特定の「言語ゲーム」は絶対的なものではない。むしろ複数の他者を「言語ゲーム」として持つ。従って「教える/学ぶ」という不均衡な関係は、両者が入れ替わり立ち替わりしながら、維持されたまま存続する。しかし次のようなケースはどうだろうか。
「そうすると、私は『命令』の何たるか、『規則』の何たるかを『規則性』によって説明しているのか。ーーーどのようにしてわたくしは他の人に『規則的』『同形』『同じ』ということの意味を説明するのか。ーーーたとえばフランス語しか話せないひとにはわたくしはこれらの語をそれに対応しているフランス語によって説明するだろう。しかし、そのような《概念》をまだもっていないひとには、わたくしはそのことばを《例》を介し、また《練習》を介して使うことを教えるだろう。ーーーそして、その際、わたくしはかれに自分自身の知っていること以上のことを伝えているわけではないのである。それゆえ、こうした授業にあっては、わたくしはかれに同じ色、同じ長さ、同じ形を示し、かれにそれらを発見させ、作り出させる等々のことをするであろう。たとえば連続模様を命令があれば<同様>に継続していくよう、指導するであろう。ーーーあるいはまた、級数を継続していくように。それゆえ、たとえば・ ・・ ・・・ とあれば、・・・・ ・・・・・ ・・・・・・ と続けていくように。わたくしがそれをあらかじめかれにやってみせ、かれがわたくしのあとでやってみる。そして、わたくしは同意や拒絶や期待や励ましの表現を通してかれに影響を与える。わたくしはかれにまかせたり、かれをひきとめたりする、等。あなたがそのような授業の証人であったと思え。そこではいかなる語もそれ自体を用いて説明されず、いかなる論理的循環も起らないとする。また『等々』とか『等々、無限に続く』とかの表現も、この授業の中で説明されるであろう。そのためにはまた、とりわけ身ぶりが役立つことがある。『同じように続けて!』とか、『等々』とかを意味する身ぶりには、ある対象やある場所を指示する機能に比較できるような機能がある。書きかたの省略である『等々』と、そうでない『等々』とは区別される。『等々、無限に続く』というのは、『けっして』書きかたの省略ではない。われわれがπのあらゆる桁数を書き出せないということは、数学者が時おり信じているような、人間の欠陥ではないのである。提示された諸例から離れないようにしている授業は、それらを<《越え出ていく》>授業から区別される」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・二〇八」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.165~166』大修館書店)
一定の文脈に従っている授業が「提示された諸例から離れないようにしている授業」、ということになる。ではそれらと区別される「それらを<《越え出ていく》>授業」とは一体どのような授業なのだろうか。それは授業と呼ばれるべきなのか。呼ばれるべきでないなら、それは授業ではないのか。だがそれにしても、授業が一定の文脈を《越え出ていく》とき、人々はそれを感知することができるのか。一定の文脈を《越え出てい》ると、なぜわかるのか。それともあるいは一定の文脈を《越え出てい》るとはわからない思考状態(思考の混乱)に陥ることで始めて、人々は、その授業について一定の文脈を《越え出てい》ると気づくのだろうか。おそらくそうだろう。しかし、《越え出ていく》とは、実際どのような状態なのか。
リルケに次のような詩がある。
「ちょうど張りつめた弦(げん)に堪えぬいた矢が力をあつめて飛びたつとき 矢《以上》のものとなるように。まことに定住はいずこにもないのだ」(リルケ「ドゥイノの悲歌・第一・P.11」岩波文庫)
ものはいつもそれ以上か以下かでしかない。動的な変容を免れることはできない。人間にとって「定住」もまた厳密には「ない」と言える。しかしリルケが言おうとしていることはもっと緻密で微細なことだ。
「もとよりただならぬことである 地上の宿(やど)りをはや捨てて、学び覚えたばかりの世の慣習(ならわし)をもはや行なうこともなく、バラの花、さてはその他の希望(のぞみ)多いさまざまの物に、人の世の未来の意義をあたえぬことは。かぎりなくこまやかな配慮の手にいたわられることも もはやなく、おのが名さえも こわれ玩具(おもちゃ)のように捨て去ることは。この世の望みを望みつづけることも絶え、たがいにかかわりあい結びあっていた一切が、木の葉のように飛び散って行くのを見ることは」(リルケ「ドゥイノの悲歌・第一・P.12~13」岩波文庫)
この部分には様々な事態が詰め込まれている。「学び覚えたばかりの世の慣習(ならわし)をもはや行なうこともなく」「おのが名さえも こわれ玩具(おもちゃ)のように捨て去る」「たがいにかかわりあい結びあっていた一切が、木の葉のように飛び散って行く」、とリルケはいう。個々の事態は様々なのだが一般的な言葉でいえば「統合失調症」の症状に典型的な自己解体感覚だということができるだろうと思う。それまで統一を保っていた精神と身体とがばらばらになっていく感覚。リルケの文章からはそのときの心細さがよく読み取れるかと思う。
「けれどわれわれ人間は、感ずれば気化し発散する。ああ、吐(は)く息とともに 消滅し無に帰するのだ」(リルケ「ドゥイノの悲歌・第二・P.16」岩波文庫)
