「人間が一般的観念を形成して家、建築物、塔などの型を案出し、事物について他の型よりもある型を選択することを始めてからというものは、各人はあらかじめ同種の物について形成した一般的観念と一致するように見える物を完全と呼び、これに反してあらかじめ把握した型とあまり一致しないように見えるものを、たとえ製作者の意見によればまったく完成したものであっても、不完全と呼ぶようになった。ーーーもろもろの自然物、すなわち人間の手で製作されたのでないものについても、人々が通常完全とか不完全とか名づけるのはこれと同じ理由からであるように見える。すなわち人間は、自然物についても、人工物についてと同様に一般的観念を形成し、これをいわばそれらの物の型と見なし、しかも彼らの信ずるところでは、これを自然(自然は何ごとも目的なしにはしないと彼らは思っている)が考慮し、型として自己の前に置くというのである。このようにして彼らはあらかじめ同種の物について把握した型とあまり一致しないある物が自然の中に生ずるのを見る時に、自然自身が失敗あるいはあやまちを犯して、その物を不完全にしておいたと信ずるのである。ーーーこれでみると、人間が自然物を完全だとか不完全だとか呼び慣れているのは、物の真の認識に基づくよりも偏見に基づいていることが分かる」(スピノザ「エチカ・第四部・序言・P.8~9」岩波文庫)
この文章については、スピノザとの関わりなしに、ニーチェが次のように述べている部分を参照しておこう。「一般的観念と一致するような型」とはどのような「型」なのか。「物」について人間は何を「認識」しているのか。
「個別的なものを《無視する》ということが、われわれが概念をもつことの原因なのであり、これとともにわれわれの認識は始まるのである。すなわち、《標題づけ》において、《諸々の類》の提示において、われわれの認識は始まるのである。だが、こうしたものに、事物の本質は対応してはいない。それは認識過程ではあるが、事物の本質を射当ててはいないのである。多くの個別的特徴が、われわれに一つの事物を規定してくれるが、すべてのものを規定してはくれない。こうした特徴の同等性が機縁となって、われわれは多くの事物を一つの概念の下に統括するようになる」(ニーチェ「哲学者の書・P.319」ちくま学芸文庫)
「すなわち、それは《間違った等置》なのである。言いかえれば、《総合的推論とは、非論理的なものなのである》。われわれがそれを用いるときには、われわれは、通俗的な形而上学を、つまり、結果を原因と見なすような形而上学を、前提しているのである。『鉛筆』という概念が、鉛筆という『事物』と混同されるのである。総合判断における『である』ということは、誤りであり、それは一つの転用を内包しており、元来等置などが起こり得ないような二つの異なった領域が、相互に並列しておかれるのである。われわれはもっぱら、《非論理的なものの》影響下に、無知と誤知との中に、生きて、思考しているのである」(ニーチェ「哲学者の書・P.321」ちくま学芸文庫)
「すべて語というものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、ただちにそうなるのである、つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験に対して、何か記憶というようなものとして役立つべきだとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合にも同時に当てはまるものでなければならないとされることによって、なのである。すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生するのである。一枚の木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性を任意に脱落させ、種々の相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには『木の葉』そのものとでも言いうるような何かが存在するかのような概念を呼びおこすのである」(ニーチェ「哲学者の書・P.352~353」ちくま学芸文庫)
さて、プルーストは音楽について述べているが、音楽の何について述べているのか。音楽そのものというより、むしろ変奏ということについて述べているのではないだろうか。絵画もまたそうだ。
