たわけたものだ。いい加減に回線を切らなければならない。それほどまでに違法ドラッグ体験がどういうものか知りたいというのなら、たとえば、こういうものだ。
「時は即ち存在であり、存在はみな時である。ーーーまさに存在は時間であり時間は存在である以外にはないのであるから、それぞれの存在と時間は時の全体であり、有るところの存在、有るところの現象はともに時である。諸々の時に有の全体・領域の全体が有るのだ。ーーー松も時である、竹も時である。時とは飛び去るものとだけ理解してはいけない、飛び去ることが時の活(はた)らきとだけ考えてはいけない。時というものがもしも飛び去るだけであったなら、飛び去った跡に時ではない隙間が出来るはずだ。ーーー全世界にあるところの全存在は、連なりながらも時である。時は即ち存在であり存在はすべて時であることによって我が実存は時である」(道元「現代語訳 正法眼蔵2・第二十・有事・P.85~89」河出文庫)
危険な密教的部分は省いた。さて、道元が語っている経験はかつて「離人症」〔解離性障害=Dissociative Disorders〕と呼ばれていた。いわゆる「全共闘」運動が華やかだった頃。アメリカ経由で違法ドラッグが流行していた。同時にLSD密売も流行した。しかしなぜLSDなのか。
道元がいっていることは「離人症」〔解離性障害=Dissociative Disorders〕を発症した人々の体験に大変似ている。LSD体験もまた。しかしそのことを知ったのは日本人ではない。ハイデガー門下のドイツ人である。ドイツ人学者から日本人精神科医(木村敏)が教わった。「そんなことなら、とっくの昔に道元がいっているのでは」、と。欧米の研究者の博学ぶりは東アジアの研究者の常識を遥かに上回っている。それまで日本人は、道元の仏教哲学について、自分で自分自身が一体何をやっているのか、さっぱりわかっていなかった。逆輸入という迂路を経て始めて飲み込めた。しかしその時点ではまだそれでよかった。
ところが、九〇年代バブル終焉とともに、そのことを知った人々の中からカルト教団ならびに地下鉄サリン事件発生という一大不祥事を招くこととなった。日本仏教界としては痛恨の打撃だった。だからもう、やめなければいけない。総懺悔しなくてはいけない。いつまでそのような横柄な態度で居直り続けるのか。自分で自分自身がしっかり教義の内容とその応用とを叩き込んでおかないから、問いに答えるという姿勢ができていないから、あのような迷走した半端者を出現させて死刑執行にまで至らせてしまったのだ。
ところが道元の発見はどう考えても未だ二元論の次元に留まっている。ヘーゲル=ハイデガーの線を超えるところまでは行っていない。同様の次元に接しているとだけはいえるとしても。そしてそれは道元が打ち立てた「只管打坐」(しかんたざ)という行為のうちに、或る一定の時間に限り、得られる極めて特殊な体験でしかないにしても、である。もっとも、そのような「離人症」〔解離性障害=Dissociative Disorders〕体験の神格化は歴史以前の古代から或る種の儀式とか放浪とかを通して世界中に存在してはいた。だが近代になった。するとその類種をも寄せ集めた神秘的体験の絶対化という態度を共有する組織化が行われ始めた。神秘的高揚感とそれを流用した政治的宣伝が、かつてロシア・ロマノフ王朝(ラスプーチン登場・銀行掌握)を、ナチス・ドイツ(党大会)を、大日本帝国(神仏集合的全体主義)を、率先して支援していった否定できない歴史的過程を発生させた。そしてハイデガーは哲学的側面からナチス・ドイツ成立に理論的根拠を与えることになったにもかかわらず、敗戦後、一切の「謝罪」を拒んだ。とはいえ、ハイデガー哲学にはそれなりの意味と意義とがあることは当然認めなければならないが。
種明かしをすれば、「只管打坐」(しかんたざ)という行為を通して道元が経験したと思われる「離人症」〔解離性障害=Dissociative Disorders〕体験とは、いわゆる「トランス状態」の一種に過ぎない。が、長時間続くようなら、結局のところ、病院行きという迷惑行為にしかならない。他の患者にとってははた迷惑この上ない。一般の警察にとっても。というのは、トランス状態を適時適切に取り扱うことができるのは精神科のみであって他のどの諸機関でもないからだ。それについては警察官らのほうがよく知っているだろう。泥酔しきった酔っ払いを取り扱うのとほとんどかわらないのが現実だからだ。