白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

「言語ゲーム」と生成変化12−2

2019年02月19日 | 日記・エッセイ・コラム
とはいえ、ヴァージニア・ウルフは次のようにクラリッサを救っている。

「客間では相変わらず人々が笑ったり叫んだりしているのに、あの老婦人がとても静かに寝床にはいろうとしているのを見物していると、うっとりさせられる。今、日除(ひよ)けをひっぱったわ。時計が鳴り出したわ。あの若い男は自殺した。でも、わたしはかわいそうだとは思わない。時計が一つ二つ三つ、と時刻を告げているんだもの、わたしはかわいそうだとは思わない、こうしたすべての生の営みが進行しているんだもの。あら!老婦人は明りを消しちゃったのね!家中が真っ暗になったわ、このような生の営みが進行しているのに、と彼女はくりかえして言うと、例の言葉が胸にうかんできた、もうおそれるな烈日を。みなのところへ帰らなくちゃ。でもなんてへんな晩だろう!なぜかわたしはそのひとにとっても似てるような気がするんだものーーー自殺した若い男のひとに。そのひとがそれをやりおおせたことがうれしいの、それを投げすてたことが、みなは生きているのに。時計が鳴っている。鉛の輪が空に溶ける。そのひとはわたしにうつくしさを感じさせてくれる。おもしろさを感じさせてくれる。でも、わたしは行かなければならない。みなといっしょにならなくちゃ」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.298~299」角川文庫)

しかしクラリッサが救われたのは、クラリッサの分身であるセプティマスが自殺することによって、またその限りで、であるほかない。さて、それではセプティマスの言動を取り出してみよう。最初はよくありがちな描写だが。

「だが、あれが無言の合図をする、葉は生きているぞ、木々は生きているぞ、と。そして葉は、いく百万の繊維でこのベンチに腰かけているおれの体とつながれているから、おれの体をあおって高く低くゆさぶるのだ」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.35」角川文庫)

「彼は耳をすました。むこうの柵(さく)の上にとまった一羽の雀が、セプティマス、セプティマス、と四、五回さえずってから、今度は調子をひきのばして、珍糞感(ちんぷんかん)なギリシア語で、罪は存在せぬと、生き生きと鋭く歌いつづけた。すると、また一羽の雀がそれにくわわって、二羽が、長々とひく鋭い声を立てて、珍糞感(ちんぷんかん)のギリシア語で、死人が歩く、川の向こうの生の牧場(ギリシア神話の極枠浄土)の木立から、死は存在せぬ、と歌った」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.38~39」角川文庫)

この辺で、おや、と気づくだろう。気づかなくても特に支障はないけれども。というのは、人は時々「スキゾフレニー」と等価の身体=宇宙論的に変動しつつある生として=「一つの<此性>」を生きている、というわけだ。理解には「睡眠」が最もポピュラー。そのときの気象・風・季節・速さ・遅さ・霧・夕方・或る日・或る時刻ーーーなど。それらは「一つ」だ。そしてそのような「流動的時間」=「アイオーン」と考えられよう。それにしても、気づかないというのは、あるいは幸せなことかもしれない。

「世間のやつらがどんなに悪党か、やつらがこうして通りを歩きながらも、どんなに虚言をでっちあげつつあるかは、おれにはちゃんとわかっている、などと言った。やつらの考えることは、なにからなにまで、おれは知っている、とあのひとは言った。おれはなんでも知っている、と。おれは世界の意味を知っている、とも言った」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.106」角川文庫)

狂気に入ったセプティマス。純真で無垢なクラリッサの分身ーーーあるいは内面といっていいかもしれないーーーであることを忘れてはいけない。

「彼は眼を瞠(みは)り、重いものを押しのけ、眺めた。リージェント公園が眼の前に見えた。日光の流れが彼の足もとでじゃれていた。樹木が揺れかしいでいた。われわれは歓迎する、と世界が言うように思われた、われわれは受けいれる、われわれは創造する、と。美を、と世界は言うように思われた。そして、それを証明しようとするかのように(科学的に)、家を見ても柵(さく)を見ても杭(くい)囲いごしに首をのばしている羚羊(かもしか)を見ても、いたるところに美がたちどころに生じた。さっと吹き寄せるそよ風に一枚の葉がふるえるのをみまもるのは、えも言われぬ喜びである」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.110」角川文庫)

「すべてがおわり、休戦条約には署名され、戦死者たちは埋葬された今となって、彼は、とりわけ夕方など、突然こうした晴天の霹靂(へきれき)にも似た恐怖におそわれたのであった。感ずる力がなくなったのだ」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.137」角川文庫)

この「恐怖」。第一次大戦から社会復帰した若者の中にしばしば見られた現象の一つとして有名。無気力・無表情・自己神格化・ニヒリズム・しばしば陥る興奮状態・まったくの鬱状態ーーー。今の日本社会ではネット依存者とかツイッター依存者とかシニカルな排他的冷笑主義者がそれに相当するだろう。

「今やセプティマスに知らされたのだ、言葉の美の中にかくされた使命が。一つの時代が人目をごまかして次の世代に渡す秘密の信号は、嫌悪であり、憎悪であり、絶望である。ダンテも同じだ。アイスキュロスも」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.140」角川文庫)