「というのもエルスチールは、一つの花をながめるにしても、その花をまずわれわれの内心の庭、われわれがつねにそこにとどまらざるをえない内心の庭に移しながらでなくては、それをながめることができなかったからである。彼はこの水彩画のなかで、彼が見たばら、そして彼がいなければ人がけっして知ることのなかったばら、そんなばらの幻をわれわれの目に見せてくれたのであった、したがってそのばらは、この画家が、天才的な園芸家とおなじように、《ばら》という家系をゆたかにして出現させた、新しい一つの変種だということができるだろう」(プルースト「失われた時を求めて7・P.166」ちくま文庫)
ここでは家系が《ばら》に《なる》。そして音楽へ行こう。
「音楽は、私が私自身の内部に降下して、そこに新しいものを発見することをたすけてくれる、すなわち、私が実人生や旅のなかに空しくさがし求めた多様なものを私自身の内部にあらたに発見することをたすけてくれるのだ。空しくさがし求めた多様なもの、しかしながら、いまやそれらの多様なものへのノスタルジーが、日に照らされた波がしらを私の足もとにくだけさせているこの音響の波によって、私のなかにもたらされているのであった。二重化された多様性である」(プルースト「失われた時を求めて8・P.273」ちくま文庫)
生成変化は変奏曲として、あるいは間奏曲として、捉えることができる。「一幅の絵画」と「一つの変奏曲としての音楽」とは置き換え可能でもある。
「芸術家は、そのようにして、その一人一人が、ある未知の祖国に生まれついた人間であるように思われる。彼は自分でその祖国を忘れてしまった、しかもその祖国は、今後べつの一人の大芸術家がそこから出てきて、大陸を求めて出帆する、ということもまったくない祖国なのだ。あえていえば、ヴァントゥイユは、その晩年の諸作品のなかで、そのような祖国に近づいていたように思われた、晩年の雰囲気はもはや《ソナタ》におけるそれとおなじではなかった、楽節の問いかけは、晩年になると、いっそう切迫し、いっそう不安げで、それを受ける答はいっそう神秘的だった、朝夕の水気をおびた空気が、楽器の弦にまで影響しているように思われるのであった。モレルは絶妙に弾きこなしていたがまだ十分ではかった、彼のヴァイオリンが発している音は私には異様に鋭く、ほとんどさけび声のように思われた。そのきつい音も耳ざわりではなく、人はそこに、たとえば声楽でのように、一種の精神的な長所、知的な才能を感じたであろう。しかしそれは人を不快にするものでもあった。宇宙への視野が改変され、純化され、内面の祖国への回想に一段と精妙に適合するようになるとき、音楽家にあっては音響の、おなじくまた画家にあっては色彩の、全般的変質となってそれがあらわれてくるのは至極当然である。それにまた、きわめて聡明な聴衆が、それを見あやまるころはない、その証拠に、のちになって人々はヴァントゥイユでは晩年の作品が一番深いと言明することになったからである。ところで、はじめはどんなプログラムも、どんな主題も、判断の知的材料を提供してはいなかった。だから、人々が推察していたのは、何か深いものが、音(おん)の世界に転置されていたのだろうという程度だったのである。この失われた祖国、それを音楽家たちは自分に思いださない、しかし彼らの各自がつねに無意識のうちにこの祖国とはある種の斉唱(ユニゾン)をなしてつながっているのである、その各自が自分の祖国にあわせてうたうとき、彼は歓喜で熱狂し、ときには、栄光への愛に駆られて祖国をうらぎる、しかしそんなとき、彼は栄光を求めることによって栄光からのがれる、そして栄光を軽蔑することによってのみ彼は栄光を見出すのである、そのとき彼はあの特異な歌をうたいだすのであり、その歌の同一調(モノトニー)はーーーというのも、とりあつかわれる主題がなんであろうと、彼は自己と同一のものにとどまるからでーーーその音楽家にあって彼の魂を構成する諸要素が確固不変であることを証明しているのである。しかしそんなとき、その諸要素にあたるもの、すなわちわれわれが自分自身のためにたいせつに残さなくてはならない現実の残留物、われわれが友人から友人へ、師から弟子へ、恋する男から女への会話では、とうていつたえることができないあの残留物、自分の感じたものから質的に選別されながらも各人が章句の入口で置きさらなくてはならない、あの言葉には言いあらわしがたいものというのも万人に共通したなんの興味もない外部の地点に自分を限定してでなくては各人は章句のなかで他人とコミュニケーションを保つことはできないからでーーーしかしそんなとき、そういう現実の残留物のすべて、そういう言葉には言いあらわしがたいものを、芸術は、エルスチールの芸術と同様にヴァントゥイユの芸術は、われわれが個人の世界と呼んでも芸術なくしてはけっしてわれわれに知られないであろうあの世界の、内的構造を、スペクトルの色のなかに顕在化することで、出現させるのではないだろうか?