ウィトゲンシュタインの問いは続く。だがすでに理解不可能な次元においてではない。規則・文法というものの支配下においてのみ、コミュニケーションは不完全ながらも、可能だということ。そして同一規則・同一文法は、それが特定の共同体で共有されている場合に限り、いつも有効だということ。しかし条件付きであることには変わりがない。異種の「言語ゲーム」は常に複数あるからだ。そのようなケースではいつも何らかの齟齬が生じてくるということ。異なる「言語ゲーム」=他者は、もう一方の他者に対して常に不均衡且つ不安定な立場でしか関係することができないということ。「言語ゲーム」は常に揺れ動く動的なものだ。変化をこうむる。変化は緩やかなこともあるし逆に急速なこともある。歴史はそのどちらも経験している。しかし長いあいだ通用してきた特定のコミュニケーション共同体は、共同体自身が或る種の「理想」を持ってしまっており、またそれをほとんど疑っていないという致命的な欠陥も持つにいたる。
「理想というものは、われわれの考えでは、揺るぎなく固定している。きみはそれから抜け出すことができず、常にそれへ立ち戻っていなければならぬ。外側などないのだ。外側には生のいぶきが欠除している。ーーーこうした考えはどこから来たのか。この理念は、いわばメガネのようにわれわれの鼻の上に居すわっていて、われわれの見つめるものは、みなそれを通して見えるのである。われわれは、それを取りはずすという考えに思い至らない」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・一〇三」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.96』大修館書店)
「われわれの見つめるものは、みなそれを通して見えるのである。われわれは、それを取りはずすという考えに思い至らない」、という欠陥だ。習慣化された凡庸な物の見方はこのような怠惰から生じてくる。そのようなコミュケーション共同体の内部でしか生きていないのでは何ら新しいものを創造することはできない。そして人々はときどき創造していないことには余りにも濃厚な同一コミュニケーションの中で、さらに濃厚化していくばかりの同一コミュニケーションによって、急速に窒息へと接近するほかない。そのような事態を回避するためには、他者との《あいだ》で生じる《力》、あるいは《摩擦》といったものが必要且つ不可欠な創造の条件として、増殖するばかりのコミュニケーションの《隙間》へと上手く挿入されていなくてはならないのだ。しかし他方、「或る程度」習慣化されていなくては、何らのコミュニケーションもままならない。ここにパラドックスがある。
そして次のことはごく一般的な事実として押さえておきたい。
「正しかったり、誤ったりするのは、人間の《言っている》ことだ。そして、《言語》において人間は一致するのだ。それは意見の一致ではなく、生活様式の一致なのである」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・二四一」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.176』大修館書店)
「生活様式の一致」。外見のことを指して言われているわけではない。生活に力点が置かれているように見えはするが、むしろ生活の「様式」に着目したいと思う。その意味で特定の生活様式を日々反復させている言語共同体の内部では、言語において、人間は「一致」している。言語とその機能が一致しているところではどこでも、生活様式もまた一致するし、一致せざるを得ない。
ところで、マスコミ言語について。普遍的な概念というものはない。概念は「さまざまな特異性」を寄せ集めつつ、「集合」という形式を取る。全体的な概念が先行するのではなく、逆に、切片化した「特異性」が先にあるのだ。
「普遍概念はなく、あるのはただ特異性だけ。概念は普遍ではなく、さまざまな特異性を集め、ひとつひとつの特異性が別の特異性の近傍にまで延びていくようにした、ひとつの集合なのです」(ドゥルーズ「記号と事件・P.296」河出文庫)
「さまざまな特異性が相互に延長しあい、ひとつにまとまると、この集合がそのままひとつの概念となり、ひとつの<事件>をあらわすようになります」(ドゥルーズ「記号と事件・P.297」河出文庫)