「ダンテも同じ」だろうか。疑問におもう。ダンテ「神曲」の場合、世界は三層化されている。「地獄・煉獄・天国」と、これはこれで余りにもわかりやすい設定だが、天国の言葉はなるほど言語だけで構成されてはいる。「地獄・煉獄」は「天国」と切断されている。それゆえに「天国」だけを取り出して「美」として据え直すことができる。しかしそのような捉え方はあらかじめ言語だけを「美化」しておかなければ発生してこない発想であり、言語ばかりを過大評価し過ぎているようにおもわれる。さらに「天国」において語られる言葉は、いわゆる「詩」の言語(韻文)であって、散文ではない。比喩表現がたっぷり用いられている。暗喩だったり換喩だったりする。一体、古代の神がなぜ散文と韻文との違いなどという古典主義的あるいは近代的言語学の使い分けを知っているのか。不可解ではないだろうか。しかしなぜそうなるのか。その要因はセプティマスの宗教的転向にある。キリスト教なのだが、キリスト教の教義を知るためには神秘的体験は必要ではなく、神秘的体験は逆に大量の精神病者を発生させたという歴史が念頭にあらねばならない。「エルサレムには最後の一粒の塩を放棄してしまったあの人々のために大きな精神病院があった」(ニーチェ)。だから、キリスト教は、神秘的体験とは何の関係もなく、その発生の余地をむしろ言語に負っている。キリスト教は神の宗教であると称するにもかかわらず、神の「言葉という物質」なしには存在することも伝達することもできないというパラドクスに本来的に付きまとわれている。キリスト教は罪よりも罰よりも以前に、言語にこそ「負債」を負っているようにおもえる。少なくとも二人以上の間で通じ合う言語(一種の共同体とその言語体系)が前提として必要なのだ。そうでなくては、では一体誰が始めに「神」の言葉を伝えたかという問いは永遠に残される。「それは言葉では語り尽くせない」と繰り返すばかりでは、ならどうしてダンテは伝えたといえるのか、という問いが繰り返し蒸し返されるばかりだ。とはいえ、アイスキュロスを取り上げているのは妥当におもえる。古代ギリシアはおそらくシェークスピアを理解しないし理解するつもりもない、という意味で。

セプティマスは次のように考える。これも第一次大戦から帰ってきた若者のあいだでは当時ありふれた信条だった。

「こんな世界に子供を産み出すわけにはいかない。苦悩を永続させるわけにはいかない、喜怒哀楽がさだまらず、ただ気まぐれと虚栄の煙を、その時その時であちらへこちらへと渦巻かせる、この好色な動物の子孫を、繁殖させるわけにはいかない。ーーー事実はこうだ、人間てやつは、その時かぎりの楽しみを増すに役立つ以上の親切も信仰も慈悲ももっていないのだ。彼らは群れをなして獲物を追う。その群れは荒野をあさりまわり、金切声を立てながら荒野の中へ姿を消す。彼らは倒れたものを見すてて行く。彼らは漆喰(しっくい)で固めたしかめ面のような表情をしている。店には、口髭(くちひげ)を蠟(ろう)でかため、珊瑚(さんご)のネクタイピンをつけ、白いワインを胸にのぞかせ、うれしそうにしているブルーウァーがいるーーー心の中はまるで冷たくべとべとしているのだーーーあいつの天竺葵(ゼラニウム)は戦争でめちゃめちゃにされーーー料理女は気が狂った。あるいは、なんとかアメリカって女が、かっきり五時に、お茶のコップをくばって歩いているーーー横目でにらみ鼻であしらう淫猥(いんわい)な欲張り女。そしてトムとかバーティとかいう連中が悪徳の濃い滴りをにじみ出させている糊(のり)の利いたワイシャツの胸を出している。やつらはおれが、やつらの妙な裸体姿の絵を手帳に描くのを、ご存知ないのだ。通りを、大馬車がガラガラ音を立てて彼のそばを通りすぎた。獣性が新聞売子のポスターの上で吼(ほ)え立てていた。男たちは鉱山で生き埋めにされ、女たちは生きながら火あぶりにされた。そしていつかは、トットナム・コート街で運動にだされたというよりは、むしろみなの慰みものに供された狂人どもの乱れた列がゆっくりと彼のそばを歩いて、うなずいたり、歯をむき出してにやにや笑ったりして行くのであった。一人一人がいくらか申し訳なさそうに、しかし得意そうに、おのれの絶望的な苦悩をふり撒(ま)いて歩いた。そしておれも気狂いになるんだろうか?」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.141~143」角川文庫)

「彼らは群れをなして」とあるが、「彼ら」は、ここでは当時の社会一般のこと。また「人間性=獣性」と捉えるところにセプティマスの特徴が見られる。野生でも構わない。しかし生への意志としてのそれではなく「罪としての獣性」へと変化してしまっている。とすると、この場合、獣性は必ずしも生への積極的意志の顕現を意味しなくなる。むしろ逆に自分の生を自分自身で嘲笑して貶める、という転倒した言動へ置き換えられて事後的に出現してくる。

「そら、弁解の余地はないんだ。どこもわるくないんだ。ただその罪の故に人間性はすでにおれに死の宣告をあたえたのだが、その罪が、おれが感じないということが、いけないのだ。エヴァンズが殺された時、おれはなんとも思わなかった。あれがいちばんわるいのだ。ところがほかのあらゆる罪が頭をもたげ指をふるわせ、明け方頃の時間に寝台の手摺(てすり)ごしに、おのれの堕落を思い知ってひれ伏し横たわっているこの肉体を嘲(あざけ)り笑う」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.144」角川文庫)

なぜこのような言動の転倒が起こるのかということに関し、ニーチェは次のように述べる。

「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・P.99」岩波文庫)

