白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

「言語ゲーム」と生成変化6

2019年02月06日 | 日記・エッセイ・コラム
混乱に陥る「言語ゲーム」は果たして「言語ゲーム」なのだろうか。それとも混乱に問題があるのか。

「この国の人たちが通常の人間的な諸活動を行ない、その際に文節言語と思われるものを用いている、と想像してみよう。かれらの行動を見ていると、理解できるし、われわれにとっては<論理的>であるように見える。ところが、われわれがかれらの言語を学習しようとすると、そのようなことは不可能であることが判明する。すなわち、かれらの場合には話されたこと、〔すなわち〕音声と、行動との間に規則正しい連環が成り立っていないのである。しかし、それにもかかわらず、それらの音声は余分なものではない。なぜなら、たとえばこの人たちのひとりに猿ぐつわをはめたりすると、それがわれわれの場合と同じ効果をもたらすからである。その音声がないと、かれらの行動は混乱におちいるーーーとわたくしは表現したい。われわれは、この人たちが言語をもっている、つまり命令やら報告やらを行なっている、と言うべきであろうか。われわれが『言語』と呼んでいるものには規則性がたりない」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・二〇七」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.164~165』大修館書店)

もっと多数の規則が、ではなく、「規則性」がたりない、ということ。もし仮に「規則性」がたりている場合、言語Aの使用者と言語Bの使用者との間では問題なく理解し合えることになるのだろうか。理解し合うことが可能だと理解できれば、その場合、両者は互いに互いの言語の「規則性」を習熟したと言うことができるのだろうか。だとすると、規則ではなく、「規則性」について習熟したというわけなのか。ならば、両者は互いの規則についてではなくて、「規則性」について思い及ぶべきだったのだろうか。しかしそれは一方が教える側に立ち、他方が学ぶ側に立つ、という契約が成立して始めて解決への方向性を探ることができる関係ではないだろうか。言語の規則と「規則性」との違いは、「教える/学ぶ」という不均等な関係の下で、「規則性がたりない」という要求として始めて発見されるような違いなのではないだろうか。

言語なしに人間はコミュニケーション不可能だ。しかしコミュニケーションには完全なコミュニケーションというものはなく、いつもすでにコミュニケーションは不完全でしかない。だからこそ、言語を必要とする。もし仮に完全なコミュニケーションというものが本当にあるとすれば、そのとき、言語は必要なくなるだろうからだ。言語が必要とされる限り、人間同士のコミュニケーションは常に、最もスムーズな場合でも、不完全性を免れることはできない。そういう事情を常に抱えている人間社会であるからこそ、「ノマド」という概念を発明するに至ったともいえる。

「ノマドがあれほど強く私たちの関心を引いたのはほかでもない、ノマドはそれ自体ひとつの生成変化であり、絶対に歴史の一部ではないからです。歴史から締め出されても変身という手段にうったえ、まるで別人のようになって再び姿を見せたかと思うと、まったく予想もつかなかった外観に隠れて、社会の領域をつらぬく逃走線に忍び込むあたりが、ノマドのノマドたるゆえんなのです」(ドゥルーズ「記号と事件・P.310」河出文庫)

そして「変身=分身」について語られるようになったのもまた当然だった。生成変化はニーチェから来た用語だ。そしてニーチェが「主体」という考え方に疑問を持ったように、ドゥルーズもまた「主体」という考え方に対して常に疑問を持っているのだが、後者ではより一層「主体」の変容=変態ということに重点が置かれているばかりか、むしろ「主体」は消えてしまって変化過程が凝視されているように見える。変化=変態は、人間がただ単なる「有機体」であることを疑問に付す。だからといって、「男」が「狼男」になるためには実在する「男性」と動物の「狼」の合体が必要になるわけでは決してない。そのようなことを言っているわけではまったくない。むしろ、実在する「男性」はその「識別不可能性のゾーン」に流れ込むことで「狼男」に《なる》のであって、何も人と動物の合体物としての「狼男」が実在すると言っているわけではない。ドゥルーズ&ガタリはもっと身近な例を上げて述べる。人間は一般的に生命力を持った人間の身体として生まれてくるが、性は、強調するとすれば、変身=分身への意志として生成変化する力としても生まれてくる。