つばさ、ーーーそれもまた一種の呼吸器であり、それでわれわれは広大な空間を横切ることができるかもしれないが、だからといってわれわれにはなんの役にも立たないだろう、なぜなら、たとえわれわれが火星や金星に行ったとしても、おなじ感覚をもちつづけているならば、そこでわれわれが見るであろうすべてのものにわれわれの感覚は地球の事物とおなじ外観をまとわせるであろうからである。唯一の真の旅、唯一の《若がえりの泉》の水浴行は、新しい風景へのいでたちではなくて、多くの他の目をもつことであるだろう、他者の目、百の他者の目をもって宇宙を見ること、彼らのおのおのが見、彼らのおのおのが存在している百の宇宙を見ることであるだろう、そしてそのことは、一人のエルスチール、一人のヴァントゥイユ、またそのたぐいの人たちをもつことで、われわれに可能なのである、われわれはほんとうに星から星へと飛行するのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・P.448~451」ちくま文庫)
永劫回帰は、同一の場面が回帰することではなくて、同じものとしては二度と出現しないような生に対する絶対的肯定を述べたものだ。それはいつも微細な差異を伴っている。八つ裂きにされたディオニュソスが蘇ってくるわけだが、八つ裂きにされた諸部分はどうなったのか。それは八つ裂きに分裂し、八つ裂きのままで、分裂したそれぞれが変奏曲として変身=変態したのである。
「そうこうするうちに、ふたたびはじめられていた七重奏曲は、もうおわりに近づいていた、例の《ソナタ》の一楽節が何度もあれこれと立ちかえってくるのだが、しかしそのたびにリズムと伴奏とがちがっていて、それが変わったふうにきこえるのは、人生において何度も立ちかえる事物に似て、楽節はおなじでありながら、しかもちがっているからだった、それはたとえばつぎのような楽節の一つなのだった、すなわち、われわれにはよくわからない一種の親和力のようなものによって、ある作曲家の過去を自分の唯一の必然的な住みかと定められているような楽節、だからこそそれはその作曲家の作品のなかにしか見出されないが、そのかわりに、その作曲家の作品にはたえずきまったようにあらわれる、いわば彼の作品の森に住む仙女、森の女精であり、作品の内部をつかさどる神性であって、私は最初七重奏曲のなかにそれの二つか三つを認め、それが私に《ソナタ》を思いださせることになったのであった。やがて私は《ソナタ》のまたべつのもう一つの楽節が、立ちのぼる薄むらさきの霧のなかにひたされているのを認めたーーーヴァントゥイユの作品の最終段階ではとりわけそんな霧がよく立ちのぼるので、彼がそこに部分的に何かダンスのリズムのようなものをとりいれるときでも、そのリズムは一種のオパールの色のなかにとじこめられてしまうのであったーーー認めたといっても、その楽節はまだずっと遠くのほうにとどまっていて、はっきりそれとは見わけられないほどであった、それはためらいながら近づいた、と思うとおびえたように姿を消した、ついでふたたび立ちもどった、立ちもどると他の楽節に(あとで私が知ったところでは他の作品からやってきたらしい他の楽節に)からみつき、またべつの楽節を呼びよせた、そのべつの楽節は、ひとたびそこになじむと、こんどはまた他をひきつけ、他をおびきよせるものになるのだった、そんなふうにして、それらの楽節は聖なるロンドのなかにはいっていった、聖なるロンドといっても、聴衆にの大部分には、そのロンドはまだはっきりと見わけられないままで、彼らの目のまえには、ただぼんやりしたヴェールがかかっているだけだった、それを通してその先は何も見えず、彼らはいまにも死にそうに思われるやりきれなさのつづくなかで、ひとり勝手な感嘆のさけびをぽつりぽつりともらしていた。ついでそれらの楽節は遠ざかった、ただ一つだけ五回か六回ほど行きつもどりつするのを私が見た楽節をのぞいては、といっても私はその楽節の顔つきを見ることができたわけではなかった、しかしそれはこれまでにどんな女が私にかきたてた欲望からもかけはなれた、いかにもやさしく愛撫してくれるようなーーースワンにとって《ソナタ》の小楽節がたぶんそうであったろうと思われるようなーーーそんな存在なのだ、したがってその楽節こそはおそらくーーーつかむだけの十分な価値をもったある幸福をやさしい声で私にさしだしていた、その楽節こそはおそらくーーーその顔も私には見えず、その言葉も私には通じないのに、その気持が私にはじつによく理解される女であり、これまでにどこかで出会う機会があたえられていたにちがいない唯一の《未知の女》なのであろう」(プルースト「失われた時を求めて8・P.453~455」ちくま文庫)