そしてそれはおそらく当たっている。フロイトよりニーチェのほうがずっと早くに気づいていた。また、「ダロウェイ夫人」がただ単なる反戦文学でないのはこうした部分により多くを割いていることと関係する。もっとも、この時期の世界文学はどれも多少なりとも世界大戦に関する言及が出てくる。それは身近なものだった。殺された「エヴァンズ」はセプティマスの旧友。もうこの世にはいないしいるはずもない。だがセプティマスはエヴァンズの亡霊にとことん悩まされる。本能の逆流。もともと外部へ向かうはずだった「敵意・残忍・破壊・迫害ーーー」の諸衝動。人間本来の力。複数形で諸力というべきだろう。眠っているあいだなどは節約のうちに少しづつ蓄えられるほかない微細な力の流動。それらが外への出口をふさがれ自分自身の内へと向きを換えればどうなるか。セプティマスにとって戦争という行為は、それが不意をついて為された、という人体実験のようなものに違いない。

「いよいよおれは見すてられたのだ。全世界がわめき立てている。自殺しろ、自殺しろ、おれたちのために、と。だが、やつらのために、なぜおれが自殺しなきゃならないんだ?食べものは楽しいし、太陽は熱い。それにこの自殺ってやつだが、いったいどう手をつけるんだ、食卓用ナイフを使って醜悪にも血をどっと流すのかーーーガス管を吸うのか?おれは体が弱りすぎていて、手ももちあげられないのだ。それにおれは、まさに死なんとする人間がひとりぽっちなように、こうして死刑を宣告され、見すてられて、ひとりぽっちでいると、一種の楽しさを、荘厳味あふるる孤独を、人頼みの人間にはわからぬ自由を、感ずる」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.147(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.147」角川文庫)

何もないということ。自分自身の中には何一つない、という深淵。再び言葉を獲得するまでは、おそらく、もうない。無駄であろうが無駄でなかろうが、人々は「無駄話」かそれに準ずるもの(広い意味での「言語ゲーム」)を発明して持ってきて、それらで少しづつ自分自身の内部を埋めていくほかない。たとえそれが単なる「ひとりごと」であっても何ら構わない。ともかく、「言語」かそれに準ずる「身ぶり」(行為)とその内容で自分自身の内部を満たしていくほかない。そして「或る程度」埋め尽くされてくる過程がすなわち他者との出会いの繰り返しなのであり、したがって他者との出会いを通して常に既に不完全なコミュニケーションに熟達しながら、やっとのことで人々はなんとか人間である「かのように見えてくる」というに過ぎない。コミュニケーションが不完全な理由はこれまで「言語ゲーム」についての部分で何度も述べた。完全なコミュニケーションというものがもし本当に存在するとすれば人間に言語など必要ないし、むしろ煩雑なばかりで必要ないものでしかないのなら、これまでの歴史のうちに、とうの昔に絶滅していただろうということだ。しかし言語は絶滅していない。古代ギリシアとか中国とかの歴史を検証するには約五百〜千年単位で見ていかねばならないというのはそういうことでもある。壮大な「言語ゲーム」の変容の歴史に一体誰が終止符を打つなどと言うことができるのか。それこそ「詐欺師」というのだ。むしろウィトゲンシュタインにならって慎重かつ注意深く押し進めていくほかない。カフカのように「測量士の仕方」で。

「それから、無駄話というだけのものも。なにしろこれがわれわれの魂の真相なんだから、と彼は考えた。われわれの自我、そいつは魚のように深海に棲(す)み、曖昧模糊(まいまいもこ)たるものの間を右往左往し、巨大な藻の茎の間をくぐりぬけ、日光のひらめく場所を越えてどんどん進み、冷たい深い測り知れぬ暗がりの中へはいって行くが、突然さっと水面にうかびあがると、風にしわよる波の上でたわむれる。つまり、われわれの自我は、無駄話として、自分にブラシをかけ、こすり、ほてらせる実際の必要を感ずるのだ」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.257」角川文庫)

さて、さらに別の登場人物ピーター・ウォルシュはまた違った力を持つ。自然に近いといえるかもしれないが、古代ギリシアに対する信仰としてはこれもまた信仰の域を出ない。それでもヴァージニア・ウルフの鋭さはそれを「リージェント公園」という大都会の中の「余白」とでもいえばいいのか、「公園」という極めて曖昧な、誰の所有物でもない場所に見い出させているところにある。そしてそういう場所は、様々な人々が入り混じって生活しているところでは、時としてどこにでも出現する。クロノス(時計時間)を退けて出現する。むしろクロノスは仮の時間でしかなく、小説では大変多くの場合、「アイオーン」(流動的時間)のほかないのが常だ。それ以外にどのような小説があり得るだろうか。

「一つの音が彼を邪魔した。かよわいふるえる音、方角も勢いもはじめもおわりもなく沸き立ち、よわく甲高くあらゆる人間的な意味を欠いて流れ、 イー アム ファー アム ソー フー スィー トゥー イーム ウー と聞こえる年齢も性別もない声、大地から噴きだす太古の泉の声、それが、リージェント公園地下鉄駅のちょうど反対側のところで、通風筒みたいに錆(さ)びたポンプみたいに、また永久に葉をつけることなく、風が枝をわたって イー アム ファー アム ソー フー スィー トゥー イーム ウー と歌うにまかせ、永遠の軟風をうけて、揺れ、きしみ、呻(うめ)く、吹きさらしの樹みたいに、つっ立った背の高いふるえている姿から湧き出た」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.128~129」角川文庫)

また、次に引くベントリー氏の考察は面白い。

「遠くへ遠くへと、飛行機は弾丸のように飛んで行って、とうとう輝く火花の一点となった。一つの熱望、一つの精神集中、人間の魂の象徴だ(グリニッジで、彼の狭い芝地に元気よくローラーをかけていたベントリー氏には、そんなふうに思われた)そうだ、思想とか、アインシュタインとか、推理とか、数字とか、メンデルの理論とかによって、人間の肉体のそとに、家のそとに脱出せんとする決意の象徴だ、とベントリー氏は、杉の木のまわりにローラーをかけながら、考えた」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.44」角川文庫)

