白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

「言語ゲーム」と生成変化8−2

2019年02月09日 | 日記・エッセイ・コラム
「人間が一般的観念を形成して家、建築物、塔などの型を案出し、事物について他の型よりもある型を選択することを始めてからというものは、各人はあらかじめ同種の物について形成した一般的観念と一致するように見える物を完全と呼び、これに反してあらかじめ把握した型とあまり一致しないように見えるものを、たとえ製作者の意見によればまったく完成したものであっても、不完全と呼ぶようになった。ーーーもろもろの自然物、すなわち人間の手で製作されたのでないものについても、人々が通常完全とか不完全とか名づけるのはこれと同じ理由からであるように見える。すなわち人間は、自然物についても、人工物についてと同様に一般的観念を形成し、これをいわばそれらの物の型と見なし、しかも彼らの信ずるところでは、これを自然(自然は何ごとも目的なしにはしないと彼らは思っている)が考慮し、型として自己の前に置くというのである。このようにして彼らはあらかじめ同種の物について把握した型とあまり一致しないある物が自然の中に生ずるのを見る時に、自然自身が失敗あるいはあやまちを犯して、その物を不完全にしておいたと信ずるのである。ーーーこれでみると、人間が自然物を完全だとか不完全だとか呼び慣れているのは、物の真の認識に基づくよりも偏見に基づいていることが分かる」(スピノザ「エチカ・第四部・序言・P.8~9」岩波文庫)

この文章については、スピノザとの関わりなしに、ニーチェが次のように述べている部分を参照しておこう。「一般的観念と一致するような型」とはどのような「型」なのか。「物」について人間は何を「認識」しているのか。

「個別的なものを《無視する》ということが、われわれが概念をもつことの原因なのであり、これとともにわれわれの認識は始まるのである。すなわち、《標題づけ》において、《諸々の類》の提示において、われわれの認識は始まるのである。だが、こうしたものに、事物の本質は対応してはいない。それは認識過程ではあるが、事物の本質を射当ててはいないのである。多くの個別的特徴が、われわれに一つの事物を規定してくれるが、すべてのものを規定してはくれない。こうした特徴の同等性が機縁となって、われわれは多くの事物を一つの概念の下に統括するようになる」(ニーチェ「哲学者の書・P.319」ちくま学芸文庫)

「すなわち、それは《間違った等置》なのである。言いかえれば、《総合的推論とは、非論理的なものなのである》。われわれがそれを用いるときには、われわれは、通俗的な形而上学を、つまり、結果を原因と見なすような形而上学を、前提しているのである。『鉛筆』という概念が、鉛筆という『事物』と混同されるのである。総合判断における『である』ということは、誤りであり、それは一つの転用を内包しており、元来等置などが起こり得ないような二つの異なった領域が、相互に並列しておかれるのである。われわれはもっぱら、《非論理的なものの》影響下に、無知と誤知との中に、生きて、思考しているのである」(ニーチェ「哲学者の書・P.321」ちくま学芸文庫)

「すべて語というものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、ただちにそうなるのである、つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験に対して、何か記憶というようなものとして役立つべきだとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合にも同時に当てはまるものでなければならないとされることによって、なのである。すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生するのである。一枚の木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性を任意に脱落させ、種々の相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには『木の葉』そのものとでも言いうるような何かが存在するかのような概念を呼びおこすのである」(ニーチェ「哲学者の書・P.352~353」ちくま学芸文庫)

さて、プルーストは音楽について述べているが、音楽の何について述べているのか。音楽そのものというより、むしろ変奏ということについて述べているのではないだろうか。絵画もまたそうだ。

「というのもエルスチールは、一つの花をながめるにしても、その花をまずわれわれの内心の庭、われわれがつねにそこにとどまらざるをえない内心の庭に移しながらでなくては、それをながめることができなかったからである。彼はこの水彩画のなかで、彼が見たばら、そして彼がいなければ人がけっして知ることのなかったばら、そんなばらの幻をわれわれの目に見せてくれたのであった、したがってそのばらは、この画家が、天才的な園芸家とおなじように、《ばら》という家系をゆたかにして出現させた、新しい一つの変種だということができるだろう」(プルースト「失われた時を求めて7・P.166」ちくま文庫)

ここでは家系が《ばら》に《なる》。そして音楽へ行こう。

「音楽は、私が私自身の内部に降下して、そこに新しいものを発見することをたすけてくれる、すなわち、私が実人生や旅のなかに空しくさがし求めた多様なものを私自身の内部にあらたに発見することをたすけてくれるのだ。空しくさがし求めた多様なもの、しかしながら、いまやそれらの多様なものへのノスタルジーが、日に照らされた波がしらを私の足もとにくだけさせているこの音響の波によって、私のなかにもたらされているのであった。二重化された多様性である」(プルースト「失われた時を求めて8・P.273」ちくま文庫)