という過程を経て始めて<事件>について述べることができる。
そしてようやく変身=分身について。しかしなぜ、ようやくなのか。言語による変身、言語への変身、言語なしの〔媒介物(言語・貨幣)なしの〕変身、ーーー様々なケースが想定されているからだが。
「ドリアン自身でさえも、自分の落ちつき払った態度を不思議に思わずには居られず、一瞬のあいだ、二重生活の身の毛もよだつ愉悦を強く感じたほどだった」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像・P.332」新潮文庫)
「生活」は「二重」に分裂可能だ。しかしもっと多重に錯綜しつつ分裂可能だ。
「翌日、かれは一歩も外へ出ず、大部分の時間を自室で費した。死にたいする恐怖にさいなまれながらも、生そのものへの関心もなかった」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像・P.377」新潮文庫)
死と生とのあいだで宙吊りになっているドリアン。この《あいだ》のことを指して一体なんと言えばよいのか。ただ単なる「デカダンス」では語り尽くせない、或る領域が存在する。この領域は始めからア・プリオリに存在しているものではない。たとえばドリアンのような人間がこの《あいだ》に場を占めるや否や発生し、この場を辞するとともにたちどころに消滅するような《あいだ》なのだ。地理的な位置ではなく、あえて言えば「立場」に似ている。
さて、フィッツジェラルドへ。ドゥルーズは取り上げていないのだが、興味深いという点で、次のような奇妙な変身について語っている部分を見ておこう。
「とつぜん彼女は気づいた。彼は酒を求めているのではなかった。彼が見つめているのは、昨夜酒壜を投げつけた片隅だった。彼女は彼の弱々しい、反抗するような、整った顔を見つめたーーー半ば顔を向けることさえ恐ろしかった。彼が見つめている片隅には死があることを知っていたからだった。彼女は死というものを知ったーーーそれまで死のことを耳にしたり、まぎれもない死の匂いを嗅いだことはあったが、人間に入りこむ前の死を見たことはなかった。彼女はその男がバスルームの片隅に死を見ているのを知った。死はそこに立って、弱々しい咳をして唾をズボンのひも飾りにこすりつけている男を見つめているのだ。ひも飾りは、光っていたーーー彼の最後の動作の証拠として、しばらくの間きらきら輝いていた」(フィッツジェラルド「アル中患者」『フィッツジェラルド作品集3・P.131』荒地出版社)
もし仮に「解離」という精神医学用語が意味を持つとすれば、これこそその実際に当てはまると言わざるを得ない。事実、何度か見たことがある。がしかし、実際に見たことがあるかないかはここでは関係がない。こういうものだということがわかればそれでいいと思われる。さらに、フィッツジェラルドが記述しているのは「アルコール依存症」のケースだが、もっと他の症候でもこのような解離現象が「症状」として出現する場合も少なくない。たとえば、スキゾフレニー(統合失調症)の場合は多彩な諸現象に日々襲われていることが多いけれども、脳神経細胞の動き(脳内分泌物質の動き)をコントロールする有効な薬が開発されてから、そのような多彩な症状の出現というのは余り見られなくなってきたようだ。それに解離は何もスキゾフレニーに特有の症状だというわけではない。スキゾはもっと錯綜しており、多彩であり、脱線が多く、変身ばかりしていることもある。だが、与えられたベッドからほぼ「動かない」。動いても割り当てられた病室内か、病棟内での食事時か、寛解期(回復期とも考えられる)に入った場合でもともすれば自室に閉じこもりがちであって、むしろ周囲の社会環境に習熟していくのが苦手なのだ。しかし、だからといって「解離のみ」という傾向の病者がまったくいなくなったというわけではなく、解離している人が解離状態にあると自分自身で認識しているような場合も当然ある。医学から離れて言えば、そのような時間を生きるそのような人間や生きもの(単なるものの循環環境=分解生成過程も含めて)は、「解離」の反復によって、別のもの(名前すら別の)へと変身=変態していくものであるといえるかもしれない。