「気化」する。あるいは「気化」するかのように「書く」ことは可能だろうか。
「恋するものたちよ、そのときおんみらはなおも永遠の持続を感知するおんみらで《あり》つづけるのか。おんみらがたがいの口へと 爪先(つまさ)き立ち、面(おもて)をあわせて一口(ひとくち)一口とすするとき ああ、いかにそのとき奇怪にも、すするものの存在はすするその行為から離脱(りだつ)してゆくことか」(リルケ「ドゥイノの悲歌・第二・P.20~21」岩波文庫)
「すするものの存在はすするその行為から離脱(りだつ)してゆく」と、リルケはいう。存在する身体は「すする」という「行為」そのものへ転化する。
「と突然、このたどたどしい『どこでもない場所』のなかに、突然、言いようのない地点があらわれる、そこでは純粋な寡少(かしょう)が 解(かい)しがたく変容してーーーあの空無の 夥多(かた)へと急変する」(リルケ「ドゥイノの悲歌・第五・P.44」岩波文庫)
これら「変容/急変」は、気づかないだけのことであって、人々はときどき「変容/急変」しないだろうか。しないとすれば本当にそうか。
「すべての眼で生きものたちは 開かれた世界を見ている。われわれ人間の眼だけが いわば反対の方向をさしている。そしいて罠(わな)として、生きものたちを、かれらの自由な出口を、十重二十重(とえはたえ)にかこんでいる。その出口のそとに《ある》ものをわれらは 動物のおももちから知るばかりだ、おさない子供でさえも わたしたちはこちら向きにさせて 形態の世界を見るように強(し)いる。動物の眼に あれほど深くたたえられた開かれた世界を見せようとはしない」(リルケ「ドゥイノの悲歌・第八・P.60」岩波文庫)
「おさない子供でさえも わたしたちはこちら向きにさせて 形態の世界を見るように強(し)いる」。形態の外について、「わたしたち」は一体何をそんなにも脅えているのだろうか、とリルケは問いかける。
「いつのとき、いかなる場合にも観(み)る者であるわれわれは、すべてのものに向きあっていて、けっしてひろいかなたに出ることはない! それらはわれわれをいっぱいに満たす。われわれはそれらを整理する。それらは崩れる。ふたたびわれわれは整理する、と、われわれ自身が崩れ去る」(リルケ「ドゥイノの悲歌・第八・P.65」岩波文庫)
リルケが「崩れる」というとき、何が崩れていくのか。要するに、規則・文法は絶対的なものではない、ときどき崩れ去っているのだと語りかけているのではなかろうか。リルケの態度は余りにおずおずとし過ぎている傾向があるものの、かといって言っていることはとても重要なことに違いない。
リルケの繊弱さとは裏腹にワイルドはもっと大胆で皮肉を効かせる。
「『人間というやつは、もっともひどい悪習を失った場合でも、後悔する。いや、もっともひどい悪習にたいしてこそ、もっとも烈しい後悔の念を禁じえないのかもしれない。それほどまでに悪習は人格の欠くべからざる一部となっているのだ』」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像・P.399」新潮文庫)
ヘンリー卿のせりふだが、ドリアンとヘンリー卿と画家との三人が織りなす同性愛関係はもうすでに明らかと言わねばならない。
さて、プルーストについてはまだまだ残っている。ドゥルーズ&ガタリから一節だけ引いておこう。
「ある種の女性は何でも洗いざらい話すし、語るにあたって高度の技巧をこらす。にもかかわらず、話が終わった時点で、話が始まる前よりも多くのことがわかるわけではないのだ。彼女たちは迅速さと透明性によってすべてを隠したのである。女性には秘密がない。自身が一個の秘密と化したからだ。このような女性は私たちよりも政治的だろうか?イピゲネイア。《先験的に無罪である》ーーーこれが、男性によって声高に叫ばれる『先験的に有罪である』という審判にあらがいつつ、少女が求めていることなのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.271」河出文庫)
プルーストから。ランダムに引き出してみよう。
「一体その二人のなかで、アルベルチーヌとアンドレとのけじめはどうなっていたのか?それを知るためには、あの小さな一団のあなたたちを不動化する必要があるだろう、あなたたちがたえず他者に移りかわるという期待をいつもあなたたちにもちつづけて生きることをやめる必要があるだろう、あなたたちを定着するためには、あなたたちを愛することをやめなくてはならないだろう、つねに面くらわせながらたえずつぎからつぎへとやってくるあなたたちをもう目にとめないことにしなくてはならないだろう、おお、乙女たちよ、おお、渦巻のなかにつぎつぎにさしこむ光線よ、その渦巻のなかで、われわれは、目もくらむ光の速度にあなたたちの姿をたちまち見失いながらいつまたその出現が見られるかと胸をどきどきさせるのだ。もしもわれわれをひきつけるセックスの力が、あなたたちのほうにわれわれを駆けよらせなかったら、そんな光の速度をわれわれは知らずに過ごすかもしれず、すべてはわれわれに不動化して見えることだろう、あなたたち、つねにわれわれの期待を越え、つねに同一の形をもたぬ黄金のしずくよ。一人の少女の姿は一回ごとに前回とは似ても似つかぬものになるので(その姿は、われわれがそれを認めたかと思うと、それまで自分がもちつづけた回想と、いま自分にひきだしつつある欲望とを、粉々にうちくだいてしまうので)、われわれがその少女にもたせようとしている性格の安定は、虚構でしかなく、言葉の便宜にすぎなくなる」(プルースト「失われた時を求めて8・P.105~106」ちくま文庫)