ドゥルーズ&ガタリから。
「あらゆる創造は、一つの世界を表象する義務から自由になった、いわば突然変異性の抽象線だ。創造とは、新しいタイプの現実をアレンジする行為にほかならない」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.285」河出文庫)
少しばかり補足しておこう。「抽象線」とある。たとえばドゥルーズが受けている「抽象的」という非難。ここでも「抽象」という言語が使用されている。文章の難解さは確かにあるとはいえ、「抽象」という言語使用自体も、またそういう非難に晒される要因かもしれない。頭の中で考えただけに過ぎない抽象的表現だと映ってしまうのだろう。けれども、たとえば頭の中で「3+2=5」と暗算したとしよう。その行為は抽象的だろうか。「3+2=5」は頭の中だけで考えた暗算に過ぎないのだが、しかし誰も抽象的だと言って非難したりはしない。むしろ現実的だ。にもかかわらずなぜドゥルーズの文章になると途端にイメージの世界に過ぎないなどとレッテル貼りされてしまうのか。不可解ではある。そうしたわけで今しがた上げたドゥルーズ&ガタリの言葉をニーチェに置き換えると随分わかりやすくなりはしないだろうか、とおもう。
ニーチェはいう。考え過ぎていると何もできない。ときどきは忘却=睡眠することが大事だと。新しく「開始する」ために。
「非歴史的なものはものを被う雰囲気に似ており、この雰囲気のうちでのみ生はみずからを産み、したがってそれが否定されると同時に生も再び消え失せる。人間が考え、篤(とく)と考え、比較し、分離し、結合して、あの非歴史的要素を制限することによって初めて、あの取り巻く蒸気の雲の内部に明るく閃(ひら)めく一条の光が発生することによって初めて、ーーーしたがって、過ぎ去ったものを生のために使用し、また出来事をもとにして歴史を作成する力によって初めて、人間は人間となる。これに間違いない、しかし歴史が過剰になると人間は再び人間であることをやめるのであり、人間は非歴史的なもののあの被いがなければ、開始することを決してしなかったであろうし、また現に開始することを敢えてしないであろう。人間が前もってあの蒸気層に入り込んでおらずに、なすことの可能な行動がどこに見いだされるであろうか?」(ニーチェ「反時代的考察・P.127~128」ちくま学芸文庫)
なお、「エチカ」は一六七七年出版。日本でいう延宝五年。フランスによるオランダ侵略戦争。ホーエンツォレルン家フリードリヒ二世による絶対王政。清朝=康煕帝時代。大老酒井忠清政権から徳川綱吉の文治政治へ。ジャガタラお春。
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この文章については、スピノザとの関わりなしに、ニーチェが次のように述べている部分を参照しておこう。「一般的観念と一致するような型」とはどのような「型」なのか。「物」について人間は何を「認識」しているのか。
「個別的なものを《無視する》ということが、われわれが概念をもつことの原因なのであり、これとともにわれわれの認識は始まるのである。すなわち、《標題づけ》において、《諸々の類》の提示において、われわれの認識は始まるのである。だが、こうしたものに、事物の本質は対応してはいない。それは認識過程ではあるが、事物の本質を射当ててはいないのである。多くの個別的特徴が、われわれに一つの事物を規定してくれるが、すべてのものを規定してはくれない。こうした特徴の同等性が機縁となって、われわれは多くの事物を一つの概念の下に統括するようになる」(ニーチェ「哲学者の書・P.319」ちくま学芸文庫)
「すなわち、それは《間違った等置》なのである。言いかえれば、《総合的推論とは、非論理的なものなのである》。われわれがそれを用いるときには、われわれは、通俗的な形而上学を、つまり、結果を原因と見なすような形而上学を、前提しているのである。『鉛筆』という概念が、鉛筆という『事物』と混同されるのである。総合判断における『である』ということは、誤りであり、それは一つの転用を内包しており、元来等置などが起こり得ないような二つの異なった領域が、相互に並列しておかれるのである。われわれはもっぱら、《非論理的なものの》影響下に、無知と誤知との中に、生きて、思考しているのである」(ニーチェ「哲学者の書・P.321」ちくま学芸文庫)
