「霧」は時々いたずらをする。霧の中に包まれている間、人々は、霧の内部で急速に何が行われているかを知ることができない。人々が知ることができるのは、霧が去った後の世界でしかない。そして霧の後、内部はしばしば編集され書き換えられている。
「『霧という霧が我が存在の屋根の上に渦を巻く。ーーー長い波のように、重々しい海のうねりのように、彼は僕を乗り越えていった。彼の打ちひしぐような出現ーーー僕をむき出しに曳きずり、僕の魂は岸辺に小石を露わに横たえて。それは屈辱だった。僕は小石に変えられたのだ。あらゆる見かけの相似が巻きくるめられた。《君はバイロンじゃない。君は君自身さ》他人の手で契約されて単一な存在にされてしまうことーーーなんと奇体なことか』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.87」角川文庫)
という前に。「我が存在の屋根」とある。バーナードの「存在の屋根」とは何か。それはバーナードを一人の人間として周囲に認知させる機能を与えている文法機械だ。言語である。ハイデッガーは次のように述べた。もっとも、「屋根」ではなく「家」としているが。
「言葉は、存在の家である。言葉による住まいのうちに、人間は住むのである。思索する者たちと詩作する者たちが、この住まいの番人たちである。これらの者たちは、存在の開示性を、自分たちの発語によって、言葉へともたらし、言葉のうちで保存するわけであるから、そのかぎりにおいて、彼らの見張りは、存在の開示性を実らせ達成することである。思索は、そこからなんらかの結果が出てくるとか、あるいは思索が適用されるとかいうことによって初めて、行動になるのではない。思索は、みずからが思索することによって、行為しているのである」(ハイデッガー「『ヒューマニズム』について・P.18」ちくま学芸文庫)
後期ハイデッガーの「存在」概念は「存在と時間」で展開されたようにではなく次のように簡略化されてはいるが、特に大事な部分をわざと省略したわけではない。存在そのものを賭ける態度から存在の家である「言葉」へと重心を移した。
「存在そのものは、関わりである。というのも、次のかぎりにおいてである。すなわち、<それ>(存在)は、存在へと身を開き-そこへと出で立つあり方を、後者の実存論的な、つまり存在へと身を開きそこへと没入するような本質におけるありさまのまま、実は、存在みずからのもとに繋ぎとめ、また存在みずからのほうへと取り集めて、こうして右のあり方を、存在者のただなかにおける存在の真理の場面たらしめるからである。存在はみずから自身をこのような関わりとして送り届けてくるのだが、人間は、この関わりを、存在へと身を開きそこへと没入するありさまにおいて、耐え抜き、つまりは、気づかいつつ、この関わりを引き受け、こうした仕方において、人間は、存在へと身を開き-そこへと出で立つ者として、右の関わりのなかへと出で立つに至るのである。そうであるからこそ、人間は、さしあたりはまず、最も身近にあるものを見失ってしまい、最も身近にあるものよりは一段遠いものを頼りにするようになるのである。それどころか、人間は、後者こそが最も身近にあるものだとさえ、思い込んでしまう。けれども、そのように最も身近にあると思い込まれたものよりも、もっと身近にあるもの、それでいて同時に、通常の思索にとっては、それが考える最も遠いものよりももっと遠いところにあるもの、それが、近さそれ自身である。この近さそれ自身が、すなわち、存在の真理にほかならない」(ハイデッガー「『ヒューマニズム』について・P.61~62」ちくま学芸文庫)
さらに。
「もしも人間が、今後、存在の真理を思索することができるようになるとすれば、そのとき人間は、存在へと身を開き-そこへと出で立つあり方にもとづいて、思索するであろう。存在へと身を開き-そこへと出て立ちながら、人間は、存在の運命のなかに立つのである。人間のなす、存在へと身を開き-そこへと出で立つあり方は、存在へと身を開き-そこへと出で立つあり方として、歴史的である」(ハイデッガー「『ヒューマニズム』について・P.71」ちくま学芸文庫)
ハイデッガーによれば「人間のなす、存在へと身を開き-そこへと出で立つあり方」は「歴史的である」という。「存在と時間」でも中心的な概念として提出されていた「投企」的存在としての世界=内=存在の歴史性を踏まえている。与えられた世界の内へ現存在(自分)はすでに「投げ入れられ」ているのであり、その限りで現存在(自分)は常に「投企」として存在し、その事態を積極的に受け止めるほかないという意味。しかし「言葉」への重心移動は大きい。日本では今なお「言葉」への反省的考察が見られないという事情に比べれば大きな進歩だといえる。言葉そのものへの疑いという態度は、戦後、ニーチェ哲学と相まってフーコーやデリダといった果実として結実する。