「一人の少女の姿」を「言語の便宜」によって固定しようとするが、それはいつも「虚構でしかなく」なる。むしろ「一人の少女の姿は一回ごとに前回とは似ても似つかぬものにな」り、「それまで自分がもちつづけた回想」《と》、「いま自分にひきだしつつある欲望」《と》「を、粉々にうちくだいてしまう」わけだが、「粉々に」《なる》そのあと、「粉々に」なったそれぞれのものとしてはもう変わってしまっている。変態を遂げて別のものへと変わっている。
「私は否定するわけではない、そんなばら色の光にかがやく少女たちにも、截然と区別される性格をわれわれがその各自に割りあてるであろう日がやってくることを。しかし性格がはっきりするということは彼女らがわれわれの興味をひかなくなってしまうからであり、彼女らの登場がかつてわれわれの心を転倒させたような出現ではもはやなくなるからであって、われわれの心はかつては彼女らの出現がいつも異なるさまを展開することを期待していたのであり、そのたびごとに新しい化肉に接してわれわれの心は転倒させられたのであった」(プルースト「失われた時を求めて8・P.108」ちくま文庫)
かつて「われわれの心は転倒させられた」わけだが、もはや個々の「性格がはっきりするということ」によって「われわれの興味をひかなくなってしまう」。なるほどそう言えるかもしれない。そしてそれはまた事実でもある。けれども、事実のすべてではまったくない。小説の結末でプルーストはあらゆる過去を、「失われた時を」取り戻したと確信している。しかしそれこそ実は記憶という言葉が誘惑して止まない「罠」と言うべきものではないのか。事実はどうか知らないが、問題になっているのは事実ではなく、結局は記憶の誘惑に屈してしまったラストの不毛性なのだ。逆にいえば、「失われた時を」取り戻さずに未完のまま一応、叙述し終えるということも可能ではあった。がプルーストはそうしていない。なぜだろう。プルーストはフロイトの誘惑に敗北したと言える。過去の手紙は常に宛名に届くか、という問題。常にそうだとラカンは述べた(「《盗まれた手紙》についてのゼミナール」)。精神分析は常に的に当たらなくてはならないという強迫観念がラカンにはある。また逆に、そうではなく、必ず宛名に届くとは限らない、どこかへ行方不明になってしまう可能性がいつもある、とデリダは述べた(東浩紀のいう「郵便的」)。そして「郵便的」である限りで、常に優勢且つ暴力的で大手スポンサーの操り人形でしかない世論に対する否定性を発信することが可能だった。ところが郵便的=誤配可能的であったはずの「手紙」は昨今危機に瀕している。メールにしてもネット上のほんのちょっとした「つぶやき」にしても、行方不明になるどころか、逆にその逃走線を突き止められて実際の訴訟(常に権力者の側が勝訴するようにできている訴訟)すら勃発するに至った。ネットはもはや管理社会の内部に組み込まれてしまったのだ。ネット空間でのささやかな抵抗として「郵便的」な形態が幾ばくかの否定性と地政を持った時代は終わった。
「とにかくわれわれの女の友人たちは、期待の目まぐるしいはやさのなかで、毎日、毎週、あまりにもちがった顔面をしてあらわれたので、そのとまらない疾走のあいだに、彼女らに分類を設けたりランクをつけたりすることはとうていわれわれには不可能だったのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・P.109」ちくま文庫)
そもそも少女は「ランク」をつけるという行為の暴力性を受け付けない。「期待」する側は同一物の復帰を望むのだろうが、少女というものはもともと、「毎日、毎週、あまりにもちがった顔面をしてあらわれ」つつ常に「とまらない疾走」として変身している、だけでなく、ますます変身していく。
「記憶のなかに貨幣の肖像のように変わらずに保存されているあの肖像、しかしそれをふたたび見出すとき、われわれはそれがいまの知人とは似ても似つかぬことにおどろく、われわれは習慣が日に日にどんな肉づけ工作をおこなったかを思い知らされる」(プルースト「失われた時を求めて8・P.111」ちくま文庫)
「習慣」による「肉づけ工作」とは何か。ニーチェが様々なところで批判している。参照してほしい。
次のセンテンスは比較的わかりやすいと思う。アルベルチーヌは「植物」に《なる》。描写もとりわけ単純だ。だからといって、いつでも単純であればよいというわけではないけれども。
「私がもどってくると、彼女は眠っていた、そして私がそばに立って見る彼女は、真正面になったとたんにいつもそうなったあのべつの女だった。しかしまたすぐその人が変ってしまったのは、私が彼女とならんでからだをのばし、彼女を横から見なおしたからであった。私は彼女の頭をかかえ、それをもちあげ、それを私の唇におしあて、彼女の両腕を私の首に巻きつけることができた。それでも彼女は眠りをつづけていて、あたかもとまっていない時計のようであり、どんな支柱をあてがってもその枝をのばしつづける蔓草か昼顔のようであった」(プルースト「失われた時を求めて8・P.191」ちくま文庫)