生成変化は変奏曲として、あるいは間奏曲として、捉えることができる。「一幅の絵画」と「一つの変奏曲としての音楽」とは置き換え可能でもある。

「芸術家は、そのようにして、その一人一人が、ある未知の祖国に生まれついた人間であるように思われる。彼は自分でその祖国を忘れてしまった、しかもその祖国は、今後べつの一人の大芸術家がそこから出てきて、大陸を求めて出帆する、ということもまったくない祖国なのだ。あえていえば、ヴァントゥイユは、その晩年の諸作品のなかで、そのような祖国に近づいていたように思われた、晩年の雰囲気はもはや《ソナタ》におけるそれとおなじではなかった、楽節の問いかけは、晩年になると、いっそう切迫し、いっそう不安げで、それを受ける答はいっそう神秘的だった、朝夕の水気をおびた空気が、楽器の弦にまで影響しているように思われるのであった。モレルは絶妙に弾きこなしていたがまだ十分ではかった、彼のヴァイオリンが発している音は私には異様に鋭く、ほとんどさけび声のように思われた。そのきつい音も耳ざわりではなく、人はそこに、たとえば声楽でのように、一種の精神的な長所、知的な才能を感じたであろう。しかしそれは人を不快にするものでもあった。宇宙への視野が改変され、純化され、内面の祖国への回想に一段と精妙に適合するようになるとき、音楽家にあっては音響の、おなじくまた画家にあっては色彩の、全般的変質となってそれがあらわれてくるのは至極当然である。それにまた、きわめて聡明な聴衆が、それを見あやまるころはない、その証拠に、のちになって人々はヴァントゥイユでは晩年の作品が一番深いと言明することになったからである。ところで、はじめはどんなプログラムも、どんな主題も、判断の知的材料を提供してはいなかった。だから、人々が推察していたのは、何か深いものが、音(おん)の世界に転置されていたのだろうという程度だったのである。この失われた祖国、それを音楽家たちは自分に思いださない、しかし彼らの各自がつねに無意識のうちにこの祖国とはある種の斉唱(ユニゾン)をなしてつながっているのである、その各自が自分の祖国にあわせてうたうとき、彼は歓喜で熱狂し、ときには、栄光への愛に駆られて祖国をうらぎる、しかしそんなとき、彼は栄光を求めることによって栄光からのがれる、そして栄光を軽蔑することによってのみ彼は栄光を見出すのである、そのとき彼はあの特異な歌をうたいだすのであり、その歌の同一調(モノトニー)はーーーというのも、とりあつかわれる主題がなんであろうと、彼は自己と同一のものにとどまるからでーーーその音楽家にあって彼の魂を構成する諸要素が確固不変であることを証明しているのである。しかしそんなとき、その諸要素にあたるもの、すなわちわれわれが自分自身のためにたいせつに残さなくてはならない現実の残留物、われわれが友人から友人へ、師から弟子へ、恋する男から女への会話では、とうていつたえることができないあの残留物、自分の感じたものから質的に選別されながらも各人が章句の入口で置きさらなくてはならない、あの言葉には言いあらわしがたいものというのも万人に共通したなんの興味もない外部の地点に自分を限定してでなくては各人は章句のなかで他人とコミュニケーションを保つことはできないからでーーーしかしそんなとき、そういう現実の残留物のすべて、そういう言葉には言いあらわしがたいものを、芸術は、エルスチールの芸術と同様にヴァントゥイユの芸術は、われわれが個人の世界と呼んでも芸術なくしてはけっしてわれわれに知られないであろうあの世界の、内的構造を、スペクトルの色のなかに顕在化することで、出現させるのではないだろうか?つばさ、ーーーそれもまた一種の呼吸器であり、それでわれわれは広大な空間を横切ることができるかもしれないが、だからといってわれわれにはなんの役にも立たないだろう、なぜなら、たとえわれわれが火星や金星に行ったとしても、おなじ感覚をもちつづけているならば、そこでわれわれが見るであろうすべてのものにわれわれの感覚は地球の事物とおなじ外観をまとわせるであろうからである。唯一の真の旅、唯一の《若がえりの泉》の水浴行は、新しい風景へのいでたちではなくて、多くの他の目をもつことであるだろう、他者の目、百の他者の目をもって宇宙を見ること、彼らのおのおのが見、彼らのおのおのが存在している百の宇宙を見ることであるだろう、そしてそのことは、一人のエルスチール、一人のヴァントゥイユ、またそのたぐいの人たちをもつことで、われわれに可能なのである、われわれはほんとうに星から星へと飛行するのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・P.448~451」ちくま文庫)

永劫回帰は、同一の場面が回帰することではなくて、同じものとしては二度と出現しないような生に対する絶対的肯定を述べたものだ。それはいつも微細な差異を伴っている。八つ裂きにされたディオニュソスが蘇ってくるわけだが、八つ裂きにされた諸部分はどうなったのか。それは八つ裂きに分裂し、八つ裂きのままで、分裂したそれぞれが変奏曲として変身=変態したのである。