しかしさらにいえば、本当に道元に学びたいというのなら、まずはごく当たり前の学問と社会常識とを学ばねばならない。そしてさらに道元的地平を目指したいという場合に限り、生涯にわたる一切の酒断ち並びに性交断ちを覚悟の上で摂取できうる仏教教義に少しづづ触れていくのが妥当だろうと考える。もし生涯にわたる一切の酒断ち並びに性交断ちについて自信がないというのなら、つまり「子作り」はもちろんのこと自慰行為すらも一切しないという態度を保持できないと考えるなら、ヘーゲル=ハイデガーの線を「只管打坐」(しかんたざ)という行為だけで超えようとしても超えられないし、超えたと信じることはできてもそれはただ単に自分で自分自身による絶対的思い込みという夢想の中を無邪気にはしゃぎ回っているだけのことに帰着するばかりだからだ。それだけではただ単なるトランス状態を経験することはできても何ら仏教を学んだとはいえない。むしろトランス状態という神秘的体験を通して、かえってファシスト化してしまうのがなれの果てだ。そういう人々は今なお精神病院に少なからずいる。ただし精神病者がいけないといっているのではない。そうではなくて、精神病院しか行くところがなくなる、というごく平凡なありふれた事実を述べているに過ぎない。そして同時に、精神病者を生む社会とは何か、精神病者を生む社会の成立条件とは何か、という根本的問いが問い直されなくてはならないだろう。たとえば、なぜ彼ら彼女らは違法ドラッグにはまったのか。あるいは入退院を何度も繰り返してしまうのか、といった具体的事実の検討。
だから、生涯にわたる一切の酒断ち並びに性交断ちというハードルを超えられないとおもうなら、始めから止めておくほうがいい。古い用語を用いると、「覚悟」、というものが必要だ。あるいは違法ドラッグも所詮は錯覚の多次元性の体験に過ぎない。LSDはただ単なる遠近法的錯覚のうちに、ただ単に自分だけで自分自身の安らいを安らっているに過ぎない。したがって、なおのこと違法ドラッグの使用などよりもむしろベルクソン哲学の再発見を推奨したいとおもうわけだ。
もしかしたら、あるいは周囲から「サイコパス」と呼ばれるかも知れない。「生の哲学」にとって、その可能性は常にある。しかし違法ドラッグを用いるよりも、「生の哲学」に没頭するほうがどれほど有効かつ効果的か、いまなお測り知れない生きた流れの非-国籍性を持つ。そしてその可能性の射程が、いまではどんなに幅広い分野へ応用可能か、よく理解できるかとおもう。実験とはこのような、地味ではあるが多彩な可能性に満ちた、日々の生活態度を指していうのだ。
次のセンテンスは音楽を例にとって述べられた部分。具体例としてはベートーベンの弦楽四重奏曲(後期の幾つか)がよいだろう。ピアノだけとかヴァイオリンだけとかの話ではないので。
「純粋持続とはまさに、互いに溶け合い、浸透し合い、明確な輪郭もなく、相互に外在化していく何の携行性もなく、数とは何の類縁性もないような質的変化の継起以外のものではありえないだろう。それはつまり、純粋な異質性であろう」(ベルクソン「時間と自由・P.126」岩波文庫)
そのようなわけで、今日もまた早く睡眠する。他者もまた、睡眠しよう。
「Connecticut<Connect(接続せよ)ーI(私は)ーcut(切る)>と、幼いジョーイは叫ぶ」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.52」河出書房新社)
なお、「時間と自由」は一八八九年発表。日本でいう明治二十二年。徴兵令改正。三池鉱山三井に払い下げ。憲法発布式典。森有礼文相刺殺事件。大隈条約改正案をロンドン・タイムスが暴露。大同団結分裂。秋田魁新報創刊。大槻文彦「言海」発刊。東海道本線全通。呉・佐世保両鎮守府開設。第二インターナショナル・パリで結成。大隈外相爆弾テロ。板垣退助ら愛国公党結成。山県有朋内閣成立。夢野久作生まれる。石原莞爾生まれる。奥村土牛生まれる。岡本かの子生まれる。和辻哲郎生まれる。柳宗悦生まれる。チャップリン生まれる。ヒトラー生まれる。ウィトゲンシュタイン生まれる。山本宣治生まれる。内田百閒生まれる。三木露風生まれる。室生犀星生まれる。南原繁生まれる。ハイデガー生まれる。久保田万太郎生まれる。佐々木茂索生まれる。リラダン死去。ブラウニング死去。北村透谷「楚囚之詩」発表。幸田露伴「露団々」発表。山田美妙「蝴蝶」発表。