「飛行機は弾丸のように飛んで」、とある。それを「人間の肉体のそとに、家のそとに脱出せんとする決意の象徴だ」と書き留めたところは、いかにも、というセンスを感じさせる。ヴァージニア・ウルフは女性に与えられた身体というものを大変忌み嫌っていた。自分が女性であることを忌避したがったのではない。当時の、生まれる前からあらかじめ女性に与えられていた社会的「枠組み」、並びに、あらかじめ与えられている社会的「配置」から解放されたいと望んだ。その一方の叫びがクラリッサの分身=セプティマスを通して届けられたわけだ。そしてセプティマスの言動に接して狂気を感じる読者がいるとすれば、第一次大戦が生んだ新しい狂気について少しばかり「触れた」ことになるだろう。それは女性が狂気化したわけではなく、第一次大戦を生んだ男性中心主義社会を、女性が女性自身によって告発するきっかけを女性に与えることにますます「寄与した」ということはできるだろう。

以上、見てきたように、第一次世界大戦は大変多くの優れた小説あるいは小説家を生んだ。他にもフォークナー、フィッツジェラルド、ラディゲ、ヘミングウェイ、ヘンリー・ミラー、ヴァレリー、アガサ・クリスティ、レイモンド・チャンドラー、ダシール・ハメット、ジョイス、プルーストーーーなど、上げていけばきりがない。注目すべきはそのほとんどがアメリカ文学に集中していることだ。そして彼ら彼女らの少なくない部分がアルコール依存症という近代の病を病んでいた。あるいは精神疾患を患うほかなかったことにも着目しておきたい。この流れに併走することができた日本の小説家はまことに少ない。わずかに芥川龍之介の台頭と志賀直哉の健康が目に入る程度。ほかには谷崎潤一郎の肥満、宮本百合子のデビュー、森鷗外の死、萩原朔太郎の病気、若山牧水の酒癖、荻原井泉水の自由律俳句創設、尾崎放哉のアルコール依存、などが上げられる。日本文学はまだまだ脆弱だった。

ところで、いったん陥った「或るもの」と「別のもの」との非-必然的な繋がりが、記憶の中では一体どのようにして必然的になるのか。スピノザを参照しておこう。

「もし人間身体がある外部の物体の本性を含むような仕方で刺激されるならば、人間精神は、身体がこの外部の物体の存在あるいは現在を排除する刺激を受けるまでは、その物体を現実に存在するものとして、あるいは自己に現在するものとして、観想するであろう。ーーーなぜなら人間身体がそのような仕方で刺激されている間は、人間精神は身体のこの刺激を観想するであろう。言いかえれば、精神は現実に存在する刺激状態について、外部の物体の本性を含む観念を、言いかえれば外部の物体の存在あるいは現在を排除せずにかえってこれを定立する観念を有するであろう。したがって精神は、身体が外部の物体の存在あるいは現在を排除する刺激を受けるまでは、外部の物体を現実に存在するものとして、あるいは現在するものとして観想するであろう。ーーー人間精神をかつて刺激した外部の物体がもはや存在しなくても、あるいはそれが現在しなくても、精神はそれをあたかも現在するかのように観想しうるであろう。ーーー人間身体の流動的な部分が軟かい部分にしばしば衝き当るように外部の物体から決定されると、軟かい部分の表面は変化する。この結果として、流動的な部分は、軟かい部分の表面から、以前とは異なる仕方で弾ね返ることになる。そしてあとになって流動的な部分がこの変化した表面に自発的な運動をもって突き当たると、流動的な部分は前に外部の物体から軟かい部分の表面を衝くように促された時と同じ仕方で弾ね返ることになる。したがってまたそれはこのように弾ね返る運動を継続する間は〔以前外部の物体に促されてした時と〕同じ仕方で人間身体を刺激することになる。この刺激を精神はふたたび認識するであろう。言いかえれば精神はふたたび外部の物体を現在するものとして観想するであろう。そしてこのことは、人間身体の流動的な部分がその自発的な運動をもって軟かい部分の表面を衝くたびごとに起こるであろう。ゆえに人間身体をかつて刺激した外部の物体がもはや存在しなくても、精神は、身体のこうした活動がくり返されるたびごとに、外部の物体を現在するものとして観想するであろう」(スピノザ「エチカ・第二部・定理一七・P.119~200」岩波文庫)

どこかシリーズ化してしまったが、「言語ゲーム」に関してはこの回が最終回となります。ご愛読ありがとうございました。

なお、「ダロウェイ夫人」は一九二五年発表。日本でいう大正十四年。雑誌「キング」創刊。日ソ基本条約締結。治安維持法公布。孫文没。小樽高商軍事教練問題。農民労働党結成即日解散。「汽車時間表」(のちのJTB時刻表)創刊。普通選挙法公布。上海五.三〇事件。クライスラー設立。東京帝大地震研開設。柳田國男「民族」創刊。ロカルノ条約調印。京都学連事件。京王電気軌道(後の京王電鉄)新宿ー八王子間開通。北海道乳酪販売組合(後の雪印乳業)設立。鈴木商店(後の味の素)設立。大日本相撲協会設立。梶井基次郎「檸檬」発表。芥川龍之介「大導寺信輔の半生」発表。志賀直哉「冬の往来」発表。