ドゥルーズが取り上げるスキゾは、実際に病気にならなければならないということではない。そうではなくて、死や自殺や病気とは別の仕方で逃走線を引いていくことの大切さだ。フィッツジェラルドあるいは「崩壊」過程としての「生涯」。それでもなお、実在のフィッツジェラルドのことは時々忘れてしまっておくほうが肝要だ。でないと、意味の過剰化が起こるか逆に無意味になり過ぎてしまう。テキストとしてのフィッツジェラルドのほうが霞んでしまう。意味の過剰な増殖を回避するためには意味を制限するほかなく、意味を制限するためにはテキストに忠実でなくてはならない。
「もちろん生涯はひとつの崩壊の過程であるが、そこでドラマチックな役割を果たす打撃ならーーー外側からやってくるか、少なくともやってくると思われる不意の大打撃ならーーー覚えていて文句を言ったり、気弱になったときに友達に言えるような打撃なら、被害の深刻さは一度に現われることはない。ところが内側からの打撃もあるーーー気がついてみると何もかも手遅れだし、自分はもう二度とまともな人間になれないと、決定的に悟らせてしまうような打撃である。第一の種類の崩壊作用はてきぱきと運ぶーーー第二のものだと、起ってもまず気がつかないかわりに、まったくだしぬけに致命傷をつきつける」(フィッツジェラルド「崩壊」『フィッツジェラルド作品集3・P.184』荒地出版社)
「人生には別の破壊があるという本題に戻るわけだが、壊れたと悟るのは打撃をうけたのと同時ではなくて、小康状態に入ってからである」(フィッツジェラルド「崩壊」『フィッツジェラルド作品集3・P.185~186』荒地出版社)
「ーーーそして、それを知ったときには、古い皿のように壊れていた」(フィッツジェラルド「崩壊」『フィッツジェラルド作品集3・P.186』荒地出版社)
「古い皿」への変身。一つの自己破壊として。しかし破壊は、破壊の瞬間に変態をともなう。複数の断片への諸変態だ。そのとき、壊れた諸断片は、その一つ一つが別々の変態を遂げたものとして既に別々のものになっているはずなのだ。
「夕暮時の人のいなくなった射撃場に立っている感じ。ライフルは空っぽだし、標的もひっこんだ。何の問題もないーーーただ静寂があって、聞えるのは自分の呼吸だけ」(フィッツジェラルド「取り扱い注意」『フィッツジェラルド作品集3・P.192』荒地出版社)
そして。
「ぼくの自己犠牲ぶりは底なしだった」(フィッツジェラルド「貼り合せ」『フィッツジェラルド作品集3・P.197』荒地出版社)
徹底的な自己破壊。ほとんど融けそうになっているが、フィッツジェラルドは、融けるというより裂けるのである。ドゥルーズ&ガタリに倣えば、「硬い切断の線」「柔軟な亀裂の線」「逃走あるいは断絶の線」という三つの区別が要求されうる。
「ぼくはただ完全に静かなところで考えぬいてみたかった。なぜぼくは悲しみに対しては悲しい姿勢、憂鬱に対しては憂鬱な姿勢、悲劇に対しては悲劇的な姿勢をとるようになったのか。《恐怖や同情の対象と自己との区別が、なぜつかなくなってしまったのか》と。こんなことはどうでもいい区別と思うかもしれないが、そうではない。こういう区別を見失うことは、何ひとつできなくなってしまうようなものだ。気狂いが仕事ができなくなるのはこういう問題だ。レーニンはプロレタリアの苦しみを苦しもうとはしなかった。ワシントンは兵卒の苦しみを、ディケンズはロンドンの貧乏人の苦しみを経験しようとはしなかった。そしてトルストイは、同情の対象にとけこもうとしたが、その努力は本物ではなく失敗に終った」(フィッツジェラルド「貼り合せ」『フィッツジェラルド作品集3・P.196~197』荒地出版社)
書かれているような「区別」がなくなると書き手とその対象の境界線は実に曖昧になる。融合してしまう。対象との安易な同一化は記述者にとって致命的だと言えるだろう。
「だから生き残るのは、どこかで脱出を果たした人たちだとぼくは考えるようになった。脱出とは大変なことであって、新しい刑務所行きか古巣に戻るかにきまっている脱獄と同一視するわけにはいかない。よく言う『脱出』とか『すべてをあとにする』にしても、檻の中の遠足だ。たとえその中に南の海があり、絵に描いたり帆走に適していたとしても檻であることに変りはない。完全な脱出とは、二度と帰れないものを意味している。過去が存在しないのだから、取返しのつかぬものでなければならない」(フィッツジェラルド「貼り合せ」『フィッツジェラルド作品集3・P.197』荒地出版社)