「ロレンスやミラーなど、最も男性的で、男性至上主義のきわみといわれる作家たちもまた、女性の近傍域、もしくはその識別不可能性のゾーンに入る微粒子を受けとめ、放出し続けることになる。彼らは書くことによって女性に<なる>のだ。ここで問われるべきなのは、大がかりな二元的機械の内側で男性と女性を対立させる有機体や歴史や言表行為の主体ではない。というか、それだけが問題になっているのではない。ここではまず身体が、つまり二元的に対立する有機体を製造するためにわれわれから《盗まれる》身体が問題なのだ。ところが、まず最初に身体を盗まれるのは少女なのである。そんなにお行儀が悪いのは困ります、あなたはもう子供じゃないのよ。出来損ないの男の子じゃないのよーーー。最初に生成変化を盗まれ、一つの歴史や前史を押しつけられるのは少女なのだ。次は少年の番なのだが、少年は少女の例を見せつけられ、欲望の対象として少女を割り当てられることによって、少女とは正反対の有機体と、支配的な歴史を押しつけられる。つまり少女は最初の犠牲者でありながら、もう一方では模範と罠の役割を果たさなければならないということだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.242~243」河出文庫)

プルーストから引用したい。

「そして私の内部に相ついで刻々立ちあらわれる想像のアルベルチーヌの無限の系列」(プルースト「失われた時を求めて3・P.285」ちくま文庫)

次の文章では「欲望や想像力」が言語によって素早く加工され、魅力を失ってしまうことについて書かれている。

「こちらの名が紹介者の唇にのせられるとき、とりわけ紹介者が、エルスチーヌのやったように、こちらの名を賛辞をまじえた説明でつつむときーーーそんな秘蹟にもひとしい瞬間には、仙女物語で妖精がある人物に向かって突然他の人物になることを命じるあの瞬間のように──われわれが近づこうと望んだかつての相手の女は消えうせてしまう。まず第一に、どうして彼女が以前のままの彼女自身であることができよう?なぜならーーーその女が、こんどはわれわれの名前にたいして注意をはらわなくてはならず、われわれの身分にたいして心遣を示さなくてはならなくなったためにーーーきのうまで無限の距離に遠ざかっていたその女の目のなかに(そしてわれわれの目のほうは、あてどなくさまよい、乱れ、絶望し、焦点を失っていて、永久に交しあうこともあるまいと思われていたその女の目のなかに)、われわれ自身の像が、奇蹟的に、きわめて簡単に、あかるい鏡の奥に映るように、ぴたりとおさまって、これまでわれわれが相手に向かってさぐっていた一方的な視線とか通じあわない思考とかを追いだしてしまったからである。この上もなくわれわれから異なるように思われたものへの、そんなわれわれ自身の化肉は、われわれが紹介された直接の相手の人物を、著しく変えてしまうとしても、相手の形は、まだそのときは漠然としたままであって、その人物が、神になるのか、テーブルになるのか、それとも洗面器になるのか、よくわからないといぶかることもわれわれにはある。しかし、やがて未知の女がわれわれに向かっていう挨拶の数語は、見ている目のまえで五分のうちに胸像をつくりあげる蠟細工師のように、手早く、その女の形を明確にし、前夜までわれわれの欲望や想像力が寄りかかっていた仮定をことごとく排除してしまうほどの決定的な何物かを、その未知の女の上に加えるであろう」(プルースト「失われた時を求めて3・P.309~310」ちくま文庫)

ところが。

「それにまた、そんな言葉をつかって、一挙に現実化したからといって、アルベルチーヌが、もうこの最初の変身ののち、私にとってたびたび変化することはなくなる、というわけではない」(プルースト「失われた時を求めて3・P.311」ちくま文庫)