BGM

「言語ゲーム」と生成変化12−1

2019年02月19日 | 日記・エッセイ・コラム
人々が退けよう退けようとしながらもけっして退けられないもの。あるいは同じことだが、人々がそのときに欲しいと祈念しながらもけっして到来しないもの。このとき、人々は、一体何を退けようとしたがっているのか。あるいは何をそれほどまで欲しているのか。言語だろうか。見つけよう、形にしようと願いはするものの、どうしても言葉が見当たらない、と言うときの。あるいは逆に、ここでこの言葉が欲しいと願いながら、なぜかその時その場ではけっして出現しないような時に是非とも必要とされる言葉だろうか。

しかしもし、誰かが、その言葉にたどりついたとしよう。それは本当にふさわしいと言えるだろうか。百万人いれば百万人ともがまったく何らの違和感を伴うことなく、全会一致というべき状況を作り上げ、その言葉に賛同することなど本当に可能だろうか。もし可能だとすれば、それはすでにファシズムでしかない。

「『でも、あなたは、痛みを伴った痛みのふるまいと、痛みのない痛みのふるまいとの間に、差異のあることを認めるだろう』。ーーー認めるだって?これほど大きな差異がどこにありえよう!ーーー『それでも、あなたはいつもくり返し、感覚それ自体は何物でもない〔無である〕、という結論に到達している』。ーーーいや、そうではない。感覚は何かではないが、しかし何物でもないのでもない!結論は単に、何物でもないものが、何も言明できない何かと同じような働きをするであろう、ということであるにすぎない。われわれは、ここでわれわれに〔執拗に〕迫ろうとしている文法を、却けたにすぎない。このパラドクスが消滅するのは、言語が常に《一定の》しかたで機能し、常に思想ーーーそれが家、痛み、善悪、その他何についての思想であれーーーを伝達するという同一目的に奉仕しているのだ、といった考えと、われわれが根本的に訣別するときだけである」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・三〇四」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.203~204』大修館書店)

ウィトゲンシュタインは規則・文法の必要性を認めながら、同時に、その同じ規則・文法を適用することから必然的に発生してこざるを得ないパラドクスについて述べた。そしてこのパラドクスを退けようとしたいのなら、規則・文法が「常に《一定の》しかた」で機能していると信じることを止めることだ、というわけだ。とすれば、どういうことになるだろうか。世界の今現在、誰の目にも明らかとされる、この風景というもの、この名指されているもの、この男性あるいは女性、この取引先、この貨幣、この言語というものは一挙に崩壊することになる。ただ単なる仮象にすぎなくなる。だが世界はけっして仮象ではない。すべての力とその諸関係は常に流動しつつ構造化され、並列的にあちこちで流動しつつ構造化されている。流動とその構造化という二つの動きがあるわけではない。流動は構造化でありまた構造化は流動しつつ構造を整えていく。しかし規則・文法への抗いという態度は、そのような世界の「神」的構造化法則に対して背を向けたことになる。

と言えば大袈裟だが、或る人にとって世界はAと見えるのに、別の人にとってはBと見え、さらにまた違う人にはCとしか見えない。だが言語並びに貨幣の翻訳/交換によって「A=B=C」という交換可能性は常に既に可能事になった。同時に可能事はいつでも現実へ転化する運動の過程内に入っており、実際、現実化されていなければならないという領土化が世界中を繫ぎ止めると同時に成立した。言語・貨幣の流通とともに世界はグローバル化を果たした。グローバル化を果たしはしたものの、しかし時間を止めることはもちろんできない。むしろ言語の流通の寡多も貨幣の資本化=再資本化の増減も、時間の延長にしたがうことによってのみ自然現象として稼働している。そして時間を規制しているのは「神」などではけっしてなく、むしろこの身体で触れることができ、破壊することができ、また再建されることができる地球の運動そのものだということが前提されていなくてはならない。そしてまた、この地球といえども実は「万能」ではない。いつどのように死ぬか、誰にわかるというのか。人間というものはこの二百年ばかりのあいだに地球上で発明されたまったく新しい一種族に過ぎないとフーコーは論じた。そして「言葉と物」のラストで、いったん生まれたものはいつか死ななければならないものでもある限り、「人間は波打ち際の砂の表情のように消滅するであろう」とも述べた。しかしウィトゲンシュタインの告発した「常に《一定の》しかた」だが、そうではない仕方、もっとしなやかで、もっと柔軟性をたたえた情報流通装置と化した規則・文法は、世界のまったく新しい曲がり角に直面してなお慌てず騒がず世界を支配しつづけている。動揺していない。いつも更新される用意を身に付けた規則・文法は、それを創造した人間の頭上を軽々と飛び越えてかくも流動性の高いレベルに達した。そしてさらなる高みへ達していくだろう。もはや「構造」の時代ではない。構造だけではほとんど何一つわからない次元へ突入しつつあるというのに、なぜか世界はぼんやりと事情を打ち眺めているばかりだ。再び「リゾーム」が問われねばならない。

「ヴァージニア・ウルフは群衆のただなか、行きかうタクシーのあいだをぬって散歩する。だがほかでもない、散歩もまた一個の<此性>なのだ。ダロウェー夫人が『私はかくかくしかじかのもの、彼はあれであり、これである』などと口走ることはもうありえないだろう。ヴァージニア・ウルフはこうも書いているーーー『彼女は自分がとても若いと感じると同時に、信じられないほど年をとっているとも感じていた』。敏捷であると同時に、緩慢で、すでに目の前にいたかと思えばまだそこに来ていないといった具合で、『彼女は剃刀の刃のようにあらゆるものに分け入っていった。それと同時に、彼女は外に身を置いて眺めていた。(ーーー)生きるということは、《たとえ一日だけだとしても》、とても危険なことなのだーーー彼女は常日頃からそう思っていた』。<此性>、霧、そしてまばゆい光。<此性>には始まりも終わりもないし、起源も目的もない。<此性>は常に<ただなか>にあるのだ。<此性>は点ではなく、線のみで成り立つ。<此性>はリゾームなのである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.213」河出文庫)

