ時、胃での一旦停止を経ないので、直接的にアルコールが全身に染み渡る。そのとき、この上ない快感が全身を駆け抜けるということは病者のあいだでよく知られている。禁止薬物以上の快感を得られる。だから、一度違法ドラッグにはまった経験のある人々がなぜか違法ドラッグではなく、あえてアルコールに戻ってくることがあるのか、ということは胃の全摘を経た患者なら誰にでもわかることだ。
また、iPS細胞で胃を再現して胃を復活させることは可能である。肝臓を復活させることも可能である。しかし、せっかく再現させただけでなく将来的にはヴァージョン・アップ可能なiPS細胞であっても問題は残る、というより、問題自体が回帰・反復して出現してくる。なぜか。人間は一度記憶した快感を忘れることができない。したがって、たった一度であっても依存症を患った人々は、すべての内臓を復活させたとしても、むしろなおさら、ヴァージョン・アップされた内臓を用いて、ただし胃だけをとっとと機能不全へ追い込んで手術で全摘してしまい、再び違法ドラッグの効果を遥かに凌駕するアルコールの直接的摂取という快感を反復させるばかりだろう。そしてただ単なる「廃人」と化して一切の動きを停止させるまで、より以上の快楽獲得へと意志する、もはや人間でありながら人間でない状態へ至ることを欲しさえする、ということを見越しておかねば何一つはかどらないことは目に見えている。あらかじめ「人生百年時代」を創設して医療現場からより多くの医療費のうちの税収に当たる部分をまんまと国庫へ蓄積しようという政府の考え方は、だから、薬物依存者とかアルコール依存者とかギャンブル依存者(脳機能障害)にはまったく当てはまらない。そして今後はその中へネット・ゲーム依存者(脳機能障害並びに病的引きこもり・易怒性・DV)がどっと大量流入してくることになるだろう。酒はなるほど日本の文化の一端を担ってはいる。だが、酒だけが日本文化なのだろうか。もしくは飲酒が。よほどの馬鹿でない限り、酒は嗜むものであり、けっして日本文化の中心ではないと答えるだろう。仮に中心があるとしても、それはいまの天皇制のようにあくまで「空虚」な何ものかなのであって、ただ単なる「アル中」が強制性交を犯した後で満足気に旺盛ないびきをかきながら大の字になって眠りこけている場所ではない。
しかしマスコミ(特にテレビ)は立場上、スポンサーを背後に持っているので、その現実について事実を報道することはできない。さらに社会・福祉部門の切り離しを計画しているNHKの悪質極まる組織的体質などはもはや論外と断定するほかない。かといってネットでの書き込みは余りにも不十分かつてんでばらばらだと言わざるを得ない。その点は何度でも繰り返し心得ておく必要がある。にもかかわらず、病者であっても当然、たった今上げた様々な病気の諸症状を抱えた状態で煩雑な法的手続きにのぞむことになる。しかしこのような調子では家族会議にすらまともに出られない。出られたとしても言いたいことがなかなか上手く言えない。しかし筆談という手段があるのでは、と人々は思うかも知れない。なるほど筆談は可能だ。ただ、書かれた文字はほとんど象形文字と化してしまっていることがよくある。誰がその象形文字を解読するのか。親族かその代理人かそれとも司法書士か。むしろ患者は、自分は自分自身の考えていることをはっきり表明していると言っているか少なくとも書いている、と錯覚している場合が珍しくない。依存症を患う高齢者のケースでは周囲が気づいたとき既に時遅し、というパターンが余りにも多過ぎる。そうして、たとえ法廷に持ち込まれるとしても、余りにも粗雑な発言や妄言が含まれてくるため、法廷の機能自体が機能停止を余儀なくされるといったことまで生じてくる。すると親族のあいだでさらなる衝突が起こる。馬鹿馬鹿しい状況を通り越してもはや白けきって呆れるほかなくなるという珍現象を呈する。それでもなおNHKはそんな単純な将来像すら隠蔽することに奔走しつつある。NHKが以前と変わらぬ役割すら放棄してしまったら、ではどの放送局がスポンサー抜きに、何をいかに報道することができるのか。
ちなみに、「何をいかに」、という部分。このことの重要さをロシア全土に知らしめた歴史的人物のことを忘れ去ってしまっているのではなかろうか。その人の名はレーニン。マルクスとかエンゲルスとかの研究ばかりでなく、つい先日述べたフォイエルバッハについての研究で、マルクス=エンゲルスによって葬り去られたはずのフォイエルバッハが、実はいかに重要な哲学的問題を掘り下げて研究していたか。それについてはレーニン自身が「哲学ノート」の中で驚きをもって述べている。もし今の日本のNHKが仮にレーニン以上の頭脳と努力を惜しまないというのであれば、あるいはNHKにもまだ未来が残されているといえるかも知れない。が、そのような平穏無事な時期は過ぎ去った。ネットとかワイドショーで話題になっているというだけで実際は公式の場(国会での参考人招致など)で何らかの質問を受ける立場に立たされたわけではないのに、「忖度」に関して「それはない」とそそくさと言い切った。