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「時は即ち存在であり、存在はみな時である。ーーーまさに存在は時間であり時間は存在である以外にはないのであるから、それぞれの存在と時間は時の全体であり、有るところの存在、有るところの現象はともに時である。諸々の時に有の全体・領域の全体が有るのだ。ーーー松も時である、竹も時である。時とは飛び去るものとだけ理解してはいけない、飛び去ることが時の活(はた)らきとだけ考えてはいけない。時というものがもしも飛び去るだけであったなら、飛び去った跡に時ではない隙間が出来るはずだ。ーーー全世界にあるところの全存在は、連なりながらも時である。時は即ち存在であり存在はすべて時であることによって我が実存は時である」(道元「現代語訳 正法眼蔵2・第二十・有事・P.85~89」河出文庫)
危険な密教的部分は省いた。さて、道元が語っている経験はかつて「離人症」〔解離性障害=Dissociative Disorders〕と呼ばれていた。いわゆる「全共闘」運動が華やかだった頃。アメリカ経由で違法ドラッグが流行していた。同時にLSD密売も流行した。しかしなぜLSDなのか。
道元がいっていることは「離人症」〔解離性障害=Dissociative Disorders〕を発症した人々の体験に大変似ている。LSD体験もまた。しかしそのことを知ったのは日本人ではない。ハイデガー門下のドイツ人である。ドイツ人学者から日本人精神科医(木村敏)が教わった。「そんなことなら、とっくの昔に道元がいっているのでは」、と。欧米の研究者の博学ぶりは東アジアの研究者の常識を遥かに上回っている。それまで日本人は、道元の仏教哲学について、自分で自分自身が一体何をやっているのか、さっぱりわかっていなかった。逆輸入という迂路を経て始めて飲み込めた。しかしその時点ではまだそれでよかった。
ところが、九〇年代バブル終焉とともに、そのことを知った人々の中からカルト教団ならびに地下鉄サリン事件発生という一大不祥事を招くこととなった。日本仏教界としては痛恨の打撃だった。だからもう、やめなければいけない。総懺悔しなくてはいけない。いつまでそのような横柄な態度で居直り続けるのか。自分で自分自身がしっかり教義の内容とその応用とを叩き込んでおかないから、問いに答えるという姿勢ができていないから、あのような迷走した半端者を出現させて死刑執行にまで至らせてしまったのだ。
ところが道元の発見はどう考えても未だ二元論の次元に留まっている。ヘーゲル=ハイデガーの線を超えるところまでは行っていない。同様の次元に接しているとだけはいえるとしても。そしてそれは道元が打ち立てた「只管打坐」(しかんたざ)という行為のうちに、或る一定の時間に限り、得られる極めて特殊な体験でしかないにしても、である。もっとも、そのような「離人症」〔解離性障害=Dissociative Disorders〕体験の神格化は歴史以前の古代から或る種の儀式とか放浪とかを通して世界中に存在してはいた。だが近代になった。するとその類種をも寄せ集めた神秘的体験の絶対化という態度を共有する組織化が行われ始めた。神秘的高揚感とそれを流用した政治的宣伝が、かつてロシア・ロマノフ王朝(ラスプーチン登場・銀行掌握)を、ナチス・ドイツ(党大会)を、大日本帝国(神仏集合的全体主義)を、率先して支援していった否定できない歴史的過程を発生させた。そしてハイデガーは哲学的側面からナチス・ドイツ成立に理論的根拠を与えることになったにもかかわらず、敗戦後、一切の「謝罪」を拒んだ。とはいえ、ハイデガー哲学にはそれなりの意味と意義とがあることは当然認めなければならないが。
種明かしをすれば、「只管打坐」(しかんたざ)という行為を通して道元が経験したと思われる「離人症」〔解離性障害=Dissociative Disorders〕体験とは、いわゆる「トランス状態」の一種に過ぎない。が、長時間続くようなら、結局のところ、病院行きという迷惑行為にしかならない。他の患者にとってははた迷惑この上ない。一般の警察にとっても。というのは、トランス状態を適時適切に取り扱うことができるのは精神科のみであって他のどの諸機関でもないからだ。それについては警察官らのほうがよく知っているだろう。泥酔しきった酔っ払いを取り扱うのとほとんどかわらないのが現実だからだ。しかしさらにいえば、本当に道元に学びたいというのなら、まずはごく当たり前の学問と社会常識とを学ばねばならない。