「すべて語というものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、ただちにそうなるのである、つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験に対して、何か記憶というようなものとして役立つべきだとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合にも同時に当てはまるものでなければならないとされることによって、なのである。すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生するのである。一枚の木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性を任意に脱落させ、種々の相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには『木の葉』そのものとでも言いうるような何かが存在するかのような概念を呼びおこすのである」(ニーチェ「哲学者の書・P.352~353」ちくま学芸文庫)
さて、プルーストは音楽について述べているが、音楽の何について述べているのか。音楽そのものというより、むしろ変奏ということについて述べているのではないだろうか。絵画もまたそうだ。
「というのもエルスチールは、一つの花をながめるにしても、その花をまずわれわれの内心の庭、われわれがつねにそこにとどまらざるをえない内心の庭に移しながらでなくては、それをながめることができなかったからである。彼はこの水彩画のなかで、彼が見たばら、そして彼がいなければ人がけっして知ることのなかったばら、そんなばらの幻をわれわれの目に見せてくれたのであった、したがってそのばらは、この画家が、天才的な園芸家とおなじように、《ばら》という家系をゆたかにして出現させた、新しい一つの変種だということができるだろう」(プルースト「失われた時を求めて7・P.166」ちくま文庫)
ここでは家系が《ばら》に《なる》。そして音楽へ行こう。
「音楽は、私が私自身の内部に降下して、そこに新しいものを発見することをたすけてくれる、すなわち、私が実人生や旅のなかに空しくさがし求めた多様なものを私自身の内部にあらたに発見することをたすけてくれるのだ。空しくさがし求めた多様なもの、しかしながら、いまやそれらの多様なものへのノスタルジーが、日に照らされた波がしらを私の足もとにくだけさせているこの音響の波によって、私のなかにもたらされているのであった。二重化された多様性である」(プルースト「失われた時を求めて8・P.273」ちくま文庫)
生成変化は変奏曲として、あるいは間奏曲として、捉えることができる。「一幅の絵画」と「一つの変奏曲としての音楽」とは置き換え可能でもある。
「芸術家は、そのようにして、その一人一人が、ある未知の祖国に生まれついた人間であるように思われる。彼は自分でその祖国を忘れてしまった、しかもその祖国は、今後べつの一人の大芸術家がそこから出てきて、大陸を求めて出帆する、ということもまったくない祖国なのだ。あえていえば、ヴァントゥイユは、その晩年の諸作品のなかで、そのような祖国に近づいていたように思われた、晩年の雰囲気はもはや《ソナタ》におけるそれとおなじではなかった、楽節の問いかけは、晩年になると、いっそう切迫し、いっそう不安げで、それを受ける答はいっそう神秘的だった、朝夕の水気をおびた空気が、楽器の弦にまで影響しているように思われるのであった。モレルは絶妙に弾きこなしていたがまだ十分ではかった、彼のヴァイオリンが発している音は私には異様に鋭く、ほとんどさけび声のように思われた。そのきつい音も耳ざわりではなく、人はそこに、たとえば声楽でのように、一種の精神的な長所、知的な才能を感じたであろう。しかしそれは人を不快にするものでもあった。宇宙への視野が改変され、純化され、内面の祖国への回想に一段と精妙に適合するようになるとき、音楽家にあっては音響の、おなじくまた画家にあっては色彩の、全般的変質となってそれがあらわれてくるのは至極当然である。それにまた、きわめて聡明な聴衆が、それを見あやまるころはない、その証拠に、のちになって人々はヴァントゥイユでは晩年の作品が一番深いと言明することになったからである。ところで、はじめはどんなプログラムも、どんな主題も、判断の知的材料を提供してはいなかった。だから、人々が推察していたのは、何か深いものが、音(おん)の世界に転置されていたのだろうという程度だったのである。