そしてそれは「それ自身で変化してい」く。

「いろいろ模索しながら、われわれは最初の視覚的錯誤を認めたのちに、はじめてある人の正確な認識に達することができるのであろう、ただし、そうした認識がはたして可能であるとすればである。しかしあいにくそれがなかなかそうは行かない、なぜなら、われわれがその人についてもつ視像が、つぎつぎと訂正されてゆくあいだに、その人は無生物ではないから、それ自身で変化してゆき、われわれがふたたびとらえたかと思うと、その人はもうつぎの点に移動し、こんどこそはより明瞭にその姿を見たと思っても、それはわれわれが以前につかんだ古い映像にすぎず、明瞭化に成功したと思われるものも、もはやその人を示すものではないからだ」(プルースト「失われた時を求めて3・P.312」ちくま文庫)

「私にたいする彼女らのありかたは、私がこうと思っていたものに一致したためしはまったくなく、次回の会合への期待は前回のときの期待に似るというよりも、むしろ今回の会話のなまなましく残るその回想に似ることになり、そんなふうに予想を許さない彼女らのありかたは、私の心にはげしい動揺を呼びさますのであって、そうなると、どんな散歩も、私が考えていた計画とはがらりと変わってしまうし、しかもそれは、私が部屋の孤独のなかで静かに頭に描くことができた方向ではまったくない、ということになるのがわかるだろう。そのように頭のなかで考えられていた方向は、私の心をかき乱していつまでも心のなかにひびいている会話の印象のためにまるで蜂の巣のように震動しながら私が帰ってくるときは、もう忘れられ、すてさられているのだ。どんな存在も、われわれがそれを見なくなれば、いったん滅びる、つぎにそれがふたたびあらわれるときは、それは新しい創造で、それまでのすべての創造とはちがっていないまでも、すくなくともその直前のものとはちがっている。ということは、そうした何回もの創造を支配しうる最小限の変化も、一元化ではなくて、二つにわかれるからである」(プルースト「失われた時を求めて3・P.384~385」ちくま文庫)

こうして「二つにわかれ」た瞬間、その一つ一つは別々のものへ生成変化している。「伸縮自在」でもある。それが語り手の欲望をさらに引っ張り出してくるわけだ。

「彼女らの顔は動くが、その動くうちにも、目鼻立が比較的固定しはじめて、そこから、貨幣にうちだされた肖像のようなものが、輪郭をぼかした、伸縮自在の大きさであらわれてくるようになって、私の欲望は、ますます官能を増しながら、彼女らのあいだをさまようのであった」(プルースト「失われた時を求めて3・P.430」ちくま文庫)

アルベルチーヌは実に様々で、「無数に変わる」。「その色、その形、その性格を変えるダンサーの姿のように、一つ一つちがってい」るのでなくてはならない。

「そうしたさまざまのアルベルチーヌは、投光機(プロジェクター)から出てくるライトの無数に変わるたわむれのままに、その色、その形、その性格を変えるダンサーの姿のように、一つ一つちがっていた」(プルースト「失われた時を求めて3・P.434」ちくま文庫)

次のセンテンスでアルベルチーヌは「多様な海」に《なる》。

「そのときの私次第で、私のまえにけっして同一の姿をあらわさなかったそのアルベルチーヌの一人一人を、ちがったふうにとりあげなくてはならなかっただろう、そんなさまざまのアルベルチーヌは、あの多様な海ーーー便宜上私は単数で海と呼んでいるのだが、じつはつぎつぎに変わってゆくあの多様な海ーーーに似ていたのであって、そんな多様な海のまえに、ほかでもないニンフのアルベルチーヌが、浮きだしているのであった」(プルースト「失われた時を求めて3・P.435」ちくま文庫)