アルベルチーヌは次に、というより、ときどき「鳥」に《なる》。「玉虫色」の「つばさ」を持った「鳥」に。ところが、そのような魅力は「囚われの身になると」ともに「ことごとく失」われてしまう。
「ある夕方堤防の道をゆったりした足どりであゆんでいるのを私が見かけた鳥、どこからきたかわからない鷗のようなほかの少女たちの団結にとりかこまれていた鳥、あのアルベルチーヌも、ひとたび私のところで囚われの身になると、そのつばさの玉虫色をことごとく失う」(プルースト「失われた時を求めて8・P.298」ちくま文庫)
しかし、私物化されたために「大きな価値」を失くしてしまったアルベルチーヌではあっても、価値は変化しないものだろうか、と問うことはできる。そして実際考え直してみると、アルベルチーヌは「囚われの身にな」って価値下落を起こしたことでかえって変態可能性をまたもや示したわけであり、さらに彼女あるいは彼とも決定付けられないまま「水陸両棲」類に《なる》ことを証明してもいる。
「そんな彼女は、あるときは、あの海の環境から出てしまって、私の占有物となり大きな価値をもたなくなったアルベルチーヌであり、またあるときは、ふたたび元の環境にとびこみ、私からのがれて私の知りえないようなある過去のなかにはいってしまい、女の友であるあの婦人にくっついて、波しぶきかくるめく日ざしのように私の気分をわるくするアルベルチーヌであって、浜辺にもどされたり、私の部屋に帰ったりの、いわば水陸両棲の愛に生きるアルベルチーヌなのであった」(プルースト「失われた時を求めて8・P.300」ちくま文庫)
だからといって、事実上の蛙になるわけではない。両棲類への生成変化が問題なのであり、常に一元化を狙う国家装置からの《脱領土化=逃走線》として生きること〔速度化すること〕が大切なのだ。ここでいう速度は、速い場合もあれば遅い場合もある。とはいえ何も、何かを、はぐらかそうなどとしているわけではまったくない。他人の期待に添えなかったからといって一体どこの誰が刑罰を受けねばならないのか。むしろ問題なのは、蛙の子は蛙の子なのであり、蛙の子のまま生成変化(欲望のプロセス)するのであり、間違ってもオタマジャクシにはならないということでなくてはならない。
「ときとして、アルベルチーヌの目のなかに、また彼女の顔色の突然の紅潮のなかに、私は感じるのだった、一筋の灼熱の閃光のようなものが、私には空よりも近づきがたい地帯を、ちらっと走りすぎてゆくのを」(プルースト「失われた時を求めて8・P.682」ちくま文庫)
アルベルチーヌはもはや手の届かないところへ行く。手ではなく目である。ここでは目になることが大事だ。いずれにしても重要なのは身体だ。また、世論はどのようにして成り立っているかを知らないか知ろうとしなくても済まされている人々にとって、次の一節は痛切に響くかもしれない。
「なるほど私は、アルベルチーヌをひざにだきあげ、彼女の頭を両手でかかえることもできる、彼女を愛撫し、彼女のからだの上に両手を長くさまよわせることもできる、しかし、私が感じるのは、あたかも太古の大洋の塩分を含有する石かそれともまたある星の光線かをもてあそぶように、内部から無限のものに接している一個の存在のとじられた被膜に自分がふれているということでしかなかった。自然がわれわれを陥れたそんな立場になんと私は苦しんだことだろう、自然は忘れてしまったのだ、われわれ各自の肉体を分離させることを考えて、各自の魂の相互浸透を可能にすることを!そのようにして私は理解するのだった、アルベルチーヌは私にとっては(たとえ彼女の肉体は私の肉体の権力に屈していても、彼女の思考は私の思考の拘束から脱しているのだから)、すばらしいとりこでもなんでもなかったということを」(プルースト「失われた時を求めて8・P.683」ちくま文庫)
自分自身が思い込んでいたようではまったくなく、アルベルチーヌは「すばらしいとりこでもなんでもなかった」。所有不可能なのだという認識には達している。しかしそのような認識へ到達するまでにプルーストは途方もない時間をかけている。このことは決して馬鹿にできない。「各自の肉体を分離させることを考えて、各自の魂の相互浸透を可能にする」とある。プルーストはそう祈念することができた。プルーストが時として危険な小説家であるのは次のような場合だ。たとえば、厳格な掟に従って構造化されているブルジョアとプロレタリアの階級関係。もし両者(二人)の《あいだ》で「魂の相互浸透」が起きた場合を想定した読者が多くいたということ。さらにしばしば登場する「海」である。「海水浴」はとてつもない危険行為になる。場所は隔てられていたとしても海は繋がっている。「海水浴」している間、水の流通を介してブルジョアとプロレタリアの階級関係はまったく暴力的なまでに混在を余儀なくされている。両者はひどく絡み付き合ってしまうばかりでなく、両者の《あいだ》で「魂の相互浸透」が起きることはもはやすでに不可避的に考えられうる。
なお、リルケ「ドゥイノの悲歌」の中でも注目すべき第一・第二の部分が書かれたのは一九一二年。日本でいう明治四十五年・大正元年のこと。夏目漱石「彼岸過迄」連載開始。中国清朝滅亡。レナ虐殺事件。夕張炭鉱爆発事件(四月)。初代「通天閣」完成。乃木希典殉死。第一次バルカン戦争勃発。大杉栄「近代思想」刊行。夏目漱石「行人」連載開始。夕張炭鉱爆発事件(十二月)。