この失われた祖国、それを音楽家たちは自分に思いださない、しかし彼らの各自がつねに無意識のうちにこの祖国とはある種の斉唱(ユニゾン)をなしてつながっているのである、その各自が自分の祖国にあわせてうたうとき、彼は歓喜で熱狂し、ときには、栄光への愛に駆られて祖国をうらぎる、しかしそんなとき、彼は栄光を求めることによって栄光からのがれる、そして栄光を軽蔑することによってのみ彼は栄光を見出すのである、そのとき彼はあの特異な歌をうたいだすのであり、その歌の同一調(モノトニー)はーーーというのも、とりあつかわれる主題がなんであろうと、彼は自己と同一のものにとどまるからでーーーその音楽家にあって彼の魂を構成する諸要素が確固不変であることを証明しているのである。しかしそんなとき、その諸要素にあたるもの、すなわちわれわれが自分自身のためにたいせつに残さなくてはならない現実の残留物、われわれが友人から友人へ、師から弟子へ、恋する男から女への会話では、とうていつたえることができないあの残留物、自分の感じたものから質的に選別されながらも各人が章句の入口で置きさらなくてはならない、あの言葉には言いあらわしがたいものというのも万人に共通したなんの興味もない外部の地点に自分を限定してでなくては各人は章句のなかで他人とコミュニケーションを保つことはできないからでーーーしかしそんなとき、そういう現実の残留物のすべて、そういう言葉には言いあらわしがたいものを、芸術は、エルスチールの芸術と同様にヴァントゥイユの芸術は、われわれが個人の世界と呼んでも芸術なくしてはけっしてわれわれに知られないであろうあの世界の、内的構造を、スペクトルの色のなかに顕在化することで、出現させるのではないだろうか?つばさ、ーーーそれもまた一種の呼吸器であり、それでわれわれは広大な空間を横切ることができるかもしれないが、だからといってわれわれにはなんの役にも立たないだろう、なぜなら、たとえわれわれが火星や金星に行ったとしても、おなじ感覚をもちつづけているならば、そこでわれわれが見るであろうすべてのものにわれわれの感覚は地球の事物とおなじ外観をまとわせるであろうからである。唯一の真の旅、唯一の《若がえりの泉》の水浴行は、新しい風景へのいでたちではなくて、多くの他の目をもつことであるだろう、他者の目、百の他者の目をもって宇宙を見ること、彼らのおのおのが見、彼らのおのおのが存在している百の宇宙を見ることであるだろう、そしてそのことは、一人のエルスチール、一人のヴァントゥイユ、またそのたぐいの人たちをもつことで、われわれに可能なのである、われわれはほんとうに星から星へと飛行するのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・P.448~451」ちくま文庫)
永劫回帰は、同一の場面が回帰することではなくて、同じものとしては二度と出現しないような生に対する絶対的肯定を述べたものだ。それはいつも微細な差異を伴っている。八つ裂きにされたディオニュソスが蘇ってくるわけだが、八つ裂きにされた諸部分はどうなったのか。それは八つ裂きに分裂し、八つ裂きのままで、分裂したそれぞれが変奏曲として変身=変態したのである。
「そうこうするうちに、ふたたびはじめられていた七重奏曲は、もうおわりに近づいていた、例の《ソナタ》の一楽節が何度もあれこれと立ちかえってくるのだが、しかしそのたびにリズムと伴奏とがちがっていて、それが変わったふうにきこえるのは、人生において何度も立ちかえる事物に似て、楽節はおなじでありながら、しかもちがっているからだった、それはたとえばつぎのような楽節の一つなのだった、すなわち、われわれにはよくわからない一種の親和力のようなものによって、ある作曲家の過去を自分の唯一の必然的な住みかと定められているような楽節、だからこそそれはその作曲家の作品のなかにしか見出されないが、そのかわりに、その作曲家の作品にはたえずきまったようにあらわれる、いわば彼の作品の森に住む仙女、森の女精であり、作品の内部をつかさどる神性であって、私は最初七重奏曲のなかにそれの二つか三つを認め、それが私に《ソナタ》を思いださせることになったのであった。