さらに今度は増殖するアルベルチーヌ。ここでアルベルチーヌは「いくつもの顔をもった女神」に《なる》。

「私の唇をアルベルチーヌの頬に向けるその短い行程において私が目に見たのは、十人のアルベルチーヌなのだ、そしてこのたった一人の少女がいくつもの顔をもった女神のようになって、私が近づこうと試みると、このまえバルベックで最後に私が見た顔は、またべつの一つの顔にとってかわるのであった」(プルースト「失われた時を求めて5・P.98」ちくま文庫)

だいたいわかってきたかも知れない。ところでここ数ヶ月世間を騒がせているジェンダーをめぐる一連の差別発言(行為)について。もっときめ細かな議論があってよいと思っている。ないがしろにされてしまっている感が拭い切れない。三十年前はこうではなかった。むしろもっと丁寧であるべきはずだったし議論もその方向で進んでいくものだと考えていたのだが。なぜか昨今は逆にはなはだ残念な事態に陥っていると考えざるを得ない。少なくともここではプルーストの引用から引き出せるものを引き出しておく必要があると思われる。同性愛に関してなのだが、といっても、最もポピュラーなカテゴリーについてプルーストが述べている部分。第一に倒錯一般について。第二に男性の同性愛について。第三に女性の同性愛の様相について。