「ダロウェイ夫人」は有名なように作品の「序文」で、或る秘密を語ってしまった。不手際というべきだろうか。しかし序文がなくても「ダロウェイ夫人=クラリッサ・ダロウェイ」は分身として「セプティマス」を持つということは理解できるに違いない。ここではあえて小説の記述の順番を変更して、クラリッサ(ダロウェイ夫人)の言動を先に引用し、セプティマスの言動を後にまとめて提出することにしよう。比較しようというのではない。クラリッサ(ダロウェイ夫人)=セプティマスという分身的連関において、二人は十分に別ものであり得る、ということが了承されるべきだと考えるからだ。そうでなければ、なぜヴァージニア・ウルフがわざわざ二人を書き分けたのか、という切断性の意図がまったく無意味になってしまうだろう。ドゥルーズ&ガタリのいう<此性>について、<此性>は常に<ただなか>にある、ということが感じられる部分を拾い上げてみたい。

「彼女はとても若いような気もし、お話にならないほど老けた気もした。ナイフみたいにあらゆるものの中へ切りこむし、外部にいて眺めてもいる。タクシーの群れを眺めていると、遠い遠い海の上にひとりぼっちでいるような、そんな気持ちによくなるし、たった一日でも生きていることが、とてもとても危険だという感じが、しょっちゅうする」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.13~14」角川文庫)

今、上げたセンテンスはドゥルーズ&ガタリが直接取り上げている部分。ほかにも探してみよう。

「自分はやがてかならず死滅するってことは、それほど大変なことなのかしら。わたしがいなくなっても、これらのすべてのことは平気でつづいて行くにちがいないってことは、怪(け)しからぬことなのかしら?それとも、いっそ、死は絶対に自己消滅だと信ずることが、かえって安心できるんじゃないかしら?自己は消滅しても、このロンドンの街路で、事物のうちに生きる、と信ずることが。だって、わたしは故郷の木々の一部分にちがいないのだ、また、あそこにいく棟にも分かれたしまりのない醜い家の一部分、会ったこともない人々の一部分なのだ」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.15」角川文庫)

いつも繋がっているということ。逆にいえばいつも切断できるという効用も期待できる。クラリッサはそのような自由を求める。あるいは自由というものがもし本当にあるとすれば、それはそのようであろうと思わずにはいられないクラリッサ。

「しかし今も時々、自分のものであるこの体が、(彼女はオランダの画家の絵を観るために立ちどまった)この体が、さまざまの能力をそなえていながら、まるでないもののようにーーーまったく知られないもののように思われるのだ。自分自身が眼に見えぬものとなり、ひとに見られず、知られないような、妙な気がする」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.17~18」角川文庫)

ニーチェは何か物を書いている時、「自分の身体がまるで自分だけのものではなく他人に代わる複数のもの〔多数性〕として思われることがある」、と述べている。

「彼女は寝つきのわるいままに、そこに横たわって本を読んでいると、子供を産んでからも屍衣(しえ)のようにへばりついてはなれない処女性をやっぱりはらいのけられないのであった。とてもかわいかった娘時代にも、突然そういう瞬間がやってきてーーーたとえばクリーヴドンの森陰の河のほとりで、この冷たい精神の発作におそわれ、彼をこばんだことがあった。それからコンスタンチノープルでも、それからまだ何度も何度も。彼女は自分になにが欠けているかを知っていた。うつくしさ、心、ではない。四方へ滲(し)みわたって行く何か中心的なあるもの、表面をくだいて、男と女の、女同士の冷たい接触に波紋をまきおこすあたたかいあるもの、それなのだ」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.49~50」角川文庫)

次の二つのセンテンスはクラリッサが「彼女」である時の同性愛体験について。

「彼女たちがきれいなせいか、自分のほうが年上のせいか、それともほのかな芳香や隣家のヴァイオリン(音って、ある瞬間にはとても不思議な力を発揮するものだ)のような、その場のはずみなのか、彼女はその時、まさしく、男が女に対して感ずるとおりのものを感じているのだった。ほんの一瞬間だが、それで十分だった。それは突然の啓示、顔の赧(あか)らむようなもので、いったんはおさえようとするが、やがてそれがひろがると、もうひろがるがままにまかせ、いっそのこととことんまで突き進んでしまい、そこで身をふるわせ、世界がなにかおどろくべき意味、なにか歓喜の圧力で、ふくれあがって迫ってくるように感じているうちに、その中身が薄い皮をひき裂いてほとばしり出(い)で、ひとの世のひびや爛(ただ)れの上に注いで苦痛をすっかりやわらげるようなものだった。そんな時、その束の間のあいだだけ、彼女は見たのだった。照明を、番紅花(サフラン)となって燃えるマッチの火を、ほとんどあらわにされた内部の意味を。けれども、近いものは遠退き、固いものはくずれた。おわったのだーーーその瞬間は」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.50~51」角川文庫)

「昔をふりかえってみて、奇妙なことは、サリーに対する彼女の気持ちの純粋だったこと、正直だったことである。男に対する気持ちとはちがっていた。それはまったく私心がなく、そのうえ、女同士の間にだけ、一人前になったばかりの女同士の間にだけ存在できるような性質のものだった」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.53~54」角川文庫)