「そうこうするうちに、ふたたびはじめられていた七重奏曲は、もうおわりに近づいていた、例の《ソナタ》の一楽節が何度もあれこれと立ちかえってくるのだが、しかしそのたびにリズムと伴奏とがちがっていて、それが変わったふうにきこえるのは、人生において何度も立ちかえる事物に似て、楽節はおなじでありながら、しかもちがっているからだった、それはたとえばつぎのような楽節の一つなのだった、すなわち、われわれにはよくわからない一種の親和力のようなものによって、ある作曲家の過去を自分の唯一の必然的な住みかと定められているような楽節、だからこそそれはその作曲家の作品のなかにしか見出されないが、そのかわりに、その作曲家の作品にはたえずきまったようにあらわれる、いわば彼の作品の森に住む仙女、森の女精であり、作品の内部をつかさどる神性であって、私は最初七重奏曲のなかにそれの二つか三つを認め、それが私に《ソナタ》を思いださせることになったのであった。やがて私は《ソナタ》のまたべつのもう一つの楽節が、立ちのぼる薄むらさきの霧のなかにひたされているのを認めたーーーヴァントゥイユの作品の最終段階ではとりわけそんな霧がよく立ちのぼるので、彼がそこに部分的に何かダンスのリズムのようなものをとりいれるときでも、そのリズムは一種のオパールの色のなかにとじこめられてしまうのであったーーー認めたといっても、その楽節はまだずっと遠くのほうにとどまっていて、はっきりそれとは見わけられないほどであった、それはためらいながら近づいた、と思うとおびえたように姿を消した、ついでふたたび立ちもどった、立ちもどると他の楽節に(あとで私が知ったところでは他の作品からやってきたらしい他の楽節に)からみつき、またべつの楽節を呼びよせた、そのべつの楽節は、ひとたびそこになじむと、こんどはまた他をひきつけ、他をおびきよせるものになるのだった、そんなふうにして、それらの楽節は聖なるロンドのなかにはいっていった、聖なるロンドといっても、聴衆にの大部分には、そのロンドはまだはっきりと見わけられないままで、彼らの目のまえには、ただぼんやりしたヴェールがかかっているだけだった、それを通してその先は何も見えず、彼らはいまにも死にそうに思われるやりきれなさのつづくなかで、ひとり勝手な感嘆のさけびをぽつりぽつりともらしていた。ついでそれらの楽節は遠ざかった、ただ一つだけ五回か六回ほど行きつもどりつするのを私が見た楽節をのぞいては、といっても私はその楽節の顔つきを見ることができたわけではなかった、しかしそれはこれまでにどんな女が私にかきたてた欲望からもかけはなれた、いかにもやさしく愛撫してくれるようなーーースワンにとって《ソナタ》の小楽節がたぶんそうであったろうと思われるようなーーーそんな存在なのだ、したがってその楽節こそはおそらくーーーつかむだけの十分な価値をもったある幸福をやさしい声で私にさしだしていた、その楽節こそはおそらくーーーその顔も私には見えず、その言葉も私には通じないのに、その気持が私にはじつによく理解される女であり、これまでにどこかで出会う機会があたえられていたにちがいない唯一の《未知の女》なのであろう」(プルースト「失われた時を求めて8・P.453~455」ちくま文庫)

ドゥルーズ&ガタリから。

「あらゆる創造は、一つの世界を表象する義務から自由になった、いわば突然変異性の抽象線だ。創造とは、新しいタイプの現実をアレンジする行為にほかならない」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.285」河出文庫)

少しばかり補足しておこう。「抽象線」とある。たとえばドゥルーズが受けている「抽象的」という非難。ここでも「抽象」という言語が使用されている。文章の難解さは確かにあるとはいえ、「抽象」という言語使用自体も、またそういう非難に晒される要因かもしれない。頭の中で考えただけに過ぎない抽象的表現だと映ってしまうのだろう。けれども、たとえば頭の中で「3+2=5」と暗算したとしよう。その行為は抽象的だろうか。「3+2=5」は頭の中だけで考えた暗算に過ぎないのだが、しかし誰も抽象的だと言って非難したりはしない。むしろ現実的だ。にもかかわらずなぜドゥルーズの文章になると途端にイメージの世界に過ぎないなどとレッテル貼りされてしまうのか。不可解ではある。そうしたわけで今しがた上げたドゥルーズ&ガタリの言葉をニーチェに置き換えると随分わかりやすくなりはしないだろうか、とおもう。

ニーチェはいう。考え過ぎていると何もできない。ときどきは忘却=睡眠することが大事だと。新しく「開始する」ために。

「非歴史的なものはものを被う雰囲気に似ており、この雰囲気のうちでのみ生はみずからを産み、したがってそれが否定されると同時に生も再び消え失せる。人間が考え、篤(とく)と考え、比較し、分離し、結合して、あの非歴史的要素を制限することによって初めて、あの取り巻く蒸気の雲の内部に明るく閃(ひら)めく一条の光が発生することによって初めて、ーーーしたがって、過ぎ去ったものを生のために使用し、また出来事をもとにして歴史を作成する力によって初めて、人間は人間となる。これに間違いない、しかし歴史が過剰になると人間は再び人間であることをやめるのであり、人間は非歴史的なもののあの被いがなければ、開始することを決してしなかったであろうし、また現に開始することを敢えてしないであろう。人間が前もってあの蒸気層に入り込んでおらずに、なすことの可能な行動がどこに見いだされるであろうか?」(ニーチェ「反時代的考察・P.127~128」ちくま学芸文庫)

なお、「エチカ」は一六七七年出版。日本でいう延宝五年。フランスによるオランダ侵略戦争。ホーエンツォレルン家フリードリヒ二世による絶対王政。清朝=康煕帝時代。大老酒井忠清政権から徳川綱吉の文治政治へ。ジャガタラお春。

BGM

「言語ゲーム」と生成変化8−1

2019年02月09日 | 日記・エッセイ・コラム
「ひとが内部で自分自身に話しかけるとするなら、それはどういうことなのか。ーーーそこで何が起るのか。わたくしはそれをどのように説明したらいいのか。そう、あなたが誰かに『自分自身に話しかける』という表現の意味を教えてやれるようにしか〔説明できない〕。そして、子供のとき、われわれはまさにその意味を学ぶのである。ーーーただ、その意味をわれわれに教えてくれるひとが、<そこで起っていること>をわれわれに言ってくれるなどとは、誰も言わないだろう」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・三六一」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.226~227』大修館書店)