「すくなくともこの当時彼らの生活の矛盾から私が頭に描いた最初の理論によれば、そして、彼らのそんな矛盾が彼らのいまの生活の目先の幻影そのものによって彼らの視野から見えなくされていなかったとしたら、私の理論から出てくるものは何よりも強く彼らを悲嘆に陥れただろうーーー彼らは愛しながらも、その愛の可能性がほとんどとざされている恋人たちなのだ。ただその愛にかける希望によって、あのように多くの危険と孤独とに堪える力があたえられるが、愛の可能性はほとんどとざされている。というのも、女の要素をすこしももたないであろう男、倒錯者ではないであろう男、したがって彼らを愛することはありえないまさにそのような男に、彼らは強くひかれるのであるから。だから、彼らの欲望は永久に満たされないだろう、ーーー金銭によって真の男を手に入れないかぎりは、また、そのようにして買われた相手の倒錯者を、想像力によって真の男だと思いこむようになってしまわないかぎりは。彼らの名誉も、罪が発覚するまでの、はかない夢でしかなく、自由もかりそめのもの、地位も不安定なものでしかないことは、たとえば、前日ロンドンのすべての劇場で喝采され、すべてのサロンで歓迎されたのに、翌日はどこの家具つきの部屋からも追いたてられ、頭を休めるべき枕さえ見出すことができず、サムソンのように獄舎のなかで労役の臼をひき、またサムソンのように、男女二つの性は別々に死ぬだろう、とつぶやく詩人の場合と同一であるが、そのようにして彼らは、大きな不幸の日々、たとえばユダヤ人がドレフェスのまわりに集まったように、大部分の人々が犠牲者のまわりに集まる大きな不幸の日々を除けば、彼らの仲間の人々の同情からーーーときとしてはその社会からーーー除外さえされるのであって、鏡のなかに写しだされた彼らのありのままの姿を見るような嫌悪感を、そうした仲間の人々にあたえるのであり、この鏡は、もはや彼らを実物以上に見せないばかりか、彼らが自分たちのなかに認めたくなかったような欠点をもことごとく暴露し、彼らが自分たちの愛と呼んでいたものは(これまで詩、絵画、音楽、騎士道、苦行などが愛につけくわえてきたあらゆる社会的な意味を、彼らは言葉の洒落を弄して、自分たちの愛につけくわえていた)、彼らが選んだ美の理想から発しているのではなくて、なおらない一つの病気から出ているものであることを、彼らにさとらせるのである。そのようにして彼らは、さらにまたユダヤ人のように(ユダヤ人といっても、自分たちの種族の人間としか往来せず、つねに定式の用語や公認の冗談しか口にしない人たちを除いて)、たがいに同類者を避け、自分たちとはもっとも反対の、むしろ自分たちを好まない人々を求め、そんな人々の荒々しい排斥に腹を立てず、お世辞でもいわれると有頂天になってしまうことがある。しかしまた、急にはげしくなったオストラシスムのためにたがいに同類でもって集まりながら、その身に受けた汚辱が、イスラエルの迫害にも似た迫害によって、ついに一種族の肉体的、精神的性格をーーーときには美しいがしばしば醜悪な性格をーーーおびるにいたり、同類者とのそのような往来のなかに一種のくつろぎを見出し(反対の種族にもっと深くまじりあい、もっとよく同化し、ほとんど倒錯を脱したかに見える人間が、まだそれの強く残っている人間に浴びせかけるさまざまな嘲笑にもかかわらず)、またそのような生きかたのなかに一つのささえをさえ見出すにいたるのであって、その結果、彼らは、自分たちがある種族(その種族の名をいわれることは最大の侮辱なのだ)であることを否認しながらも、自分がその種族であることをうまくかくしている人々の仮面を、好んでひっぺがすのである。それはその人々を傷つけるためであるよりはーーー傷つけることもきらいではないがーーーむしろ自己弁護のためであり、そのようにして彼らは、医者が盲腸の疾患をさぐりあてるように、歴史のなかにまで倒錯者をさがし求めながら、同性愛が正常であった時代には異常者はいなかったこと、キリスト以前には反キリスト教徒はいなかったこと、汚辱だけが罪をつくりだすことを考えあわせないで、たとえばイスラエル人たちがキリストのことをユダヤ人であったといって得々とするように、ソクラテスが倒錯者の一人であったことに注意を喚起して、快楽を味わうのである。それというのも、同性愛は、一種独特の先天的な素質のために、どんな説教にも、どんな模範にも、どんな罰にもさからって生きる人間だけを存続させてきたからであって、そのような素質は、それとはちがった、たとえばぬすみとか、残忍性とか、不誠実とかいったほかの悪徳よりも以上に、他の人々には嫌悪される(もっとも、そのような素質が高い道徳性を伴うこともありうるのだが)、それにくらべて、ぬすみ、残忍性、不誠実などの悪徳のほうは、一般の人々によってよく理解され、したがって大目に見られてゆるされることが多い。そのようにして、そんな素質をもった彼らは、一つの秘密結社を形づくるのであるが、それはあのロージュと呼ばれる秘密集会所をもつフリーメースン団よりも、もっと広汎で、もっと能率的で、もっとあやしまれることがない、というのは、その結社は、もともと嗜好、欲求、習慣、危険、習練、知識、取引、語彙などの同一性にもとづいてつくられるものであるから、その会員たちは、たがいに知りあうことをねがわなくても、自然なまたは暗黙の合図、無意志的なまたは有意の合図で、ただちにそれと認めあうのであって、乞食が大貴族の車の扉をしめるときその大貴族のなかに自分の同類の一人を認めたり、娘の父親がその娘の婚約者のなかに自分の同類を認めたりするのも、自分の病気をなおしたい、告解をしたい、弁護してもらいたいと思った人間が、たのみに行った医者のなかに、司祭のなかに、弁護士のなかに、自分の同類を認めたりするのも、そんな合図によるのであり、そのようにして彼らはそれぞれ自分の秘密を守らなくてはならないが、しかしほかの人々があやしまないような相手のある秘密をさっと自分に感じとってしまう結果、まったく真実とは思われないような恋の波瀾を織りこんだ小説も、彼らには真実であるように思われる。というのは、そのような時代がかった、猟奇的な生活にあっては、大使が徒刑囚の友人であったり、大公が、公爵夫人のもとを辞したその足で、貴族の教育が身についた人間のーーーびくびく者の小ブルジョワにはまねのできないーーー闊達なあゆみをはこびながら、さかり場へ無頼漢とひざをまじえに出かけていったりするからであるが、そうした彼らは、人間集団にあって、神に見はなされた一部分であっても、けっして見すごすわけには行かない部分であって、意外にもそれは存在しないように思われるところに存在し、まさかと思われるところに、罰せられずに、大胆に、のさばりかえっている。そのようにしていたるところに、民衆のなかに、軍隊のなかに、神殿のなかに、徒刑場のなかに、王座のなかに、その加盟者を擁しているのであって、そうした彼らは、要するに、すくなくともその大部分は、他の種族の人たちと、なれなれしい、危険な親睦のなかに生きながら、その人たちに挑発的なことを言い、その人たちをつかまえて、自分の悪徳を、あたかもそれが自分のものではないかのようにたわむれに話すのだが、そのたわむれは、話相手の盲目または頬かぶりによって、たやすく受けいれられてしまい、破廉恥が発覚して、その危険な調教師が猛獣に食われて身を滅ぼす日まで、数年にわたってつづけられることもある。そしてそれまでのあいだ、彼らは、その生活をかくさなくてはならず、自分たちが目をすえたいところから目をそらし、目をそらしたいところに目をすえなくてはならず、つかう語彙のなかで多くの形容詞の性を変えなくてはならない。そういう社会的拘束は、しかし外的なもので、彼らの悪徳ーーー不適当にもそう呼ばれるものーーーが、重い力でもって、他の人たちにでなく彼ら自身に加えている内的な拘束にくらべると、まだしも軽いものであって、軽いものであるから、彼らには一つの悪徳とは見えないのである」(プルースト「失われた時を求めて6・P.31~35」ちくま文庫)