フィッツジェラルドはいう。「生き残る」ためには「脱出」が必要だ、と。そしてそれは正解だろう。しかし子供と違って大人にとってはなぜか極めて困難だ。こんなふうに。
「生成変化とは、線が点から解放され、線が点を識別不可能にする運動なのだ。つまり樹木状組織の対極にあるリゾーム。樹木状組織からの離脱。《生成変化は反-記憶である》」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.280」河出文庫)
次のセンテンスで「犬になるつもり」だと語っている。しかし人間が馴致された犬でしかなくなるということはどういうことだろう。ただ単なる後退ではないだろうか。変身という《逃走線》にはこのような危険がいつもつきまとっている。
「過去においてぼく自身の幸福はしばしば恍惚状態に近づき、最も親しい人たちと分ちあうこともできず、静かな街や小道を歩いて発散しなければならず、そのうちのわずかな断片が本のごく一部となって結晶したにすぎないーーーぼくの幸福自己欺瞞の才能でも、何でもかまわない例外だと思っている。それは自然ではなくて不自然なものーーー好景気と同じように不自然だった。ぼくのその後の経験は、好景気がすんだときに国民をのみこんだ絶望の波と同じだった。この事実を見きわめるのに数ヶ月をかけているけれどもぼくはこの新しい運命の中で何とか生きてゆくことだろう。アメリカの黒人たちは快活な禁欲主義によってたえがたい生存条件に耐えることができたが、真実への感覚を失ったようにーーーぼくの場合も代償を支払わなければならない。もうぼくは郵便屋や八百屋や編集者や従妹の夫に好意を持ったりしない。好意を持てば、彼らはぼくを嫌うだろうしそうなると人生はもうそんなに楽しくはなくなるだろう。ぼくのドアの上には『猛犬注意』の看板がいつもかかっていることになる。ぼくは正真正銘の犬になるつもりだけれども、もしきみがたっぷり肉のついた骨を投げれば、ぼくはきみの手までなめるかもしれない」(フィッツジェラルド「貼り合せ」『フィッツジェラルド作品集3・P.200』荒地出版社)
次の部分でドゥルーズ&ガタリはこう述べる。ここで「戦争機械」というのは、国家装置に回収されることから逃走し続ける遊牧民(ノマド)としての運動のことだ。国家装置の「非=実現」として働く「戦争機械」。そしてノマドは、前に述べたが、ほとんど「動かない」。動かずに移動=生成変化を遂げていく。
「重要なのは、恋愛自体が奇妙な、そして、ほとんど恐怖をいだかせるほどの力をもつ戦争機械たりうるということだ。性愛とは数かぎりない性を産み出すことであり、そのような性はいずれも制御不可能な生成変化となる。《性愛は、男性をとらえる女性への生成変化と、人間一般をとらえる動物への生成変化を経由する》。つまり微粒子の放出である。だからといって獣性の体験が必要なわけではない。性愛に獣性の体験が顔を出すことは否定できないし、精神医学の逸話にも、この点でなかなか興味深い証言が数多く含まれている。だがそれは極度の単純さから、いずれも婉曲で、愚かしいものになりさがっている。絵葉書の老紳士のように犬の『ふりをする』ことが求められているのではない。動物と交わることが求められているわけでもない。動物への生成変化を性格づけるのは何よりもまず異種の力能だ。なぜなら、動物への生成変化は、模倣や照応の対象となる動物にその現実性を見出すのではなく、みずからの内部には、つまり突如われわれをとらえ、われわれに<なること>をうながすものに現実性を見出していくからである。動物への生成変化の現実性は、《近傍の状態》や《識別不可能性》に求められる。それが動物から引き出すものは、馴化や利用や模倣をはるかに超えた、いわくいいがたい共通性だ。つまり『野獣』である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.247~248」河出文庫)
こうある。「動物への生成変化は、模倣や照応の対象となる動物にその現実性を見出すのではなく、みずからの内部には、つまり突如われわれをとらえ、われわれに<なること>をうながすものに現実性を見出していく」、と。「共通性=野獣」。言い換えれば、いつでも誰でも時々やっていることだ、ということになるのだが。