あえて問わなければならない。「<そこで起っていること>」とは何なのか。何が「起こりつつ」あるのか、と。「神の技」とでも言うべき事態が進行しているのだろうか。とすれば、「神の技」とは一体なんなのか。それこそが問われるべき事態であるにほかならない。だとしても、或る条件が必要だ。手続上のことに過ぎないが。「神」とは何か。少なくとも「人格神」ではない。もし仮に「人格神」であろうとすれば、その人間はいったん人間から始めなくてはならず、したがって、規則・文法に服従することになる。教わる立場に立たなければならない。果たして「神」は服従するだろうか。それでもなお服従しなくてはならないのが「人格神」であり、そうである以上、「神」であるにもかかわらず規則・文法といった極めて構造的な学問に習熟していなくてはならず、教えるのではなく逆に教わる=学ぶ立場に立つことがなくてはならず、もしそれができなければ語ることはできず、語ることができない限り、「神」は何をどのように思考しようとも一般には何一つ伝えることはできないという様々に限定された諸事情が立ちはだかる。しかし、あるいはスピノザのいうように汎神論の立場を取るとすればどのように考えることができるだろうか。スピノザのいう汎神論とは簡単にいえば「神=世界そのもの」あるいは「神=自然そのもの」というものだ。なるほどマルクスの時代はその範囲でよかったのだろう。しかし人間はもはや地球だけでなく今や宇宙をも同時に取り扱うようになってきている。したがってスピノザの汎神論も「神=宇宙そのもの」と捉えて考えることができなくてはならないが、スピノザ哲学の射程が人間世界から決して離れることがない限り、それはできるしむしろ開始しなくてはならないだろう。早くもドゥルーズなどは明らかにそう捉えていると考えられる。だがまず、スピノザの哲学から重要と思われる箇所を書き出してみなければ始まらない。以下、「神」とある部分は現代社会に対応する形で「神=宇宙そのもの」として考えることにしたい。この大地というときの大地と同じ意味で用いる。だからこの場合の宇宙は夢の中にありもしない幽霊が出てくる宇宙ではなく、実際に人工衛星が飛び交い、たとえば月の地上に国旗が立っていたりする現実の宇宙を指す。

「《神》とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解する」(スピノザ「エチカ・第一部・定義六・P.38」岩波文庫)

「実体」と述べたところで既に濃厚な唯物論の匂いが漂うわけだが。

「神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、は必然的に存在する」(スピノザ「エチカ・第一部・定理一一・P.47」岩波文庫)

複数性について述べている。「多く」の「属性から成っている」と。

「個物は神の属性の変状である。あるいは神の属性を一定の仕方で表現する様態、にほかならぬ」(スピノザ「エチカ・第一部・定理二五・系・P.70」岩波文庫)

「属性」「変状」「様態」など、「神=自然そのもの」と捉えるスピノザならでは、というべきだろう。

「人間は思惟する<あるいは他面から言えば、我々は我々が思惟することを知る>」(スピノザ「エチカ・第二部・公理二・P.95」岩波文庫)

早い部分で人間が登場する。そして人間は登場するや否や「思惟する」存在だと規定される。ただ「思惟する」とはいえ、スピノザの場合、頭の中で考えるだけ、というわけではないところが単なる哲学ではないと予感させる。

「我々はある物体〔身体〕が多様の仕方で刺激されるのを感ずる」(スピノザ「エチカ・第二部・公理四・P.95」岩波文庫)

スピノザの真骨頂である「身体」の強調。「多様な仕方」という訳語もまた有名になった、というか、定着して久しい。

「思惟は神の属性である。あるいは神は思惟する物である」(スピノザ「エチカ・第二部・定理一・P.95」岩波文庫)

自然界は各々の仕方で多様に思惟するわけだ。昨今の動植物研究では遺伝子レベルで実に様々な形態を取っていることがわかってきた。

「延長は神の属性である。あるいは延長した物である」(スピノザ「エチカ・第二部・定理二・P.96」岩波文庫)

唯物論として攻撃されたのもわかろうという部分だが、次の部分は観念的な秩序は物の秩序に従っていると読めてしまう。この、目に見えない秩序というものをめぐって、スピノザは、両者は少なくとも同一だと述べている。

「観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一である」(スピノザ「エチカ・第二部・定理七・P.99」岩波文庫)

次のセンテンスはより一層細かな部分にも言及している。同一の物体としてあるものは、立場の違いや物の見方次第でどのようにも見えるものであって、要するにそれだけのことであって観念に重きを置くか身体に重きを置くかによって身体の見え方もそれぞれ変わってくるとスピノザはいう。

「無限な知性によって実体の本質を構成していると知覚されうるすべてのものは単に唯一の実体に属しているということ、したがってまた思惟する実体と延長した実体とは同一の実体なのであって、それが時には《この》属性のもとにまた時には《かの》属性のもとに解される」(スピノザ「エチカ・第二部・定理七・備考・P.100」岩波文庫)

自然以外の何ものも対象として表象することはできないということ。自然そのもののほかに神は存在しないと。

「人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない」(スピノザ「エチカ・第二部・定理一三・P.108」岩波文庫)

「人間身体は、本性を異にするきわめて多くの個体ーーーそのおのおのがまたきわめて複雑な組織のーーーから組織されている」(スピノザ「エチカ・第二部・要請一・P.117」岩波文庫)