断言した。考えが足りないとはそのような、自分の頭の中だけで浮き足立ち慌てて先走った、反省なき横着な態度をいうのだ。受信料の徹底的支払い義務を目指しているにもかかわらず、である。「忖度」は頭の中だけで「推し測る」ことしかできない。外部からは可視化不可能。ゆえに実際に「ある」にせよ「ない」にせよ、いずれにしても「わからない」としか言えない。もっといえば、実は、「なかった」とも言うことはできない。言語的指示があったとかなかったとかいうケースなら問い詰めることはなるほど可能だ。しかし言語的指示ではなく「忖度」の場合、「以心伝心」という過程が割り込んでいるかあるいは割り込んでいないかするため、言葉で問い詰めてみても、相手は都合次第でどうとでも「ある」または「ない」と平気で言えてしまうものでしかない。そのような仮説の域を出ない事項について真面目に会見を開いてしまうNHKという組織が今度は問題にされなくてはならない。というか、すでにNHKはあてにならない、国民を裏切った、あえて右派の用語を用いていうなら「非国民集団」でしかない、というほかない。残念だが、むしろ逆に、期待していた側が馬鹿なのだと宣告されているようなものだ。
戻ろう。疾患として「癌」とか「腎臓病」とかの場合、主に内科を受診しているケースがほとんど。そうするとアルコールから離れるという第一の予防を怠ることに繋がるし、実際、そうなっているケースは今なお圧倒的に多い。手術中に離脱症状が出現してきて慌てて手術中止になり、改めて精神科を受診するという二度手間を省くためには日々の生活ルーティンの見直しが不可欠。だが今では様々な精神的病気を患っている人々は色々いるため、初診まで約三ヶ月待ちという医院が少なくないのが現状である。さらに、ネット検索しただけで自分で自分自身を単純に自己診断してしまうのは本当に考えものだというほかない。しかし、長々と述べてきたのにはわけがある。第一に、薬とかアルコールとかは、もはや日本人の日常生活に密着してしまっているということ。第二に、それゆえなおのこと、すでに「生前」のうちに備えておく手続きの必要性が大量増殖してきたこと。いわゆる「団塊の世代」の大量退職に伴う問題点。
しかしなぜ、まだ生きているうちに、このようなことを考えておかなければならないのだろうか、と思わないわけにはいかない。だが特にアメリカで、しかし日本でも、すでに「生前贈与」が基本定型化しつつある傾向を踏まえ、考えておきたいことがどんどん出てきた。ちなみに、あえていえば、個人的には異性愛世帯であってLGBT世帯ではないけれども、しかし「子どもがいない」世帯なので、次のことに触れておく必要がある。自民党所属の某国会議員による予告殺人的発言によって有名になった「子どもがいない」=「生産性がない」世帯にとってはのっぴきならない注意点。
(岡信太郎「子どもなくても老後安心読本・第三章・P.52~79」朝日新書)
ページ数をピックアップした第三章「『たすき掛け遺言』の作成」。たいへん参考になる。遺言書の作成は今なお最も有効な法的措置だといえる。しかし、それだけで大丈夫なのでは何らない。まだその先の手続きが続々とあるわけだが、それは第四章以下を参照してほしい。
また、アメリカ発祥の「信託制度」について、一つの特集記事あるいは一冊の新書があってもよいのでは、とおもわれる。信託制度は今、日本でも東京を中心に主に首都圏で選択されつつある。全国では一〜二割程度。社会の成り立ちそのものが複雑なアメリカ発祥の制度だけあって、「生前」という観点から合理的検討が加えられており、一考の価値がある。もちろん遺言書だけでは不安材料が残るといった場合などは特に検討してみる価値を有する、と述べるに留めておこう。
さて、いつもの哲学に戻ってきた。時間的制約は常にある。ベルクソンから一言だけ。
「知覚が脳内にあるのではない。脳こそが知覚群のうちに存在するのである。ーーー身体とは、だから、受容され、送りかえされる運動が《通過する地帯》であって、私に作用する事物と私が作用する事物とのあいだの連結点である」(ベルクソン「物質と記憶・P.301」岩波文庫)
この中で、「私に」《と》「私が」とのあいだに、截然とした区別が設けられていることに着目したい。ニーチェはいう。
「私はと私をとはつねに二つの異なった人格である」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一六四・P.99」ちくま学芸文庫)
そしてこのことは文法の問題だとも言いうるが、ニーチェは単にそれだけをいつまでも考えているほど馬鹿ではない。もっと別の次元への応用を踏まえて言っていることは確実だ。いわゆる「総力戦」は第一次世界大戦をもって始まると思っているほんの一部のぼうっとした馬鹿にとっては、なるほどただ単なる文法問題の枠内に留まるほかないかも知れない。しかしニーチェの場合、明らかにヘーゲルのいう「飛び道具」(鉄砲・大砲)の発明への言及(「飛び道具は個別的なもの<=個人的人間>にではなく一般的なもの<=所与の社会>に狙いをつける」)が頭の中でいつも表象されている。そのような「歴史哲学講義」内での歴史認識を十分に意識していることを踏まえて、それとともに考えられるべき問いだろう。