そしてさらに道元的地平を目指したいという場合に限り、生涯にわたる一切の酒断ち並びに性交断ちを覚悟の上で摂取できうる仏教教義に少しづづ触れていくのが妥当だろうと考える。もし生涯にわたる一切の酒断ち並びに性交断ちについて自信がないというのなら、つまり「子作り」はもちろんのこと自慰行為すらも一切しないという態度を保持できないと考えるなら、ヘーゲル=ハイデガーの線を「只管打坐」(しかんたざ)という行為だけで超えようとしても超えられないし、超えたと信じることはできてもそれはただ単に自分で自分自身による絶対的思い込みという夢想の中を無邪気にはしゃぎ回っているだけのことに帰着するばかりだからだ。それだけではただ単なるトランス状態を経験することはできても何ら仏教を学んだとはいえない。むしろトランス状態という神秘的体験を通して、かえってファシスト化してしまうのがなれの果てだ。そういう人々は今なお精神病院に少なからずいる。ただし精神病者がいけないといっているのではない。そうではなくて、精神病院しか行くところがなくなる、というごく平凡なありふれた事実を述べているに過ぎない。そして同時に、精神病者を生む社会とは何か、精神病者を生む社会の成立条件とは何か、という根本的問いが問い直されなくてはならないだろう。たとえば、なぜ彼ら彼女らは違法ドラッグにはまったのか。あるいは入退院を何度も繰り返してしまうのか、といった具体的事実の検討。
だから、生涯にわたる一切の酒断ち並びに性交断ちというハードルを超えられないとおもうなら、始めから止めておくほうがいい。古い用語を用いると、「覚悟」、というものが必要だ。あるいは違法ドラッグも所詮は錯覚の多次元性の体験に過ぎない。LSDはただ単なる遠近法的錯覚のうちに、ただ単に自分だけで自分自身の安らいを安らっているに過ぎない。したがって、なおのこと違法ドラッグの使用などよりもむしろベルクソン哲学の再発見を推奨したいとおもうわけだ。
もしかしたら、あるいは周囲から「サイコパス」と呼ばれるかも知れない。「生の哲学」にとって、その可能性は常にある。しかし違法ドラッグを用いるよりも、「生の哲学」に没頭するほうがどれほど有効かつ効果的か、いまなお測り知れない生きた流れの非-国籍性を持つ。そしてその可能性の射程が、いまではどんなに幅広い分野へ応用可能か、よく理解できるかとおもう。実験とはこのような、地味ではあるが多彩な可能性に満ちた、日々の生活態度を指していうのだ。
次のセンテンスは音楽を例にとって述べられた部分。具体例としてはベートーベンの弦楽四重奏曲(後期の幾つか)がよいだろう。ピアノだけとかヴァイオリンだけとかの話ではないので。
「純粋持続とはまさに、互いに溶け合い、浸透し合い、明確な輪郭もなく、相互に外在化していく何の携行性もなく、数とは何の類縁性もないような質的変化の継起以外のものではありえないだろう。それはつまり、純粋な異質性であろう」(ベルクソン「時間と自由・P.126」岩波文庫)
そのようなわけで、今日もまた早く睡眠する。他者もまた、睡眠しよう。
「Connecticut<Connect(接続せよ)ーI(私は)ーcut(切る)>と、幼いジョーイは叫ぶ」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.52」河出書房新社)
なお、「時間と自由」は一八八九年発表。日本でいう明治二十二年。徴兵令改正。三池鉱山三井に払い下げ。憲法発布式典。森有礼文相刺殺事件。大隈条約改正案をロンドン・タイムスが暴露。大同団結分裂。秋田魁新報創刊。大槻文彦「言海」発刊。東海道本線全通。呉・佐世保両鎮守府開設。第二インターナショナル・パリで結成。大隈外相爆弾テロ。板垣退助ら愛国公党結成。山県有朋内閣成立。夢野久作生まれる。石原莞爾生まれる。奥村土牛生まれる。岡本かの子生まれる。和辻哲郎生まれる。柳宗悦生まれる。チャップリン生まれる。ヒトラー生まれる。ウィトゲンシュタイン生まれる。山本宣治生まれる。内田百閒生まれる。三木露風生まれる。室生犀星生まれる。南原繁生まれる。ハイデガー生まれる。久保田万太郎生まれる。佐々木茂索生まれる。リラダン死去。ブラウニング死去。北村透谷「楚囚之詩」発表。幸田露伴「露団々」発表。山田美妙「蝴蝶」発表。
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