さらに次に続く部分はドゥルーズが好きそうな記述だ。自然の諸力の流動と強度と速度と諸変化といった運動状態をおもわせる。

「人間身体を組織する個体のうち、あるものは流動的であり、あるものは軟かく、最後にあるものは硬い」(スピノザ「エチカ・第二部・要請二・P.117」岩波文庫)

「人間身体を組織する個体、したがってまた人間身体自身は、外部の物体からきわめて多様の仕方で刺激される」(スピノザ「エチカ・第二部・要請三・P.117」岩波文庫)

「人間身体は自らを維持するためにきわめて多くの他の物体を要し、これらの物体からいわば絶えず更生される」(スピノザ「エチカ・第二部・要請四・P.117」岩波文庫)

記憶は「痕跡」の「刻印」と切り離せない。

「人間身体の流動的な部分が他の軟かい部分にしばしば突き当たるように外部の物体から決定されるならば、その流動的な部分は軟かい部分の表面を変化させ、そして突き当たる運動の源である外部の物体の痕跡のごときものをその軟かい部分に刻印する」(スピノザ「エチカ・第二部・要請五・P.117」岩波文庫)

「人間身体は外部の物体をきわめて多くの仕方で動かし、かつこれにきわめて多くの仕方で影響することができる」(スピノザ「エチカ・第二部・要請六・P.117」岩波文庫)

とても微妙な記述。フロイトによる記憶の概念をおもわせる。

「もし人間身体がある外部の物体の本性を含むような仕方で刺激されるならば、人間精神は、身体がこの外部の物体の存在あるいは現在を排除する刺激を受けるまでは、その物体を現実に存在するものとして、あるいは自己に現在するものとして、観想するであろう。ーーーなぜなら人間身体がそのような仕方で刺激されている間は、人間精神は身体のこの刺激を観想するであろう。言いかえれば、精神は現実に存在する刺激状態について、外部の物体の本性を含む観念を、言いかえれば外部の物体の存在あるいは現在を排除せずにかえってこれを定立する観念を有するであろう。したがって精神は、身体が外部の物体の存在あるいは現在を排除する刺激を受けるまでは、外部の物体を現実に存在するものとして、あるいは現在するものとして観想するであろう。ーーー人間精神をかつて刺激した外部の物体がもはや存在しなくても、あるいはそれが現在しなくても、精神はそれをあたかも現在するかのように観想しうるであろう。ーーー人間身体の流動的な部分が軟かい部分にしばしば衝き当るように外部の物体から決定されると、軟かい部分の表面は変化する。この結果として、流動的な部分は、軟かい部分の表面から、以前とは異なる仕方で弾ね返ることになる。そしてあとになって流動的な部分がこの変化した表面に自発的な運動をもって突き当たると、流動的な部分は前に外部の物体から軟かい部分の表面を衝くように促された時と同じ仕方で弾ね返ることになる。したがってまたそれはこのように弾ね返る運動を継続する間は〔以前外部の物体に促されてした時と〕同じ仕方で人間身体を刺激することになる。この刺激を精神はふたたび認識するであろう。言いかえれば精神はふたたび外部の物体を現在するものとして観想するであろう。そしてこのことは、人間身体の流動的な部分がその自発的な運動をもって軟かい部分の表面を衝くたびごとに起こるであろう。ゆえに人間身体をかつて刺激した外部の物体がもはや存在しなくても、精神は、身体のこうした活動がくり返されるたびごとに、外部の物体を現在するものとして観想するであろう」(スピノザ「エチカ・第二部・定理一七・P.119~200」岩波文庫)

「我々は例えばペテロ自身の精神の本質を構成するペテロの観念と、他の人間例えばパウロの中に在るペテロ自身の観念との間にどんな差異があるかを明瞭に理解しうる。すなわち前者はペテロ自身の身体の本質を直接に説明し、ペテロの存在する間だけしか存在を含んでいない。これに反して後者はペテロの本性よりもパウロの身体の状態を《より》多く示しており、したがってパウロの身体のこの状態が維持する間は、パウロの精神は、ペテロがもはや存在しなくてもペテロを自己にとって現在するものとして観想するであろう」(スピノザ「エチカ・第二部・定理一六・P.121」岩波文庫)

「もし人間身体がかつて二つあるいは多数の物体から同時に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合ただちに他のものをも想起するであろう」(スピノザ「エチカ・第二部・定理一八・P.122」岩波文庫)

過去の記憶あるいは過去の物体・対象が再び表象されうるのは、過去に刻印された「痕跡」との類似性から引き出されてくるということ。脳内記憶装置=シナプスと脳内伝達物質の諸関係。

「精神がある物体を表象するのは人間身体のいくつかの部分がかつて外部の物体自身から刺激されたのと同様の刺激・同様の影響を人間身体が外部の物体の残した痕跡から受けることに基づくのである。ところが(仮定によれば)身体はかつて、精神が同時に二つの物体を表象するようなそうした状態に置かれていた。ゆえに精神は、今もまた、同時に二つのものを表象するであろう。そしてその一つを表象する場合、ただちに他のものを想起するであろう」(スピノザ「エチカ・第二部・定理一八・P.122」岩波文庫)