ところが人間社会はまだまだそこまで到達していない。にもかかわらず、使い方を学ぶ以前にそれら「飛び道具」を先に手にしてしまった失敗作が人間なのだ、という真相を真摯に受け入れねばならない。原爆投下はその実例の、わずかではあるが、相当決定的だったものの一つに違いない。その前後、細菌とか有毒ガスとかの兵器への転用が検討された。実施されもした。そして禁止されはしたが、いまなお人間は弱い。武器を全面的に放棄してしまうには余りにも弱すぎる。下劣すぎる。というより、人間=下劣それ自体ではないのか、と問い直したくなるほどだ。ゆえに天上ばかり夢みていて、しっかり着地することを忘れてしまうのかもしれない。個人的には悪夢のほうが圧倒的に多いのだが。それはそれとして。
しかし、では、たとえば「飛び道具」がない時代。いわゆる「矛と盾」があった。しかし「矛」を失った兵士は「盾」を水平に持ち替えて「矛」として用いていなかったろうか。あるいは「盾」を失った場合、兵士らは「矛」を横棒状態に持ち替えて「盾」として戦わなかっただろうか。むしろ「たった一本の樹木」の使用でさえ、一定の場所を全面的に占領したことの証明として採用されてはいなかったろうか。このことはけっして矛盾ではない。そうではなく逆に、古代世界は無-矛盾的地平をありのまま生きていたと見るべきではないだろうか。
だからといって、LGBTに対する「自民党所属の某国会議員による予告殺人的発言」の余韻は、LGBTに対する「魔女狩り」的恐怖を与えたまま、余韻どころか逆にオーケストラのように国内中に響き渡り、さらなる増殖の余地を発散させている。総括の何たるかも忘れた政府与党。LGBTに対する「魔女狩り」的恐怖の予告は、ミハイル・バフチンがドストエフスキーの長編群について述べたように今やポリフォニー状態に達しており、なおかつカーニバル状態のようにちぐはぐな言説が俗世間と地方自治体を混乱に陥れて留まるところを知らない。見た目は静寂に包まれているが、この静寂は人々が判断停止に追い込まれ、発言の自由に対して感じ取っている仮の静寂に過ぎない。一方で予告殺人的発言で恐怖心を植え付けられ、もう一方でいわゆる知識人以外は何一つそれについて考え方を改めるという作業を停止されてしまった一般の人々はいわば行き場を失っている、ということは何を意味しているか。要するに、言葉を失っているのだ。言語が遠のく。暴力が近づく。
ところで新潮社は、場所を「新潮」へ移して作家とか批評家とかに広く論じる場を設定することで、かろうじて事態の収拾を図り、何とか事態を乗り切った形に持っていきはした。けれども、発端になった本人は今どこで何をしているのだろうか。また、そのような差別主義者を地域の代表者として国会へ送り出している選挙区民の頭の中は全世界から非常に奇怪な目でじろじろ凝視され疑われているということをどこまで知っているのだろうか。そもそも選挙区民は「生産性発言」が、グローバル化した世界の中でも極めて奇異な目で、動物園の檻の「外」に転がっているダニか何かでも眺めるかのような目で上から覗き込まれ面白がられているという現状を知らされているのだろうか。このままでは、少なくとも先進国間での今後の外交交渉は、多かれ少なかれ挫折の連続を経ていくほかなくなるに違いない。
ちなみに、先進的諸外国の国会議員の中にも差別主義者は当然のように複数いる。が、それは選挙民が、わかった上であえて一時的支持を与えているだけのことに過ぎない。選挙民は自分たちの目的が達成されれば、達成された瞬間、次には落選させることにするという暗黙の民主主義的伝統を持っているからこそ、そういうことができるのだ。あいにく日本にそのような伝統はない。むしろ丸山真男は皮肉を込めてこういった。
「心構えの希薄さ、その意味での《もの》分りのよさから生まれる安易な接合の『伝統』が、かえって何ものをも伝統化しない」(丸山真男「日本の思想・P.16」岩波新書)
なお、「物質と記憶」は一八九六年発表。日本でいう明治二十九年。オスカー・ワイルド「サロメ」初演。イギリス「デイリー・メール」創刊。明治三陸大津波。ダウ平均株価初公表。陸羽地震。川崎造船所(後の川崎重工)設立。金重陶陽生まれる。浜尾四郎生まれる。クローニン生まれる。宮沢賢治生まれる。アルトー生まれる。フィッツジェラルド生まれる。ヤコブソン生まれる。ヴェルレーヌ死去。ミレー死去。ブルックナー死去。樋口一葉死去。尾崎紅葉「多情多恨」発表。泉鏡花「照葉狂言」発表。
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