BGM
「そうすると、私は『命令』の何たるか、『規則』の何たるかを『規則性』によって説明しているのか。ーーーどのようにしてわたくしは他の人に『規則的』『同形』『同じ』ということの意味を説明するのか。ーーーたとえばフランス語しか話せないひとにはわたくしはこれらの語をそれに対応しているフランス語によって説明するだろう。しかし、そのような《概念》をまだもっていないひとには、わたくしはそのことばを《例》を介し、また《練習》を介して使うことを教えるだろう。ーーーそして、その際、わたくしはかれに自分自身の知っていること以上のことを伝えているわけではないのである。それゆえ、こうした授業にあっては、わたくしはかれに同じ色、同じ長さ、同じ形を示し、かれにそれらを発見させ、作り出させる等々のことをするであろう。たとえば連続模様を命令があれば<同様>に継続していくよう、指導するであろう。ーーーあるいはまた、級数を継続していくように。それゆえ、たとえば・ ・・ ・・・ とあれば、・・・・ ・・・・・ ・・・・・・ と続けていくように。わたくしがそれをあらかじめかれにやってみせ、かれがわたくしのあとでやってみる。そして、わたくしは同意や拒絶や期待や励ましの表現を通してかれに影響を与える。わたくしはかれにまかせたり、かれをひきとめたりする、等。あなたがそのような授業の証人であったと思え。そこではいかなる語もそれ自体を用いて説明されず、いかなる論理的循環も起らないとする。また『等々』とか『等々、無限に続く』とかの表現も、この授業の中で説明されるであろう。そのためにはまた、とりわけ身ぶりが役立つことがある。『同じように続けて!』とか、『等々』とかを意味する身ぶりには、ある対象やある場所を指示する機能に比較できるような機能がある。書きかたの省略である『等々』と、そうでない『等々』とは区別される。『等々、無限に続く』というのは、『けっして』書きかたの省略ではない。われわれがπのあらゆる桁数を書き出せないということは、数学者が時おり信じているような、人間の欠陥ではないのである。提示された諸例から離れないようにしている授業は、それらを<《越え出ていく》>授業から区別される」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・二〇八」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.165~166』大修館書店)
一定の文脈に従っている授業が「提示された諸例から離れないようにしている授業」、ということになる。ではそれらと区別される「それらを<《越え出ていく》>授業」とは一体どのような授業なのだろうか。それは授業と呼ばれるべきなのか。呼ばれるべきでないなら、それは授業ではないのか。だがそれにしても、授業が一定の文脈を《越え出ていく》とき、人々はそれを感知することができるのか。一定の文脈を《越え出てい》ると、なぜわかるのか。それともあるいは一定の文脈を《越え出てい》るとはわからない思考状態(思考の混乱)に陥ることで始めて、人々は、その授業について一定の文脈を《越え出てい》ると気づくのだろうか。おそらくそうだろう。しかし、《越え出ていく》とは、実際どのような状態なのか。
リルケに次のような詩がある。
「ちょうど張りつめた弦(げん)に堪えぬいた矢が力をあつめて飛びたつとき 矢《以上》のものとなるように。まことに定住はいずこにもないのだ」(リルケ「ドゥイノの悲歌・第一・P.11」岩波文庫)
ものはいつもそれ以上か以下かでしかない。動的な変容を免れることはできない。人間にとって「定住」もまた厳密には「ない」と言える。しかしリルケが言おうとしていることはもっと緻密で微細なことだ。
「もとよりただならぬことである 地上の宿(やど)りをはや捨てて、学び覚えたばかりの世の慣習(ならわし)をもはや行なうこともなく、バラの花、さてはその他の希望(のぞみ)多いさまざまの物に、人の世の未来の意義をあたえぬことは。かぎりなくこまやかな配慮の手にいたわられることも もはやなく、おのが名さえも こわれ玩具(おもちゃ)のように捨て去ることは。この世の望みを望みつづけることも絶え、たがいにかかわりあい結びあっていた一切が、木の葉のように飛び散って行くのを見ることは」(リルケ「ドゥイノの悲歌・第一・P.12~13」岩波文庫)
この部分には様々な事態が詰め込まれている。「学び覚えたばかりの世の慣習(ならわし)をもはや行なうこともなく」「おのが名さえも こわれ玩具(おもちゃ)のように捨て去る」「たがいにかかわりあい結びあっていた一切が、木の葉のように飛び散って行く」、とリルケはいう。個々の事態は様々なのだが一般的な言葉でいえば「統合失調症」の症状に典型的な自己解体感覚だということができるだろうと思う。それまで統一を保っていた精神と身体とがばらばらになっていく感覚。リルケの文章からはそのときの心細さがよく読み取れるかと思う。
「けれどわれわれ人間は、感ずれば気化し発散する。ああ、吐(は)く息とともに 消滅し無に帰するのだ」(リルケ「ドゥイノの悲歌・第二・P.16」岩波文庫)
「気化」する。あるいは「気化」するかのように「書く」ことは可能だろうか。