なお、「崩壊」発表は一九三六年。日本でいう昭和十一年。美濃部達吉襲撃事件。二.二六事件。阿部定事件。スペイン内戦勃発。ベルリン・オリンピック開催。日独防共協定締結。「モダン・タイムス」公開。日本で芝犬が天然記念物に指定される。
BGM
「理想というものは、われわれの考えでは、揺るぎなく固定している。きみはそれから抜け出すことができず、常にそれへ立ち戻っていなければならぬ。外側などないのだ。外側には生のいぶきが欠除している。ーーーこうした考えはどこから来たのか。この理念は、いわばメガネのようにわれわれの鼻の上に居すわっていて、われわれの見つめるものは、みなそれを通して見えるのである。われわれは、それを取りはずすという考えに思い至らない」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・一〇三」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.96』大修館書店)
「われわれの見つめるものは、みなそれを通して見えるのである。われわれは、それを取りはずすという考えに思い至らない」、という欠陥だ。習慣化された凡庸な物の見方はこのような怠惰から生じてくる。そのようなコミュケーション共同体の内部でしか生きていないのでは何ら新しいものを創造することはできない。そして人々はときどき創造していないことには余りにも濃厚な同一コミュニケーションの中で、さらに濃厚化していくばかりの同一コミュニケーションによって、急速に窒息へと接近するほかない。そのような事態を回避するためには、他者との《あいだ》で生じる《力》、あるいは《摩擦》といったものが必要且つ不可欠な創造の条件として、増殖するばかりのコミュニケーションの《隙間》へと上手く挿入されていなくてはならないのだ。しかし他方、「或る程度」習慣化されていなくては、何らのコミュニケーションもままならない。ここにパラドックスがある。
そして次のことはごく一般的な事実として押さえておきたい。
「正しかったり、誤ったりするのは、人間の《言っている》ことだ。そして、《言語》において人間は一致するのだ。それは意見の一致ではなく、生活様式の一致なのである」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・二四一」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.176』大修館書店)
「生活様式の一致」。外見のことを指して言われているわけではない。生活に力点が置かれているように見えはするが、むしろ生活の「様式」に着目したいと思う。その意味で特定の生活様式を日々反復させている言語共同体の内部では、言語において、人間は「一致」している。言語とその機能が一致しているところではどこでも、生活様式もまた一致するし、一致せざるを得ない。
ところで、マスコミ言語について。普遍的な概念というものはない。概念は「さまざまな特異性」を寄せ集めつつ、「集合」という形式を取る。全体的な概念が先行するのではなく、逆に、切片化した「特異性」が先にあるのだ。
「普遍概念はなく、あるのはただ特異性だけ。概念は普遍ではなく、さまざまな特異性を集め、ひとつひとつの特異性が別の特異性の近傍にまで延びていくようにした、ひとつの集合なのです」(ドゥルーズ「記号と事件・P.296」河出文庫)
「さまざまな特異性が相互に延長しあい、ひとつにまとまると、この集合がそのままひとつの概念となり、ひとつの<事件>をあらわすようになります」(ドゥルーズ「記号と事件・P.297」河出文庫)
という過程を経て始めて<事件>について述べることができる。
そしてようやく変身=分身について。しかしなぜ、ようやくなのか。言語による変身、言語への変身、言語なしの〔媒介物(言語・貨幣)なしの〕変身、ーーー様々なケースが想定されているからだが。
「ドリアン自身でさえも、自分の落ちつき払った態度を不思議に思わずには居られず、一瞬のあいだ、二重生活の身の毛もよだつ愉悦を強く感じたほどだった」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像・P.332」新潮文庫)