クラリッサは「顔」を整える。ということは、普段はばらばらになって散乱しているということなのか。実はまさしくそうなのだ。

「今まで何百べん、自分の顔を見たことだろう、いつも同じように眼に見えぬくらいちょっぴり筋肉をひきしめて!鏡を見る時わたしは口をつぼめる。顔を一点に集中するためなの。あれがわたし自身なのだーーーとんがった、投槍(なげやり)のような、はっきりした自分。あれが、自分であろうとする努力、要求が、どれほどてんでばらばらであるかは自分だけが知っているさまざまの部分をひとまとめにして、ただ世間のひとたちのために、そんなふうにして一つの中心、一つのダイヤモンド、一人の女、つまり自分の客間にすわって、一つの会合点となり、退屈な生活を送るひとたちの間では疑いもなく一つの光明となり、たぶん淋(さび)しいひとたちには訪(おとな)うべき慰安の場所となってやる一人の女に、つくりあげた時の自分なのだ」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.58~59」角川文庫)

ということは、パーティを開く際、クラリッサは自分で自分自身の「顔」について、自分の「顔」は遠近法的錯覚という意味での「消失点」に過ぎないと考えていることがうかがえる。さらに、精神はもとより身体もまた思っているほど「堅実な」ものでは何らない。ヴァージニア・ウルフはそう述べる。

「夏の日には、波もまたそのようにあつまり、バランスを失い、くずれる。あつまってはくずれる。そして全世界がますます重苦しい調子で、『それだけのことさ』と言うようになる。もうおそれるな、と心が言う。もうおそれるな、と心が言って、その重荷をどこかの海へまかせる。すると海はありとあらゆる悲嘆をあつめて、それにかわって嘆き、そして再生し、生の営みをはじめ、あつまり、くずれる。そして肉体だけが聴きいる、通りすぎる蜂の声に、くずれる波の音に、遠くでしきりに吠(ほ)えつづける犬の声に」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.62~63」角川文庫)

人生を謳歌したいだけ、とクラリッサは語る。長い引用だが、そう言いたいのだろう。

「ピーターは、わたしのことを、羽振りをきかせてうれしがり、有名人を、偉大な名を、まわりに集めるのが好きな、ようするに貴族崇拝者(スノッブ)にすぎない、と思っているのだ。そうね、ピーターはそんなふうに考えているかもしれない。リチャードはただ、わたしが心臓がよくないと知りながら、刺激を好むのは、馬鹿なことだと考えているだけなんだわ。子供じみてる、と考えてるんだわ。そして、二人ともまるで見当ちがいをしている。わたしの好きなのは、単に人生なんだもの。『だから、わたしはそうするのよ』と彼女は、人生にむかって、声に出して言った。ひきこもって、自由の身をソファの上に横たえていると、彼女が眼にも見る如く感じているこのものの存在が、肉体をそなえた姿となり、熱い息でささやき、日除け(ブラインド)をふくらませる、陽気な街のもの音という長衣をまとっていた。だけど、もしピーターが、『なるほど、なるほど、だがあなたのパーティーーーなんのためにパーティなんか開くんですか?』と言うとしたら、わたしとして言えるのは(そして誰にも理解してもらえないだろう)、それは奉納のためなの、ってだけだわ。まるでつかまえどこがないようだけど。だけど、人生はすべて坦々(たんたん)たる大道を行くようなものだと高をくくっているピーターーーーしじゅう恋をし、しじゅうへんな女と恋をしているピーターはどれほど偉いっての?あなたの恋はなんなの?と言ってやれるじゃないの。答は知れているわ。世界中でいちばん重大なことで、女のひとにはとうてい理解できまい、ってんでしょう。ごもっともだけど、それなら、わたしの意味することだって、男のひとにわかるかしら?人生のことよ。ピーターやリチャードが、これという理由もなくわざわざパーティを開くなんて、ーーーとても想像できないもの。だけど、人々の言うこと(そして人々の判断なんて、ずいぶん皮相的で、断片的だわ!)は別として、今の自分の心の奥にさぐりをいれるなら、わたしが人生と呼んでいるこのものは、いったいなにを意味するのだろう?ああ、それはとても奇妙なものなのだ。南ケンジントンには誰それがいる。上手(かみて)のベイスウォーターには誰かがいる。それから、メイフェアならメイフェアには、また誰か別の人間がいる。そしてわたしはたえまなくそのひとたちの存在を意識している。そして、なんて無駄なことだろう、なんて残念なことだろう、と感じる。そのひとたちをいっしょにできさえすればなあ、と感じる。そこで、わたしはそうする。そしてそれが奉納なのだ。むすびあわせること、創造することが。しかし、誰への奉納?」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.192~194」角川文庫)

いわゆる「愛と宗教」による暴力について。自由に対する暴力であるだけに、なかなか目に見えない。可視化不可能に近い。が、小説であれば、と考えたのかもしれない。

「愛と宗教!とクラリッサは考えた、体中ズキンズキンと痛み、客間へひきかえしながら。こんないやなものはない!それというのも、キルマン嬢の体が眼の前にいなくなったものだから、それが彼女におそいかかってきたのだーーーその妄想が。世の中にこんな残酷きわまるものはない、と彼女は考えた。愛と宗教が、やぼったい、ぶりぶり怒る、横暴な、偽善的な、立ち聴きをする、嫉妬(しっと)深い、どこまで冷酷で恥知らずなのかわからない、この二つのものが、防水外套をきて、階段の踊り場に立ちはだかっているのを、まざまざと目にうかべながら。わたしは誰かを改心させようとしたことがあるだろうか?わたしは、ひとがそれぞれ現在のままでいて欲しいと思っていないだろうか?そして、彼女は真むかいの家の老婦人が階段をのぼって行くのを、じっと見ていた。のぼりたければのぼればいい。立ちどまってもいい。それから、わたしがよく見かけたように、寝室にたどりついて、カーテンを開いて、ふたたび奥へ姿を消してもいい。ともかくわたしは、あれをーーーあの老婦人が、わたしに見られているとは露知らず、ああして窓から眺めているのに、敬意を表し、そっとしておく。あれには、厳として犯すべからざるあるものがあるーーーだのに、愛と宗教は、犯すべからざるものを、つまり魂の秘密を、片っぱしから破壊しようとする」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.200~201」角川文庫)