やがて私は《ソナタ》のまたべつのもう一つの楽節が、立ちのぼる薄むらさきの霧のなかにひたされているのを認めたーーーヴァントゥイユの作品の最終段階ではとりわけそんな霧がよく立ちのぼるので、彼がそこに部分的に何かダンスのリズムのようなものをとりいれるときでも、そのリズムは一種のオパールの色のなかにとじこめられてしまうのであったーーー認めたといっても、その楽節はまだずっと遠くのほうにとどまっていて、はっきりそれとは見わけられないほどであった、それはためらいながら近づいた、と思うとおびえたように姿を消した、ついでふたたび立ちもどった、立ちもどると他の楽節に(あとで私が知ったところでは他の作品からやってきたらしい他の楽節に)からみつき、またべつの楽節を呼びよせた、そのべつの楽節は、ひとたびそこになじむと、こんどはまた他をひきつけ、他をおびきよせるものになるのだった、そんなふうにして、それらの楽節は聖なるロンドのなかにはいっていった、聖なるロンドといっても、聴衆にの大部分には、そのロンドはまだはっきりと見わけられないままで、彼らの目のまえには、ただぼんやりしたヴェールがかかっているだけだった、それを通してその先は何も見えず、彼らはいまにも死にそうに思われるやりきれなさのつづくなかで、ひとり勝手な感嘆のさけびをぽつりぽつりともらしていた。ついでそれらの楽節は遠ざかった、ただ一つだけ五回か六回ほど行きつもどりつするのを私が見た楽節をのぞいては、といっても私はその楽節の顔つきを見ることができたわけではなかった、しかしそれはこれまでにどんな女が私にかきたてた欲望からもかけはなれた、いかにもやさしく愛撫してくれるようなーーースワンにとって《ソナタ》の小楽節がたぶんそうであったろうと思われるようなーーーそんな存在なのだ、したがってその楽節こそはおそらくーーーつかむだけの十分な価値をもったある幸福をやさしい声で私にさしだしていた、その楽節こそはおそらくーーーその顔も私には見えず、その言葉も私には通じないのに、その気持が私にはじつによく理解される女であり、これまでにどこかで出会う機会があたえられていたにちがいない唯一の《未知の女》なのであろう」(プルースト「失われた時を求めて8・P.453~455」ちくま文庫)
ドゥルーズ&ガタリから。
「あらゆる創造は、一つの世界を表象する義務から自由になった、いわば突然変異性の抽象線だ。創造とは、新しいタイプの現実をアレンジする行為にほかならない」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.285」河出文庫)
少しばかり補足しておこう。「抽象線」とある。たとえばドゥルーズが受けている「抽象的」という非難。ここでも「抽象」という言語が使用されている。文章の難解さは確かにあるとはいえ、「抽象」という言語使用自体も、またそういう非難に晒される要因かもしれない。頭の中で考えただけに過ぎない抽象的表現だと映ってしまうのだろう。けれども、たとえば頭の中で「3+2=5」と暗算したとしよう。その行為は抽象的だろうか。「3+2=5」は頭の中だけで考えた暗算に過ぎないのだが、しかし誰も抽象的だと言って非難したりはしない。むしろ現実的だ。にもかかわらずなぜドゥルーズの文章になると途端にイメージの世界に過ぎないなどとレッテル貼りされてしまうのか。不可解ではある。そうしたわけで今しがた上げたドゥルーズ&ガタリの言葉をニーチェに置き換えると随分わかりやすくなりはしないだろうか、とおもう。
ニーチェはいう。考え過ぎていると何もできない。ときどきは忘却=睡眠することが大事だと。新しく「開始する」ために。
「非歴史的なものはものを被う雰囲気に似ており、この雰囲気のうちでのみ生はみずからを産み、したがってそれが否定されると同時に生も再び消え失せる。人間が考え、篤(とく)と考え、比較し、分離し、結合して、あの非歴史的要素を制限することによって初めて、あの取り巻く蒸気の雲の内部に明るく閃(ひら)めく一条の光が発生することによって初めて、ーーーしたがって、過ぎ去ったものを生のために使用し、また出来事をもとにして歴史を作成する力によって初めて、人間は人間となる。これに間違いない、しかし歴史が過剰になると人間は再び人間であることをやめるのであり、人間は非歴史的なもののあの被いがなければ、開始することを決してしなかったであろうし、また現に開始することを敢えてしないであろう。人間が前もってあの蒸気層に入り込んでおらずに、なすことの可能な行動がどこに見いだされるであろうか?」(ニーチェ「反時代的考察・P.127~128」ちくま学芸文庫)
なお、「エチカ」は一六七七年出版。日本でいう延宝五年。フランスによるオランダ侵略戦争。ホーエンツォレルン家フリードリヒ二世による絶対王政。清朝=康煕帝時代。大老酒井忠清政権から徳川綱吉の文治政治へ。ジャガタラお春。
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