「生活」は「二重」に分裂可能だ。しかしもっと多重に錯綜しつつ分裂可能だ。
「翌日、かれは一歩も外へ出ず、大部分の時間を自室で費した。死にたいする恐怖にさいなまれながらも、生そのものへの関心もなかった」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像・P.377」新潮文庫)
死と生とのあいだで宙吊りになっているドリアン。この《あいだ》のことを指して一体なんと言えばよいのか。ただ単なる「デカダンス」では語り尽くせない、或る領域が存在する。この領域は始めからア・プリオリに存在しているものではない。たとえばドリアンのような人間がこの《あいだ》に場を占めるや否や発生し、この場を辞するとともにたちどころに消滅するような《あいだ》なのだ。地理的な位置ではなく、あえて言えば「立場」に似ている。
さて、フィッツジェラルドへ。ドゥルーズは取り上げていないのだが、興味深いという点で、次のような奇妙な変身について語っている部分を見ておこう。
「とつぜん彼女は気づいた。彼は酒を求めているのではなかった。彼が見つめているのは、昨夜酒壜を投げつけた片隅だった。彼女は彼の弱々しい、反抗するような、整った顔を見つめたーーー半ば顔を向けることさえ恐ろしかった。彼が見つめている片隅には死があることを知っていたからだった。彼女は死というものを知ったーーーそれまで死のことを耳にしたり、まぎれもない死の匂いを嗅いだことはあったが、人間に入りこむ前の死を見たことはなかった。彼女はその男がバスルームの片隅に死を見ているのを知った。死はそこに立って、弱々しい咳をして唾をズボンのひも飾りにこすりつけている男を見つめているのだ。ひも飾りは、光っていたーーー彼の最後の動作の証拠として、しばらくの間きらきら輝いていた」(フィッツジェラルド「アル中患者」『フィッツジェラルド作品集3・P.131』荒地出版社)
もし仮に「解離」という精神医学用語が意味を持つとすれば、これこそその実際に当てはまると言わざるを得ない。事実、何度か見たことがある。がしかし、実際に見たことがあるかないかはここでは関係がない。こういうものだということがわかればそれでいいと思われる。さらに、フィッツジェラルドが記述しているのは「アルコール依存症」のケースだが、もっと他の症候でもこのような解離現象が「症状」として出現する場合も少なくない。たとえば、スキゾフレニー(統合失調症)の場合は多彩な諸現象に日々襲われていることが多いけれども、脳神経細胞の動き(脳内分泌物質の動き)をコントロールする有効な薬が開発されてから、そのような多彩な症状の出現というのは余り見られなくなってきたようだ。それに解離は何もスキゾフレニーに特有の症状だというわけではない。スキゾはもっと錯綜しており、多彩であり、脱線が多く、変身ばかりしていることもある。だが、与えられたベッドからほぼ「動かない」。動いても割り当てられた病室内か、病棟内での食事時か、寛解期(回復期とも考えられる)に入った場合でもともすれば自室に閉じこもりがちであって、むしろ周囲の社会環境に習熟していくのが苦手なのだ。しかし、だからといって「解離のみ」という傾向の病者がまったくいなくなったというわけではなく、解離している人が解離状態にあると自分自身で認識しているような場合も当然ある。医学から離れて言えば、そのような時間を生きるそのような人間や生きもの(単なるものの循環環境=分解生成過程も含めて)は、「解離」の反復によって、別のもの(名前すら別の)へと変身=変態していくものであるといえるかもしれない。
ドゥルーズが取り上げるスキゾは、実際に病気にならなければならないということではない。そうではなくて、死や自殺や病気とは別の仕方で逃走線を引いていくことの大切さだ。フィッツジェラルドあるいは「崩壊」過程としての「生涯」。それでもなお、実在のフィッツジェラルドのことは時々忘れてしまっておくほうが肝要だ。でないと、意味の過剰化が起こるか逆に無意味になり過ぎてしまう。テキストとしてのフィッツジェラルドのほうが霞んでしまう。意味の過剰な増殖を回避するためには意味を制限するほかなく、意味を制限するためにはテキストに忠実でなくてはならない。