ところでバーナードは「小石に」《なる》。ネヴィルの詩の力によって。しかし霧を発生させたのはネヴィルではない。ネヴィルから送られた詩をバーナードが読むことで始めてこの霧は出現するのだ。とはいえ、この変身は、技術的にはとても簡単だ。あちこちに小石が転がっている。バーナードと小石との関係は「見かけの相似」に過ぎない。ところが霧の中で詩的技術が作動する。「長い波のように、重々しい海のうねりのように」。ネヴィルは霧の中でただ単なる「詩的技術機械」と化しただけだ。霧はバーナードの屋根を覆い尽くした。バーナードは一種の特殊な言語形式である詩を読んだ。その瞬間、バーナードは霧の中でネヴィルの技術に巻き込まれたのだ。霧が晴れた。と、バーナードは単なる「小石」になっていた。
バーナードはネヴィルとの《あいだ》に介在する「さだかならぬ」空間を「横ぎり素晴らしい繊糸を長く引いて」いる「一筋の流れ」を実感する。
「『お互いの間に介在するさだかならぬ空間を横ぎり素晴らしい繊糸を長く引いて我々から紡ぎ出されていく、この一筋の流れを感じるなんて。彼は去った。僕はここに立って彼の詩を手にしている。我々の間にはこの一筋がある』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.87」角川文庫)
この「一筋の流れ」は言語によってもたらされたものである限りでは分節化されているが、終わりなき流れとしては純粋持続として流れ続けていく。
「不連続性は、それらが現れるとき背景となっているものの連続性から浮かび上がってくる。また、それらを引き離している間隔はその連続性のおかげで存在する。それらは、交響曲のところどころで鳴り響くティンパニのようなものである。われわれの注意がそれらに固定されるのは、それらが他の出来事よりも注意を惹くからである。しかしそれらの出来事はそれぞれ、われわれの心理学的存在全体の流動的な固まりによって運ばれている。それらは、われわれが感じ、考え、意志しているものを、つまりある一定の瞬間のわれわれのすべてを含む、動く帯の最も明るく照らし出された点でしかない。事実、この帯全体がわれわれの状態を構成するのである。さて、このように定義される状態ははっきり区別される要素ではないと言うことができる。それらは互いに連続し合い、終わりなき流れとなるのだ」(ベルクソン「創造的進化・P.19~20」ちくま学芸文庫)
次のセンテンスでバーナードは自分で自分自身を「多人格」として認める。
「彼等が僕に加わって、僕はバーナードだ。僕はバイロンだ。僕はこれであり、あれであり、かつ又他のものでもあるのだ。ーーー僕はもっと多人格なんだからね。友だちが、我々をその必要に応じさせたいと思う程には、我々は単純ではないのだ。だが愛情は単純だ」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.88」角川文庫)
バーナードは「これであり、あれであり、かつ又他のものでもあるーーー」。なぜそういうことができるのか。バーナードはいつも宙吊りである限りで、そういえる条件が整っている。バーナードはすでにそのような社会の中を生きている。
「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)
ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.118~120」国民文庫)
さらに注目しておきたい。「だが愛情は単純だ」とバーナードは述べる。読者は「愛情」の「単純さ」に、欲望の持続とその質的多様性とを目撃する。
「私たちが一連の鉄槌の打撃を聞くとき、それらの音は純粋感覚としての不可分のメロディーをかたちづくり、さらに私たちが動的な進行と呼んだものを引き起こす。しかし、私たちは同一の客観的原因が作用しているのを知っているので、この進行をいくつかの段階に切断し、しかもその際、それらを同一的なものと考える。そして、この同一的諸項の多様性はもはや空間における展開によるとしか考えられないので、私たちはやはりどうしても真の持続の記号的イメージである等質的時間という観念にたどり着いてしまう。一言で言えば、私たちの自我はその表面で外的世界に触れている。