「恋するものたちよ、そのときおんみらはなおも永遠の持続を感知するおんみらで《あり》つづけるのか。おんみらがたがいの口へと 爪先(つまさ)き立ち、面(おもて)をあわせて一口(ひとくち)一口とすするとき ああ、いかにそのとき奇怪にも、すするものの存在はすするその行為から離脱(りだつ)してゆくことか」(リルケ「ドゥイノの悲歌・第二・P.20~21」岩波文庫)
「すするものの存在はすするその行為から離脱(りだつ)してゆく」と、リルケはいう。存在する身体は「すする」という「行為」そのものへ転化する。
「と突然、このたどたどしい『どこでもない場所』のなかに、突然、言いようのない地点があらわれる、そこでは純粋な寡少(かしょう)が 解(かい)しがたく変容してーーーあの空無の 夥多(かた)へと急変する」(リルケ「ドゥイノの悲歌・第五・P.44」岩波文庫)
これら「変容/急変」は、気づかないだけのことであって、人々はときどき「変容/急変」しないだろうか。しないとすれば本当にそうか。
「すべての眼で生きものたちは 開かれた世界を見ている。われわれ人間の眼だけが いわば反対の方向をさしている。そしいて罠(わな)として、生きものたちを、かれらの自由な出口を、十重二十重(とえはたえ)にかこんでいる。その出口のそとに《ある》ものをわれらは 動物のおももちから知るばかりだ、おさない子供でさえも わたしたちはこちら向きにさせて 形態の世界を見るように強(し)いる。動物の眼に あれほど深くたたえられた開かれた世界を見せようとはしない」(リルケ「ドゥイノの悲歌・第八・P.60」岩波文庫)
「おさない子供でさえも わたしたちはこちら向きにさせて 形態の世界を見るように強(し)いる」。形態の外について、「わたしたち」は一体何をそんなにも脅えているのだろうか、とリルケは問いかける。
「いつのとき、いかなる場合にも観(み)る者であるわれわれは、すべてのものに向きあっていて、けっしてひろいかなたに出ることはない! それらはわれわれをいっぱいに満たす。われわれはそれらを整理する。それらは崩れる。ふたたびわれわれは整理する、と、われわれ自身が崩れ去る」(リルケ「ドゥイノの悲歌・第八・P.65」岩波文庫)
リルケが「崩れる」というとき、何が崩れていくのか。要するに、規則・文法は絶対的なものではない、ときどき崩れ去っているのだと語りかけているのではなかろうか。リルケの態度は余りにおずおずとし過ぎている傾向があるものの、かといって言っていることはとても重要なことに違いない。
リルケの繊弱さとは裏腹にワイルドはもっと大胆で皮肉を効かせる。
「『人間というやつは、もっともひどい悪習を失った場合でも、後悔する。いや、もっともひどい悪習にたいしてこそ、もっとも烈しい後悔の念を禁じえないのかもしれない。それほどまでに悪習は人格の欠くべからざる一部となっているのだ』」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像・P.399」新潮文庫)
ヘンリー卿のせりふだが、ドリアンとヘンリー卿と画家との三人が織りなす同性愛関係はもうすでに明らかと言わねばならない。
さて、プルーストについてはまだまだ残っている。ドゥルーズ&ガタリから一節だけ引いておこう。
「ある種の女性は何でも洗いざらい話すし、語るにあたって高度の技巧をこらす。にもかかわらず、話が終わった時点で、話が始まる前よりも多くのことがわかるわけではないのだ。彼女たちは迅速さと透明性によってすべてを隠したのである。女性には秘密がない。自身が一個の秘密と化したからだ。このような女性は私たちよりも政治的だろうか?イピゲネイア。《先験的に無罪である》ーーーこれが、男性によって声高に叫ばれる『先験的に有罪である』という審判にあらがいつつ、少女が求めていることなのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.271」河出文庫)
プルーストから。ランダムに引き出してみよう。
「一体その二人のなかで、アルベルチーヌとアンドレとのけじめはどうなっていたのか?それを知るためには、あの小さな一団のあなたたちを不動化する必要があるだろう、あなたたちがたえず他者に移りかわるという期待をいつもあなたたちにもちつづけて生きることをやめる必要があるだろう、あなたたちを定着するためには、あなたたちを愛することをやめなくてはならないだろう、つねに面くらわせながらたえずつぎからつぎへとやってくるあなたたちをもう目にとめないことにしなくてはならないだろう、おお、乙女たちよ、おお、渦巻のなかにつぎつぎにさしこむ光線よ、その渦巻のなかで、われわれは、目もくらむ光の速度にあなたたちの姿をたちまち見失いながらいつまたその出現が見られるかと胸をどきどきさせるのだ。もしもわれわれをひきつけるセックスの力が、あなたたちのほうにわれわれを駆けよらせなかったら、そんな光の速度をわれわれは知らずに過ごすかもしれず、すべてはわれわれに不動化して見えることだろう、あなたたち、つねにわれわれの期待を越え、つねに同一の形をもたぬ黄金のしずくよ。一人の少女の姿は一回ごとに前回とは似ても似つかぬものになるので(その姿は、われわれがそれを認めたかと思うと、それまで自分がもちつづけた回想と、いま自分にひきだしつつある欲望とを、粉々にうちくだいてしまうので)、われわれがその少女にもたせようとしている性格の安定は、虚構でしかなく、言葉の便宜にすぎなくなる」(プルースト「失われた時を求めて8・P.105~106」ちくま文庫)