「くらげ!蘭!たとえば私は、自分の本能にしたがうだけで何も深く知らなかったあいだは、バルベックの海岸で見かけるくらげが、ただ気味わるいだけであった。しかし、ミシュレのように、博物学や美学の見地からくらげをながめることを知るようになると、まるでコバルト・ブルーのまわり花火のようになんともいえない美しさに見えた。透明なビロードの花びらをそなえて、くらげは、まるでモーヴ色の海の蘭ではないか?動植物界の多くの生きもののように、またヴァニラ・エッセンスを分泌する植物のように、シャルリュス氏という人は特異な人種であった。といってもこのヴァニラという植物は、その花の内部で、雄の器官が雌の器官から一つの子房の仕切でへだてられているので、蜂鳥か小さな蜂の類が花粉をはこんで異株交配してくれるか、人間が人工的に受精させるかしないと、受精しないのだが、シャルリュス氏は(この人の場合、受精という語は、精神的な意味にとられなくてはならない、なぜなら、肉体的な意味では、雄と雄との合体は、受胎にいたらないのだから、しかし、ある人間が、自分に味わいうる唯一の快楽に出会うことができるという点、そして『この世ではどんな存在も』、誰かに『おのれの音楽、情炎、または芳香を』あたえることができるという点は、等閑(なおざり)にすべき問題ではないのである)、そんなシャルリュス氏は、異例と呼ばれるにふさわしい人間の一人であった。というのも、性的欲求の満足が、他の人間にあっては、それがいくら多人数であっても、きわめて容易であるのにひきかえ、彼のような人間にあっては、あまりにも多くの条件の偶然の一致にかかっていて、しかもその偶然に出会うのがあまりにも困難だからだ。相互の愛というものは、一般の人たちにあってさえ非常に大きな、ときには越えがたいほどの困難に出会うのだから、ましてやシャルリュス氏のような人たちにとっては(快楽の欲求を不承不承にあきらめることによって強いられる妥協がこれからあとに徐々に目に立ってくるだろうし、それはすでにわれわれが気づいたことでもあるが、そういう妥協をしばらく保留するとしても)、相互の愛は、きわめて特殊な困難を増してくるので、普通の人間に平生きわめてまれならば、彼のような人たちにたいしては、ほとんど不可能に近いということになる。したがって、もしほんとうにめぐまれた幸運な出会が実現するか、または自然がその出会をそんなふうに幸運に見えるようにするとき、彼らの幸福は、正常な恋人の幸福よりもはるかにすぐれた、何か非凡なもの、選ばれたもの、必然性に深く根ざしたものになるのである。カピュレット家とモンタギュー家とのにくしみなどは、元チョッキ仕立の職人が、おとなしく自分のつとめ先へ出かけようとして、腹が突きでた五十男にばったり出会い、眩惑され、よろめくという機会がくるまでに、克服されたあらゆる種類の障害や、愛を招来するたぐいまれな偶然をさらに自然がふるいにかけた特殊選考の難関にくらべれば、物の数ではなかったのである。だからこのロミオとジュリエットとは、二人の愛が一時の気まぐれではないことを、当然信じてうたがいえず、また自分たちの愛は、二人の気質の調和によって予定されていた真の救霊であって、それは単に自分たち自身の気質によって予定されていただけではなく、自分たちの先祖の気質によって、さらには自分たちのもっと遠くにさかのぼる遺伝によって予定されていたのであって、二人を合体する要素は、出生以前から二人に属していたのであり、われわれの前世が過ごされてきたもろもろの世界を動かしている力とおなじようなある力によって、二人をひきつけてきたことを、信じてうたがいえないのである。これより先に、すでにシャルリュス氏は、一種の奇蹟とも呼ぶことができるほど起こりそうにない偶然のおかげでしかもたらされる機会のなかった、あんなに長く待たされた花粉を、蘭の花にはこんできたのは、まるはな蜂であったかどうかを見とどける注意を、私からそらせてしまった。しかし、私がいましがたその場に立ちあった事柄もまた一つの奇蹟であった。ほとんどおなじ種類の、まさるとも劣らない、ふしぎな奇蹟であった。そんな見地から二人の出会を考えるようになったとたんに、すべては私にとって美の刻印を打たれているように思われた」(プルースト「失われた時を求めて6・P.51~53」ちくま文庫)