「もちろん生涯はひとつの崩壊の過程であるが、そこでドラマチックな役割を果たす打撃ならーーー外側からやってくるか、少なくともやってくると思われる不意の大打撃ならーーー覚えていて文句を言ったり、気弱になったときに友達に言えるような打撃なら、被害の深刻さは一度に現われることはない。ところが内側からの打撃もあるーーー気がついてみると何もかも手遅れだし、自分はもう二度とまともな人間になれないと、決定的に悟らせてしまうような打撃である。第一の種類の崩壊作用はてきぱきと運ぶーーー第二のものだと、起ってもまず気がつかないかわりに、まったくだしぬけに致命傷をつきつける」(フィッツジェラルド「崩壊」『フィッツジェラルド作品集3・P.184』荒地出版社)
「人生には別の破壊があるという本題に戻るわけだが、壊れたと悟るのは打撃をうけたのと同時ではなくて、小康状態に入ってからである」(フィッツジェラルド「崩壊」『フィッツジェラルド作品集3・P.185~186』荒地出版社)
「ーーーそして、それを知ったときには、古い皿のように壊れていた」(フィッツジェラルド「崩壊」『フィッツジェラルド作品集3・P.186』荒地出版社)
「古い皿」への変身。一つの自己破壊として。しかし破壊は、破壊の瞬間に変態をともなう。複数の断片への諸変態だ。そのとき、壊れた諸断片は、その一つ一つが別々の変態を遂げたものとして既に別々のものになっているはずなのだ。
「夕暮時の人のいなくなった射撃場に立っている感じ。ライフルは空っぽだし、標的もひっこんだ。何の問題もないーーーただ静寂があって、聞えるのは自分の呼吸だけ」(フィッツジェラルド「取り扱い注意」『フィッツジェラルド作品集3・P.192』荒地出版社)
そして。
「ぼくの自己犠牲ぶりは底なしだった」(フィッツジェラルド「貼り合せ」『フィッツジェラルド作品集3・P.197』荒地出版社)
徹底的な自己破壊。ほとんど融けそうになっているが、フィッツジェラルドは、融けるというより裂けるのである。ドゥルーズ&ガタリに倣えば、「硬い切断の線」「柔軟な亀裂の線」「逃走あるいは断絶の線」という三つの区別が要求されうる。
「ぼくはただ完全に静かなところで考えぬいてみたかった。なぜぼくは悲しみに対しては悲しい姿勢、憂鬱に対しては憂鬱な姿勢、悲劇に対しては悲劇的な姿勢をとるようになったのか。《恐怖や同情の対象と自己との区別が、なぜつかなくなってしまったのか》と。こんなことはどうでもいい区別と思うかもしれないが、そうではない。こういう区別を見失うことは、何ひとつできなくなってしまうようなものだ。気狂いが仕事ができなくなるのはこういう問題だ。レーニンはプロレタリアの苦しみを苦しもうとはしなかった。ワシントンは兵卒の苦しみを、ディケンズはロンドンの貧乏人の苦しみを経験しようとはしなかった。そしてトルストイは、同情の対象にとけこもうとしたが、その努力は本物ではなく失敗に終った」(フィッツジェラルド「貼り合せ」『フィッツジェラルド作品集3・P.196~197』荒地出版社)
書かれているような「区別」がなくなると書き手とその対象の境界線は実に曖昧になる。融合してしまう。対象との安易な同一化は記述者にとって致命的だと言えるだろう。
「だから生き残るのは、どこかで脱出を果たした人たちだとぼくは考えるようになった。脱出とは大変なことであって、新しい刑務所行きか古巣に戻るかにきまっている脱獄と同一視するわけにはいかない。よく言う『脱出』とか『すべてをあとにする』にしても、檻の中の遠足だ。たとえその中に南の海があり、絵に描いたり帆走に適していたとしても檻であることに変りはない。完全な脱出とは、二度と帰れないものを意味している。過去が存在しないのだから、取返しのつかぬものでなければならない」(フィッツジェラルド「貼り合せ」『フィッツジェラルド作品集3・P.197』荒地出版社)
フィッツジェラルドはいう。「生き残る」ためには「脱出」が必要だ、と。そしてそれは正解だろう。しかし子供と違って大人にとってはなぜか極めて困難だ。こんなふうに。
「生成変化とは、線が点から解放され、線が点を識別不可能にする運動なのだ。つまり樹木状組織の対極にあるリゾーム。樹木状組織からの離脱。《生成変化は反-記憶である》」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.280」河出文庫)