私たちの継起的諸感覚も、相互に溶け合ってはいるが、その原因の客観的性格をなしている相互的外在性をいくぶんかとどめている。それ故に、私たちの表面的な心理生活は等質的環境のなかで繰り広げられ、そうした表象の仕方をするのに大した努力は要らないのである。ところが、私たちが意識の深奥によりいっそう侵入していけばいくほど、この表象の記号的性格がだんだんと際立ってくる。つまり、内的自我、感じたり熱中したりする自我、熟慮したり決断したりする自我はその諸状態と変容が内的に相互浸透し合う力であるが、それらの状態を相互に分離して空間のなかで繰り拡げようとするや否や、深甚な変質を蒙るのである。だが、このより深い自我も他ならぬ表面的な自我と唯一つの同じ人格をつくりあげているのだから、必然的に同じ仕方で持続するように見える。そして、私たちの表面的な心的生活は、同じ客観的現象が繰り返されるのを常に表象しているために、相互に外在的な諸部分へと切断されるので、そのように限定された諸瞬間の方も今度は、私たちのよりいっそう人格的な意識状態の動的で不可分の進行のなかに切れ目を入れることになる。表面的自我の諸部分が等質的空間のなかに併置されることで物質的対象に確保されることになったこの相互的外在性が、こうして意識の深奥まで反響し、拡がっていく。少しづつ、私たちの諸感覚は、それらを生んだ外的原因と同じように、それぞれに分離の道をたどることになるのである。ーーー持続についての通常の考え方が純粋意識の領域への空間の漸次的侵入に基づくことをよく示しているのは、自我から等質的時間を知覚する能力を取り上げるためには、自我が調節器として使っている心的事実のより表面的な層を取り去れば十分だという事実である。夢は私たちをまさにこの状態に置くものである。というのは、眠りは身体組織の機能の働きを緩め、とりわけ自我と外的事物との交流の表面を変えるものだからである。その場合、私たちは持続を測るのではなく、感ずる。持続は量から質の状態へ戻るのだ。経過した時間の時間の数学的評価はもはやおこなわれず、混然たる本能に席を譲る。それは、あらゆる本能と同じように、ひどい間違いもするが、またときには並外れた確実さで事にあたることもある。目覚めた状態においてすら、日常の経験から、私たちは質としての持続と言わば物質化された時間とのあいだに違いがあることを知っているはずだ。前者は意識が直接に達するような持続、動物もたぶん知覚している持続である。後者は空間のなかでの展開によって量となった時間である。私がこの数行を書いているときに、隣の大時計が時刻を告げている。だが、私の耳は他に気をとられていて、すでにいくつか時を打つ音を聞いた後でしか、それに気づかない。だから、私はそれらを数えていたわけではない。それでも、注意を遡らせる努力をすれば、すでに鳴った四つの音を総計し、それらを現に聞いている音に付け加えることができる。もし自分自身に立ち返って、いましがた起こったことについて注意深く自問するなら、私は次のようなことに気づくだろう。最初の四つの音は私の耳を打ち、私の意識を動かしさえしたのだが、しかしそれらの音の一つ一つが生み出した諸感覚は、併置されずに、全体に或る固有の相を授けるような仕方で、一種の楽節をつくるような仕方で、互いのうちに溶け合っていたのだ、と。打たれた音の数を遡って推算するために、私はこの学説を思考によって再構成しようと試みた。想像力によって私は一つ、次いで二つ、次で三つと音を打った。そして、想像力が正確に四という数に到達しないかぎり、意見を求められた感性は、全体の効果が質的に異なると答えたことになる。してみると、感性は四つの音を自分の流儀で、しかも加算とはまったく別のやり方で確認していたわけであって、個々別々の項の併置のイメージを介入させてはいなかったのである。要するに、打たれた音の数は、質として知覚されるのであって、量としてではない。持続はこのように直接的意識に現れるのであり、そして拡がりから引き出された記号的表象に席を譲らないかぎり、その形態を保持するのである。ーーーしたがって、結論として、多様性の二つの形式、持続のまったく異なる二つの評価、意識的生活の二つの様相を区別することにしよう。注意深い心理学は、真の持続の延長的記号たる等質的持続の下に、その異質的な諸瞬間が相互に浸透し合う持続を見分ける。また、それは、意識的諸状態の数的多様性の下に質的多様性を、はっきり規定された諸状態にある自我の下に継起が融合と有機的一体化を含むような自我を、見分ける」(ベルクソン「時間と自由・P.150~154」岩波文庫)