「一人の少女の姿」を「言語の便宜」によって固定しようとするが、それはいつも「虚構でしかなく」なる。むしろ「一人の少女の姿は一回ごとに前回とは似ても似つかぬものにな」り、「それまで自分がもちつづけた回想」《と》、「いま自分にひきだしつつある欲望」《と》「を、粉々にうちくだいてしまう」わけだが、「粉々に」《なる》そのあと、「粉々に」なったそれぞれのものとしてはもう変わってしまっている。変態を遂げて別のものへと変わっている。
「私は否定するわけではない、そんなばら色の光にかがやく少女たちにも、截然と区別される性格をわれわれがその各自に割りあてるであろう日がやってくることを。しかし性格がはっきりするということは彼女らがわれわれの興味をひかなくなってしまうからであり、彼女らの登場がかつてわれわれの心を転倒させたような出現ではもはやなくなるからであって、われわれの心はかつては彼女らの出現がいつも異なるさまを展開することを期待していたのであり、そのたびごとに新しい化肉に接してわれわれの心は転倒させられたのであった」(プルースト「失われた時を求めて8・P.108」ちくま文庫)
かつて「われわれの心は転倒させられた」わけだが、もはや個々の「性格がはっきりするということ」によって「われわれの興味をひかなくなってしまう」。なるほどそう言えるかもしれない。そしてそれはまた事実でもある。けれども、事実のすべてではまったくない。小説の結末でプルーストはあらゆる過去を、「失われた時を」取り戻したと確信している。しかしそれこそ実は記憶という言葉が誘惑して止まない「罠」と言うべきものではないのか。事実はどうか知らないが、問題になっているのは事実ではなく、結局は記憶の誘惑に屈してしまったラストの不毛性なのだ。逆にいえば、「失われた時を」取り戻さずに未完のまま一応、叙述し終えるということも可能ではあった。がプルーストはそうしていない。なぜだろう。プルーストはフロイトの誘惑に敗北したと言える。過去の手紙は常に宛名に届くか、という問題。常にそうだとラカンは述べた(「《盗まれた手紙》についてのゼミナール」)。精神分析は常に的に当たらなくてはならないという強迫観念がラカンにはある。また逆に、そうではなく、必ず宛名に届くとは限らない、どこかへ行方不明になってしまう可能性がいつもある、とデリダは述べた(東浩紀のいう「郵便的」)。そして「郵便的」である限りで、常に優勢且つ暴力的で大手スポンサーの操り人形でしかない世論に対する否定性を発信することが可能だった。ところが郵便的=誤配可能的であったはずの「手紙」は昨今危機に瀕している。メールにしてもネット上のほんのちょっとした「つぶやき」にしても、行方不明になるどころか、逆にその逃走線を突き止められて実際の訴訟(常に権力者の側が勝訴するようにできている訴訟)すら勃発するに至った。ネットはもはや管理社会の内部に組み込まれてしまったのだ。ネット空間でのささやかな抵抗として「郵便的」な形態が幾ばくかの否定性と地政を持った時代は終わった。
「とにかくわれわれの女の友人たちは、期待の目まぐるしいはやさのなかで、毎日、毎週、あまりにもちがった顔面をしてあらわれたので、そのとまらない疾走のあいだに、彼女らに分類を設けたりランクをつけたりすることはとうていわれわれには不可能だったのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・P.109」ちくま文庫)
そもそも少女は「ランク」をつけるという行為の暴力性を受け付けない。「期待」する側は同一物の復帰を望むのだろうが、少女というものはもともと、「毎日、毎週、あまりにもちがった顔面をしてあらわれ」つつ常に「とまらない疾走」として変身している、だけでなく、ますます変身していく。
「記憶のなかに貨幣の肖像のように変わらずに保存されているあの肖像、しかしそれをふたたび見出すとき、われわれはそれがいまの知人とは似ても似つかぬことにおどろく、われわれは習慣が日に日にどんな肉づけ工作をおこなったかを思い知らされる」(プルースト「失われた時を求めて8・P.111」ちくま文庫)
「習慣」による「肉づけ工作」とは何か。ニーチェが様々なところで批判している。参照してほしい。
次のセンテンスは比較的わかりやすいと思う。アルベルチーヌは「植物」に《なる》。描写もとりわけ単純だ。だからといって、いつでも単純であればよいというわけではないけれども。
「私がもどってくると、彼女は眠っていた、そして私がそばに立って見る彼女は、真正面になったとたんにいつもそうなったあのべつの女だった。しかしまたすぐその人が変ってしまったのは、私が彼女とならんでからだをのばし、彼女を横から見なおしたからであった。私は彼女の頭をかかえ、それをもちあげ、それを私の唇におしあて、彼女の両腕を私の首に巻きつけることができた。それでも彼女は眠りをつづけていて、あたかもとまっていない時計のようであり、どんな支柱をあてがってもその枝をのばしつづける蔓草か昼顔のようであった」(プルースト「失われた時を求めて8・P.191」ちくま文庫)