頭だけが思惟するのではなく、むしろ、身体全体が自然の中で自然そのものとして思惟するのだとスピノザは考えているようにおもう。

「身体の観念と身体とは、言いかえれば精神と身体とは同一個体であって、それがある時は思惟のもとで、ある時は延長の属性のもとで考えられるのである」(スピノザ「エチカ・第二部・定理二一・備考・P.126」岩波文庫)

認識の限界について。

「人間精神は人間身体を組織する部分の妥当な認識を含んでいない」(スピノザ「エチカ・第二部・定理二四・P.128」岩波文庫)

「人間身体のおのおのの変状〔刺激状態〕の観念は外部の物体の妥当な認識を含んでいない」(スピノザ「エチカ・第二部・定理二五・P.128~129」岩波文庫)

人々は認識しようとするとき、一体何をどのようにして、認識するのではなく、逆に誤解するのかということ。

「虚偽〔誤謬〕とは非妥当なあるいは毀損し・混乱した観念が含む認識の欠乏に存する。ーーー観念の中には虚偽の形相を構成する積極的なものは何も存しない。しかし虚偽は<認識の>絶対的な欠乏には存しえない(なぜなら、誤るとか錯誤するとか言われるものは精神であって身体などではないのだから)。だからといってそれは絶対的無知にも存しない。なぜなら、あることを知らないということと誤るということは別ものだからである。それゆえ虚偽〔誤謬〕とは事物の非妥当な認識、あるいは非妥当で混乱した観念が含む認識の欠乏に存する。ーーー例を挙げよう。例えば人間が自らを自由であると思っているのは、<すなわち彼らが自分は自由意志をもってあることをなしあるいはなさざることができると思っているのは>誤っている。そしてそうした誤った意見は、彼らがただ彼らの行動は意識するが彼らをそれへ決定する諸原因はこれを知らないということにのみ存するのである。だから彼らの自由の観念なるものは彼らが自らの行動の原因を知らないということにあるのである。なぜなら、彼らが、人間の行動は意志を原因とすると言ったところで、それは単なる言葉であって、その言葉について彼らは何の理解も有しないのである。すんわち意志とは何であるか、また意志がいかにして身体を動かすかを彼らは誰も知らないのである。またそれを知っていると称して魂の在りかや住まいを案出する人々は嘲笑か嫌悪をひき起こすのが常である。ーーー同様に、我々は太陽を見る時太陽が約二百フィート我々から離れていると表象する。この誤謬はそうした表象自体の中には存せず、我々が太陽をそのように表象するにあたって太陽の真の距離ならびに我々の表象の原因を知らないことに存する。なぜなら、もしあとで我々が太陽は地球の直径の六百倍以上(✻当時の通説)も我々から離れていることを認識しても、我々はそれにもかかわらずやはり太陽を近くにあるものとして表象するであろう。なぜなら、我々が太陽をこれほど近いものとして表象するのは、我々が太陽の真の距離を知らないからではなく、我々の身体の変状〔刺激状態〕は身体自身が太陽から刺激される限りにおいてのみ太陽の本質を含んでいるからである」(スピノザ「エチカ・第二部・定理三五・P.135~136」岩波文庫)

次の文章はフッサールの括弧入れをおもわせる。

「『ある人が判断を控える』と我々が言う時、それは『彼が物を妥当に知覚しないことに自ら気づいている』と言うのにほかならない」(スピノザ「エチカ・第二部・定理四九・備考・P.160」岩波文庫)

再び身体の強調。

「精神と身体とは同一物であってそれが時には思惟の属性のもとで、時には延長の属性のもとで考えられるまでなのである。この結果として、物の秩序ないし連結は、自然が《この》属性のもとで考えられようと《かの》属性のもとで考えられようとただ一つだけであり、したがって我々の身体の能動ならびに受動の秩序は、本性上、精神の能動ならびに受動の秩序と同時であるということになる。ーーー事情はかくのごとくであってこれについてはもはや何ら疑う理由が残っていないにもかかわらず、もしこのことを私が経験によって確証しない限りは、人々にこれを冷静に熟慮するようにさせることはまずできない相談であろう。それほどまでに根強く彼らはこう思い込んでいるーーー身体は精神の命令だけであるいは運動しあるいは静止し、そして彼らの行動の多くは単に精神の意志と思考の技能にのみ依存している、と。これというのも、身体が何をなしうるかをこれまでまだ誰も規定しなかったからである。言いかえれば、身体が、単に物体的と見られる限りにおける自然の法則のみによって何をなしうるか、また精神から決定されなくては何をなしえないかを、これまで誰も経験によって確定しなかったからである」(スピノザ「エチカ・第三部・定理二・P.170~171」岩波文庫)

「衝動」と出てくるが、「欲望」とはあえて別に定義されている箇所。また人間は何を「善」と考えるかという問いに答えている。「善」というものが先に存在しているわけではまったくない、事情は逆だ、と。

「精神は明瞭判然たる観念を有する限りにおいても、混乱した観念を有する限りにおいても、ある無限定な持続の間、自己の有に固執しようと努め、かつこの自己の努力を意識している。ーーー精神の本質は妥当な観念ならびに非妥当な観念から構成されている。したがって精神は妥当な観念を有する限りにおいても非妥当な観念を有する限りにおいても自己の有に固執しようと努める。ところで精神は身体の変状〔刺激状態〕の観念によって自己を意識するのであるから、したがって精神は自己の努力を意識している。ーーーこの努力が精神だけに関係する時には《意志》と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には《衝動》と呼ばれる。したがって衝動とは人間の本質そのもの、ーーー自己の維持に役立つすべてのことがそれから必然的に出て来て結局人間にそれを行なわせるようにさせる人間の本質そのもの、にほかならない。次に衝動と欲望との相違はといえば、欲望は自らの衝動を意識している限りにおいてもっぱら人間について言われるというだけのことである。このゆえに《欲望とは意識を伴った衝動である》と定義することができる。このようにして、以上すべてから次のことが明らかになる。それは、我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するがゆえにそのものを善と判断する、ということである」(スピノザ「エチカ・第三部・定理二・P.178~179」岩波文庫)