「レアの名が私を嫉妬深くさせ、カジノで二人の若い娘のそばにいるアルベルチーヌの映像を私に思いうかべさせてしまったのだ。というのも、私は記憶のなかに、幾組かのアルベルチーヌを、たがいに切りはなされた不完全なままでしか所有していず、それはばらばらな横顔であったり、スナップであったりしたからであった、だから、私の嫉妬も、逃げさりやすくもあり固定されてもいる連続性のない表情と、そんな表情をアルベルチーヌの顔立にもたらした相手の人間たちとにかぎられていたのである。私は思いだすのだった、バルベックで、彼女がその二人の若い娘やその種の女たちから適度にじろじろながめられていたときの顔を、ーーー私は思いだすのだった、その顔が、まるでクロッキーを描こうとする画家の視線のように活溌に動く視線でなでまわされているのを見ながら、私が感じた苦しみを、その顔は、そんな視線によってすっぽりと被われていたのに、たぶん私がその場にいたからであろう、その視線に気づいているようすは見せずに、おそらく内心はひそかに受身の官能を味わいながら、そのまま視線の接触を受けているのであった。彼女がすぐ気をとりなおして私に話しかけるその寸前に、つぎのような一瞬があった、彼女はそのあいだじっと動かず、空(くう)を見てほほえんでいるのである。そのようすは、あたかも人が自分の写真をとらせているとき、またはカメラのまえでもっと颯爽としたポーズをとるために、自然らしく見せかけ、快感をかくす、あのようすであった、ーーードンシエールで私たちがサン=ルーといっしょに散歩をしていたときに、彼女がとったポーズもちょうどそれであって、にこにこ笑いながら、彼女はその唇を舌でなめ、犬をからかっているようなそぶりをしていた。たしかに、それらの場合における彼女は、通りがかりの娘たちに興味をひかれるときの彼女とは、まるで同一人ではなかった。通りがかりの女に興味をひかれる場合は、逆に、張りつめた、ビロードの感触をもった、彼女の視線が、その通りかかった女の上に固定され、貼りつくのであって、あまりにぴったりとくっつき、あまりに食い入るので、その視線をひきはなすときに、皮膚までもぎとってゆくだろうと思われるほどだった。しかもそんなとき、すくなくとも彼女に何か真剣なようすをあたえ、内心苦しんでいることをあらわすそんな視線のほうが、例の二人の若い娘のそばに彼女がいるときの無表情で安堵したような視線にくらべて、かえって私には抵抗なくおだやかに受けとれたのであって、そういう私には、相手に欲望をかきたてたときに彼女が浮かべているにこやかな表情よりも、彼女がときどき感じるらしい欲望を内にひそめた暗い表情のほうが、むしろ好ましかったであろう。相手に欲望をかきたてているという意識を被いかくそうとしても、彼女には徒労であって、その意識は、おぼろげに、官能的に、彼女をひたし、彼女をつつんで、彼女の顔をすっぽりばら色に見せるのだ。しかし、そのようなときに、彼女が内心で食いとめていても、彼女の顔のまわりをぽっと染めていて、私をひどく気がかりにする、そういうすべてのものを、私がその場にいないところでも、彼女はかくしつづけるかどうか、二人の若い娘に言いよられれば、私がそばについていないいまは、彼女は大胆に応じるのではなかろうか?たしかに、右に述べたような回想は、私に大きな苦痛をひきおこすのであった、それらの回想は、アルベルチーヌのかくされた好みを全部告げているし、彼女の不実さをすっかりさらけだしているともいえるのであって、そういうものにくらべると、私が進んで信じようとしていたアルベルチーヌの個々の誓や、私の不完全な調査の否定的な結果や、もしかするとアルベルチーヌとなれあいでなされたかもしれぬアンドレの保証などは、なんの値打もないだろう。アルベルチーヌは、彼女の個々のうらぎりをいくら私に否定しても、反対の申立以上に有力なうっかりもらす不用意な言葉から、また個々の事実以上に雄弁な例の視線からだけでも、かくしたがっていること、是認するよりはむしろ殺されたいと思っていること、すなわち彼女の内的傾向を、もらしていたのであった」(プルースト「失われた時を求めて8・P.255~257」ちくま文庫)