アルベルチーヌは次に、というより、ときどき「鳥」に《なる》。「玉虫色」の「つばさ」を持った「鳥」に。ところが、そのような魅力は「囚われの身になると」ともに「ことごとく失」われてしまう。
「ある夕方堤防の道をゆったりした足どりであゆんでいるのを私が見かけた鳥、どこからきたかわからない鷗のようなほかの少女たちの団結にとりかこまれていた鳥、あのアルベルチーヌも、ひとたび私のところで囚われの身になると、そのつばさの玉虫色をことごとく失う」(プルースト「失われた時を求めて8・P.298」ちくま文庫)
しかし、私物化されたために「大きな価値」を失くしてしまったアルベルチーヌではあっても、価値は変化しないものだろうか、と問うことはできる。そして実際考え直してみると、アルベルチーヌは「囚われの身にな」って価値下落を起こしたことでかえって変態可能性をまたもや示したわけであり、さらに彼女あるいは彼とも決定付けられないまま「水陸両棲」類に《なる》ことを証明してもいる。
「そんな彼女は、あるときは、あの海の環境から出てしまって、私の占有物となり大きな価値をもたなくなったアルベルチーヌであり、またあるときは、ふたたび元の環境にとびこみ、私からのがれて私の知りえないようなある過去のなかにはいってしまい、女の友であるあの婦人にくっついて、波しぶきかくるめく日ざしのように私の気分をわるくするアルベルチーヌであって、浜辺にもどされたり、私の部屋に帰ったりの、いわば水陸両棲の愛に生きるアルベルチーヌなのであった」(プルースト「失われた時を求めて8・P.300」ちくま文庫)
だからといって、事実上の蛙になるわけではない。両棲類への生成変化が問題なのであり、常に一元化を狙う国家装置からの《脱領土化=逃走線》として生きること〔速度化すること〕が大切なのだ。ここでいう速度は、速い場合もあれば遅い場合もある。とはいえ何も、何かを、はぐらかそうなどとしているわけではまったくない。他人の期待に添えなかったからといって一体どこの誰が刑罰を受けねばならないのか。むしろ問題なのは、蛙の子は蛙の子なのであり、蛙の子のまま生成変化(欲望のプロセス)するのであり、間違ってもオタマジャクシにはならないということでなくてはならない。
「ときとして、アルベルチーヌの目のなかに、また彼女の顔色の突然の紅潮のなかに、私は感じるのだった、一筋の灼熱の閃光のようなものが、私には空よりも近づきがたい地帯を、ちらっと走りすぎてゆくのを」(プルースト「失われた時を求めて8・P.682」ちくま文庫)
アルベルチーヌはもはや手の届かないところへ行く。手ではなく目である。ここでは目になることが大事だ。いずれにしても重要なのは身体だ。また、世論はどのようにして成り立っているかを知らないか知ろうとしなくても済まされている人々にとって、次の一節は痛切に響くかもしれない。
「なるほど私は、アルベルチーヌをひざにだきあげ、彼女の頭を両手でかかえることもできる、彼女を愛撫し、彼女のからだの上に両手を長くさまよわせることもできる、しかし、私が感じるのは、あたかも太古の大洋の塩分を含有する石かそれともまたある星の光線かをもてあそぶように、内部から無限のものに接している一個の存在のとじられた被膜に自分がふれているということでしかなかった。自然がわれわれを陥れたそんな立場になんと私は苦しんだことだろう、自然は忘れてしまったのだ、われわれ各自の肉体を分離させることを考えて、各自の魂の相互浸透を可能にすることを!そのようにして私は理解するのだった、アルベルチーヌは私にとっては(たとえ彼女の肉体は私の肉体の権力に屈していても、彼女の思考は私の思考の拘束から脱しているのだから)、すばらしいとりこでもなんでもなかったということを」(プルースト「失われた時を求めて8・P.683」ちくま文庫)
自分自身が思い込んでいたようではまったくなく、アルベルチーヌは「すばらしいとりこでもなんでもなかった」。所有不可能なのだという認識には達している。しかしそのような認識へ到達するまでにプルーストは途方もない時間をかけている。このことは決して馬鹿にできない。「各自の肉体を分離させることを考えて、各自の魂の相互浸透を可能にする」とある。プルーストはそう祈念することができた。プルーストが時として危険な小説家であるのは次のような場合だ。たとえば、厳格な掟に従って構造化されているブルジョアとプロレタリアの階級関係。もし両者(二人)の《あいだ》で「魂の相互浸透」が起きた場合を想定した読者が多くいたということ。さらにしばしば登場する「海」である。「海水浴」はとてつもない危険行為になる。場所は隔てられていたとしても海は繋がっている。「海水浴」している間、水の流通を介してブルジョアとプロレタリアの階級関係はまったく暴力的なまでに混在を余儀なくされている。両者はひどく絡み付き合ってしまうばかりでなく、両者の《あいだ》で「魂の相互浸透」が起きることはもはやすでに不可避的に考えられうる。
なお、リルケ「ドゥイノの悲歌」の中でも注目すべき第一・第二の部分が書かれたのは一九一二年。日本でいう明治四十五年・大正元年のこと。夏目漱石「彼岸過迄」連載開始。中国清朝滅亡。レナ虐殺事件。夕張炭鉱爆発事件(四月)。初代「通天閣」完成。乃木希典殉死。第一次バルカン戦争勃発。大杉栄「近代思想」刊行。夏目漱石「行人」連載開始。夕張炭鉱爆発事件(十二月)。
BGM