またさらに記憶について。

「もし精神がかつて同時に二つの感情に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つに刺激される場合、他の一つにも刺激されるであろう。ーーーもし人間身体がかつて同時に二つの物体から刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合、ただちに他の一つをも想起するであろう。ところが精神の表象は、外部の物体の本性よりも我々の身体の感情を《より》多く示している。ゆえにもし身体、したがってまた精神はかつて二つの感情に刺激されたとしたら、あとでその中の一つに刺激される場合他の一つにも刺激されるであろう」(スピノザ「エチカ・第三部・定理一四・P.183~184」岩波文庫)

感情というものの、のっぴきならない性質について。また同時に「類似」ということが持つ重要な作用について。

「おのおのの物は偶然によって喜び・悲しみあるいは欲望の原因となりうる。ーーー精神が同時に二つの感情に、すなわち一つは精神の活動能力を増大も減少もしないもの、他の一つはそれを増大あるいは減少するものに刺激されると仮定しよう。前定理から次のことが明白である。すなわち精神があとでそれ自体では精神の思惟能力を増大も減少もしない第一の感情の真の原因によってその第一の感情に刺激される場合、精神はただちに、自己の思惟能力を増大しあるいは減少する第二の感情に、言いかえれば喜びあるいは悲しみに、刺激されるであろう。したがってかの〔第一の感情の原因となった〕物はそれ自体によってではなく偶然によって喜びあるいは悲しみの原因となるであろう。またこの同じ経路でそうした物が偶然によって欲望の原因となりうることを容易に示すことができる。ーーー我々は、ある物を喜びあるいは悲しみの感情をもって観想したということだけからして、その物自身がそうした感情の起成原因でないのにその物を愛しあるいは憎むことができる。ーーーなぜなら、このことだけからして、精神はあとでこの物を表象する時喜びあるいは悲しみの感情に刺激されるということになる。言いかえれば精神ならびに身体の能力が増大あるいは減少させられるなどなどのことになる。したがってまた精神がその物を表象することを好みあるいは厭うことになる。言いかえれば精神はその物を愛し、あるいは憎むことになる。ーーーこれによって我々は、その原因を知らずにただいわゆる《同感》〔先入的好感〕および《反感》だけからある物を愛したり憎んだりするということがどうして起こりうるかを理解する。我々を喜びあるいは悲しみの感情に刺激するのを常とする対象に多少類似しているという理由だけで、我々を喜びあるいは悲しみに刺激するような対象もまたこうしたものの中に入れられる」(スピノザ「エチカ・第三部・定理一五・P.184~185」岩波文庫)

「ある物が、精神を喜びあるいは悲しみに刺激するのを常とする対象に多少類似すると我々が表象するというだけのことからして、その物がその対象と類似する点がそうした感情の起成原因〔直接原因〕でなくても、我々はその物を愛しあるいは憎むであろう。ーーーその物がその対象に類似する点を我々は対象自身において喜びあるいは悲しみの感情をもって観想した。したがって精神はこの類似点の表象像によって刺激される場合ただちに喜びあるいは悲しみの感情にも刺激されるであろう。したがってまたこの類似点をもつと我々が知覚する物は、偶然によって喜びあるいは悲しみの原因となるであろう。そこでその物が対象に類似している点がそうした感情の起成原因〔直接原因〕でなくても、我々はやはりその物を愛しあるいは憎むであろう」(スピノザ「エチカ・第三部・定理一六・P.185~186」岩波文庫)

力としての意志とその変容について。

「我々を悲しみの感情に刺激するのを常とする物が、等しい大いさの喜びの感情に我々を刺激するのを常とする常とする他の物と多少類似することを我々が表象する場合、我々はその物を憎みかつ同時に愛するであろう。ーーーなぜならこの物はそれ自体によって悲しみの原因である。そして我々がこの物を悲しみの感情をもって表象する限り我々はそれを憎む。さらにまたそれが我々を等しい大いさの喜びの感情に刺激するのを常とする他の物に多少類似することを我々が表象する限り、我々はそれを等しい大いさの喜びの緊張をもって愛するであろう。したがって我々はそれを憎みかつ同時に愛するであろう。ーーー《二つの相反する感情から生ずるこの精神状態》は《心情の動揺》と呼ばれる。したがってその感情に対する関係は、疑惑の表象に対する関係と同様である。そして心情の動揺と疑惑との相違は、ただその度合の強弱という点にのみ存するのである。しかしここに注意しなければならぬのはーーー私は前定理においてこの心情の動揺を、それ自身によってある感情の原因であり・偶然によって他の感情の原因であるような原因から導き出したが、それはそうした方がこの動揺を《より》容易に前の諸定理から導き出しうるからであって、何も心情の動揺が、多くの場合、二つの感情の起成原因〔直接原因〕であるような一対象から生ずることを否定しているわけではないということである。なぜなら、人間身体は本性を異にするきわめて多くの個体から組織されており、したがって人間身体は同一物体からきわめて多くの異なった仕方で刺激されることができる。また逆に、同一事物が多くの仕方で刺激されうるからには、同一事物がまた多くの異なった仕方で人間身体の同一部分を刺激することができるであろう。すなわちこれらのことからして我々は同一対象が多くのかつ相反する感情の原因となりうることを容易に理解することができるのである」(スピノザ「エチカ・第三部・定理一七・P.186~187」岩波文庫)