これら三箇所から引き出せる事象は今なお大変多いだろうと思われる。もし気づかなかったとしても直ちに読者として安易ということにはならないと思うけれども、だがしかし、何もわざわざ本から学ばなければならないという法律があるわけではなく、逆にもし仮に法律があったからといってもその法律が何をどのように教えてくれるかなどてんでわからない。おそらく、法以前の「自然」ということを考えなくてはいけないだろう。感じられるようでなければなかなか理解しにくいかも知れない。人間はもともと「多形倒錯型」だとフロイトは見抜き公言してもいた。倒錯している状態がむしろ常態なのであり、十九〜二十世紀頃には正常とされて疑われなくなっていた状態こそ逆に異常なのだ、と。相対的にヘテロ・セクシャルが多いという数の大小によって淘汰の圧力が掛かり続けた結果、性的様態のありかたが、ヘテロ・セクシャルが「多い」=ヘテロ・セクシャルが「正しい」とされたのだろう。ヘーゲルのいう「量から質への転化」が起こったのかも知れない。しかし知っている人は難しく考えなくても知っている。では人々はどうして様々な愛の形態あるいは変容=変態について知っている場合があるのか。言語によってか。あるいは他のコミュニケーションによってか。また自分自身がそうであるのか。ウィトゲンシュタインに戻ってきてしまったが、「学ぶ」とはどういうことなのだろうか。

なお、「失われた時を求めて」は一九一三〜一九二七年発表。日本でいう大正二〜昭和二年。第一次世界大戦。ロシア革命。ヴェルサイユ条約調印。戦後恐慌始まる。国際連盟第一回総会。日本各地で大規模労働争議。山県有朋没。全国創立大会。平塚雷鳥・市川房枝ら新婦人協会結成。丸ビル竣工。有島武郎自殺。大杉栄殺害事件。虎ノ門事件。レーニン没。孫文没。京都学連事件で治安維持法適用。大阪松島遊郭移転関連疑獄事件。朴烈事件。芥川龍之介自殺。

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