愛と宗教。それらについて論じるのは結構なことかもしれない。しかしヴァージニア・ウルフの表現はとても面白い。「愛と宗教が」「防水外套をきて、階段の踊り場に立ちはだか」っているとすれば、それはまさしく「愛と宗教」に名を借りたナチズムとかスターリニズムとか全体主義でしかない。そしてそれらは「ダロウェイ夫人」出版とほぼ同時代に現実のものとなってヨーロッパとアジアとロシアで本当に出現した。では逆に全体主義化あるいは自己固有化を目指さない「愛と宗教」は可能か。どこにも見当たらないのが実状だろう。

「議事堂の時鐘(ビッグ・ベン)が三十分を打った。その音に、その音の糸に、むすびつけられてでもいるように、老婦人が(二人は永の歳月隣り同士で暮らしてきた)、窓から立ち去るのを見ていると、なんとも言えない、奇妙な、そうだ、胸のせまる思いがする。巨人的と言うべき音だが、それがあのひととなんらかの関係をもっているのだ。下へ、下へ、日常茶飯事の真只中(まっただなか)へと、そん指はおちて行って、なりわいのこの一瞬をおごそかなものとする。あのひとは、この音にひきずられて、とクラリッサは想像した、動かずには、立ち去らずには、いられないのだーーーが、どこへ?ーーークラリッサには信じられる至高の神秘は、単にこういうことなのだ、ここに一つの部屋があり、あそこにもまた一つある、と。宗教がそれを解くだろうか?それとも愛が?」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.202~203」角川文庫)

老婦人は「議事堂の時鐘(ビッグ・ベン)」が刻んできた色々なことを極めて素朴に信じている。と同時に次のセンテンスでクラリッサはキルマン嬢のキリスト教がいかに弱々しいかを吐露している。クラリッサにとって宗教は生への意志を逆にがんじがらめにしてしまう暴力装置としてしか働かない。そして実際、ナチス政権が誕生したとき、ドイツのキリスト教会は余りにも無力だった。

「こういうことは、ひとがひとりぽっちでいる時に、時々おこる現象でーーー建築者の名もしられぬ建築や、市内から帰ってくる人々の群れが、ケンジントンに住む孤独な宣教師よりもキルマン嬢が貸してくれたどの本よりも力強く、心のわだつみの砂底に、ぶざまな格好(かっこう)でおずおずと居眠りして横たわっているものを、子供が急に腕をのばすように、ハッとおどろかせて、心の海面にうかびあがらせるといったたぐいのことで、決心のなんのと言ったところで、たかが、フトもれる溜息(ためいき)か、腕をのばすことか、衝動か、天啓(だとすれば、効果は永久に失(う)せないのだが)と言ったものにすぎず、すぐにまた心のわだつみの砂底へ沈んで行く」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.218」角川文庫)

変容する身体、という問いについて考えるクラリッサ。またその「現実性」と「非現実性」とについても思いおよぶ。

「彼女の役は、言わばそこに立ったままで、まさしく誰でもあるというようなことだった。誰でもできることだけれど、しかしこの誰でもを彼女はいささか尊敬した。ともあれ自分がこのことをひきおこしたのだ。自分がそれになったような気のするこの柱こそ、発展の一つの段階を記録するものなのだ、そう感じないではいられなかった。というのは、奇妙なことだが、彼女は自分がどんなふうに見えるかなんてことはすっかり忘れてしまって、自分のことを階段のいただきに打ちこまれた一本の杭(くい)のように感じたのだから。パーティを開くたびに彼女は、こういうふうに自分ではないあるものだという気がし、ほかのひとたちもみな、ある意味では非現実的でありながら、別の意味では現実的だという気がした」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.272~273」角川文庫)

次の記述は余りにも有名なので引用しようかどうか迷ったが、ヴァージニア・ウルフ自身が後に自殺したことを考えると放置しておくのもどうかとおもう。思想でもなければ宗教でもない。「死の本能」とフロイトは言った。そして実際、人間はいつか死ぬ。本能という言葉を強く受け止める限り、その意味は間違いではないのかもしれない。

「わたし自身の生活では、おしゃべりの花環(はなわ)で飾り立てられ、よごされ、曖昧(あいまい)なものにされてしまい、毎日腐敗と嘘とおしゃべりとなって、滴りおとされる一つのものが。この大切なものを彼は保存していたのだ。死は挑戦なのだ。死は中心部に通じようとする企てなのだ。人々は、中心部に達することが不可能だと感じている。それは神秘的に彼らを避けるのだ。近さは遠くなり、有頂天は消え失(う)せて、ひとはひとりぽっちになる。死の中にこそ抱擁があるのだ」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.295~296」角川文庫)

ニーチェからの引用は次を参照。

「奇妙なことだ!私はあらゆる瞬間に、私の歴史は一つの個人的な歴史であるのみならず、私がこのように生きて、私を形成し記録するときには、私は多くの人々に代わって何ごとかをなしているのだという考えに、支配されている。いつでもそれは、あたかも私は一つの多数性なのであって、その多数性に向かって、懐かしげに・真剣に・慰めを与えつつ語りかけているかのようである」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・一〇七四・P.557〜558」ちくま学芸文庫)

BGM