次のセンテンスで「犬になるつもり」だと語っている。しかし人間が馴致された犬でしかなくなるということはどういうことだろう。ただ単なる後退ではないだろうか。変身という《逃走線》にはこのような危険がいつもつきまとっている。
「過去においてぼく自身の幸福はしばしば恍惚状態に近づき、最も親しい人たちと分ちあうこともできず、静かな街や小道を歩いて発散しなければならず、そのうちのわずかな断片が本のごく一部となって結晶したにすぎないーーーぼくの幸福自己欺瞞の才能でも、何でもかまわない例外だと思っている。それは自然ではなくて不自然なものーーー好景気と同じように不自然だった。ぼくのその後の経験は、好景気がすんだときに国民をのみこんだ絶望の波と同じだった。この事実を見きわめるのに数ヶ月をかけているけれどもぼくはこの新しい運命の中で何とか生きてゆくことだろう。アメリカの黒人たちは快活な禁欲主義によってたえがたい生存条件に耐えることができたが、真実への感覚を失ったようにーーーぼくの場合も代償を支払わなければならない。もうぼくは郵便屋や八百屋や編集者や従妹の夫に好意を持ったりしない。好意を持てば、彼らはぼくを嫌うだろうしそうなると人生はもうそんなに楽しくはなくなるだろう。ぼくのドアの上には『猛犬注意』の看板がいつもかかっていることになる。ぼくは正真正銘の犬になるつもりだけれども、もしきみがたっぷり肉のついた骨を投げれば、ぼくはきみの手までなめるかもしれない」(フィッツジェラルド「貼り合せ」『フィッツジェラルド作品集3・P.200』荒地出版社)
次の部分でドゥルーズ&ガタリはこう述べる。ここで「戦争機械」というのは、国家装置に回収されることから逃走し続ける遊牧民(ノマド)としての運動のことだ。国家装置の「非=実現」として働く「戦争機械」。そしてノマドは、前に述べたが、ほとんど「動かない」。動かずに移動=生成変化を遂げていく。
「重要なのは、恋愛自体が奇妙な、そして、ほとんど恐怖をいだかせるほどの力をもつ戦争機械たりうるということだ。性愛とは数かぎりない性を産み出すことであり、そのような性はいずれも制御不可能な生成変化となる。《性愛は、男性をとらえる女性への生成変化と、人間一般をとらえる動物への生成変化を経由する》。つまり微粒子の放出である。だからといって獣性の体験が必要なわけではない。性愛に獣性の体験が顔を出すことは否定できないし、精神医学の逸話にも、この点でなかなか興味深い証言が数多く含まれている。だがそれは極度の単純さから、いずれも婉曲で、愚かしいものになりさがっている。絵葉書の老紳士のように犬の『ふりをする』ことが求められているのではない。動物と交わることが求められているわけでもない。動物への生成変化を性格づけるのは何よりもまず異種の力能だ。なぜなら、動物への生成変化は、模倣や照応の対象となる動物にその現実性を見出すのではなく、みずからの内部には、つまり突如われわれをとらえ、われわれに<なること>をうながすものに現実性を見出していくからである。動物への生成変化の現実性は、《近傍の状態》や《識別不可能性》に求められる。それが動物から引き出すものは、馴化や利用や模倣をはるかに超えた、いわくいいがたい共通性だ。つまり『野獣』である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.247~248」河出文庫)
こうある。「動物への生成変化は、模倣や照応の対象となる動物にその現実性を見出すのではなく、みずからの内部には、つまり突如われわれをとらえ、われわれに<なること>をうながすものに現実性を見出していく」、と。「共通性=野獣」。言い換えれば、いつでも誰でも時々やっていることだ、ということになるのだが。
なお、「崩壊」発表は一九三六年。日本でいう昭和十一年。美濃部達吉襲撃事件。二.二六事件。阿部定事件。スペイン内戦勃発。ベルリン・オリンピック開催。日独防共協定締結。「モダン・タイムス」公開。日本で芝犬が天然記念物に指定される。
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