「人間は過去あるいは未来の物の表象像によって、現在の物の表象像によるのと同様の喜びおよび悲しみの感情に刺激される。ーーー人間はある物の表象像に刺激されている間は、たとえその物が存在していなくとも、それを現在するものとして観想するであろう、そしてその物の表象像が過去あるいは未来の時間の表象像と結合する限りにおいてでなくては、それを過去あるいは未来のものとして表象しない。だから物の表象像は、単にそれ自体において見れば、それが未来ないし過去の時間に関係したものであろうと現在に関係したものであろうと同じである。言いかえれば身体の状態あるいは感情は表象像が過去あるいは未来の物に関するものであろうと現在の物に関するものであろうと同じである。したがって喜びおよび悲しみの感情は表象像が過去あるいは未来の物に関するものであろうと現在の物に関するものであろうと同じである。ーーー私がここで物を過去のものとか未来のものとか呼ぶのは、我々がその物によって刺激されたかあるいは刺激されるであろう限りにおいてである。例えば我々がある物を見たかあるいは見るであろう、ある物が我々を活気づけたかあるいは活気づけるであろう、ある物が我々を害したかあるいは害するであろう──などなどの限りにおいて、私はその物を過去のものあるいは未来のものと呼ぶのである。なぜなら、物をそのようなふうに表象する限りにおいて、我々はその物の存在を肯定している。言いかえれば身体はその物の存在を排除するいかなる感情にも刺激されない。したがって身体はその物の表象像によってあたかもその物自身が現在したであろう場合と同じ仕方で刺激される。ではあるがしかし、数々の経験をもつ人々は、物を未来あるいは過去のものとして観想する間は、大抵動揺して、その物の結果について多くは疑惑を有するから、したがって事物のこの種の表象像から生ずる感情はさほど確乎たるものではなく、人々がその物の結果について確実になるまでは、しばしば他の事物の表象像によって乱されることになる。ーーー今しがた述べたことからことどもから、我々は希望、恐怖、安堵、絶望、歓喜および落胆の何たるかを理解する。すなわち《希望》とは《我々がその結果について疑っている未来または過去の物の表象像から生ずる不確かな喜び》にほかならない。これに反して《恐怖》とは《同様に疑わしい物の表象像から生ずる不確かな悲しみ》である。さらにもしこれらの感情から疑惑が除去されれば希望は《安堵》となり、恐怖は《絶望》となる。すなわちそれは《我々が希望しまたは恐怖していた物の表象像から生ずる喜びまたは悲しみ》である。次に《歓喜》とは《我々がその結果について疑っていた過去の物の表象像から生ずる喜び》である。最後に《落胆》とは《歓喜に対立する悲しみ》である」(スピノザ「エチカ・第三部・定理一八・P.187~189」岩波文庫)

力はいかにして増減するのか。力の諸変態についての哲学。

「自由であると我々の表象する物に対する愛および憎しみは、原因が等しい場合には、必然的な物に対する愛および憎しみより大でなければならぬ。ーーー自由であると我々の表象する物は、他のものなしにそれ自身によって知覚されなければならぬ。ゆえにもし我々がこうした物を喜びあるいは悲しみの原因であると表彰するなら、まさにそのことによって我々はそれを愛しあるいは憎むであろう。しかも与えられた感情から生じうる最大の愛あるいは憎しみをもって愛しあるいは憎むであろう。これに反してもしこの感情の原因たる物を必然的なものとして表象するなら、我々はそれが単独にでなく他の物と合同してこの感情の原因であることを表象するであろう。したがってその物に対する愛および憎しみは《より》小であろう。ーーーこの帰結として出てくるのは、人間は自らを自由であると思うがゆえに他の物に対してよりも相互に対して《より》大なる愛あるいは憎しみをいだき合う、ということである。なおこれに感情の模倣ということが加わる」(スピノザ「エチカ・第三部・定理四九・P.219」岩波文庫)

そして次に「他者」とは何かについて述べている箇所。

「各個人の各感情は他の個人の感情と、ちょうど一方の人間の本質が他方の人間の本質と異なるだけ異なっている」(スピノザ「エチカ・第三部・定理五七・P.231」岩波文庫)

一方の個人が他者と異なっているのは両者が同一の「言語ゲーム」にいないことを前提する。だが他方で、個人にとって、他者が他者であることを知っているためには同一の「言語ゲーム」を共有することができていなくては、わからないということすらわからない。両者は「言語ゲームA」と「言語ゲームB」とが接触する地点で始めて、他者について何らかのことを知ることができる。そして「言語ゲーム」の同一性は「生活様式」の同一性にかかっている。

始めはこんなところでいいのではと思う。あとの解釈は「解釈の解釈の解釈のーーー」と続いていってしまうことがよくある。無限の解釈は無意味だ。どこでどのように決定するか。決定権は自分自身にある。それが大切だろうと思う。

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