「純粋持続とはまさに、互いに溶け合い、浸透し合い、明確な輪郭もなく、相互に外在化していく何の携行性もなく、数とは何の類縁性もないような質的変化の継起以外のものではありえないだろう。それはつまり、純粋な異質性であろう」(ベルクソン「時間と自由・P.126」岩波文庫)
「私たちの内部にある持続とは何か。数とは何の類似性ももたない質的多様性である」(ベルクソン「時間と自由・P.270」岩波文庫)
「それは、形成途上にある内的現象であり、その相互浸透によって自由な人間の連続的発展を構成するかぎりでの内的現象である。持続は、このようにその本然の純粋さに立ち戻ると、まったく質的な多様性、相互に融け合うようになる諸要素の絶対的異質性として現れてくるだろう」(ベルクソン「時間と自由・P.273」岩波文庫)
バーナードは行為者としてのネヴィルをおもう。
「『彼は火搔をひっつかみ、一打ち強く、燃えさかる石炭のあの一時の堅固さを壊してしまう。すべてが変化するのだ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.89」角川文庫)
変化が強調されているようにおもえる。「壊してしま」われる。としても、それは或る程度の「堅固さ」を持っている。しかしこの「堅固さ」はほんの「一時の」ものだ。「一時の堅固さ」とは何か。変化するにしても、一時はそう見えた固形物とは何だろうか。それはほんの瞬間的な「見え・眺め」としてそう映って見える物質の形態に過ぎない。だがそう見えている各瞬間はなるほど確かに物質的な切断面として、それぞれの各瞬間を瞬間的な形態として、持続的な流れの中に現われるのである。
「じぶんに影響を与える物質と、みずからが影響を与える物質のあいだに置かれていることで、私の身体は行動の一箇の中心である。すなわち、受容された印象が巧みにその経路をえらんで変形され、遂行される運動となるような場所である。私の身体があらわすものは、だからまさしく私の生成の現勢的な状態、じぶんの持続にあって形成の途上にあるものにほかならない。より一般的にいえば、生成のこの連続性ーーーこれがレアリテそのものなのだーーーにおいて、現在の瞬間は、まさに流れさってゆく流れのただなかで私たちの知覚がふるう、ほとんど一瞬の切断によって構成されるものであって、この切断面こそが、ほかならぬ物質的世界と呼ばれるものなのだ。私の身体は、その物質的世界の中心を占めているのである。身体は、この物質的世界の中で、それが流されるのを私たちが直接に感得するものである。かくて身体の現勢的な状態のうちに、私たちの現在の現在性が存している。物質は、それが空間中にひろがっているものであるかぎり、私たちの見るところでは、不断に再開される一箇の現在と定義されなければならない。逆にいえば、私たちの現在は、じぶんの存在にぞくする物質的なありかたそのものなのだ。いいかえれば、現在とは感覚と運動の総体であって、他のなにものでもない。しかもこの総体は、持続の各瞬間に対して決定され、各瞬間にとって唯一のものである」(ベルクソン「物質と記憶・P.276~277」岩波文庫)
複数の人間による「コーラス」の闖入。複数なのだがそれを聞いているバーナードには「一人の人間のように振舞っている」かとおもわれる。野蛮におもえる。「コーラス」は「岩を跳び越え残虐にも古い樹木に打ちかかる急流」に《なる》。「コーラス」は「オールにつなぎつけられて」いる。接続されている。あるいはそれ自体が接続機械でもある。というのは、「あらゆく区別が併呑され」、差異的=微分的なものが抹消されて一元化され、あたかも一人の巨人のように振る舞うからだ。巨人からすれば「陶器を壊」すことなどたやすい。このシーンで描かれる「コーラス」はまぎれもないファシズムだろう。
「『あの陽気なはしゃぎコーラスがやってくる。彼等は陶器を壊しているんだーーーそれが又しきたりなんだ。コーラスは、岩を跳び越え残虐にも古い樹木に打ちかかる急流のように、懸崖を踊り越えてまっさかさまに、素晴らしく奔放にふり注ぐ。逆巻き、馳けり続ける。猟犬を追い、フットボールを追って。彼等は粉袋のようにオールにつなぎつけられてポンプを上げ下げしている。あらゆく区別が併呑されーーー彼等は一人の人間のように振舞っている』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.89」角川文庫)
バーナードはふとルイスのことをおもう。事務に長けたルイスのことを。
「『彼は事務所に坐っている。学校でも一番よくできたルイスが。だが対照を求めている僕はしばしば我々にそそがれている彼の眼を、彼の笑っている眼を、野生的な眼を感じる。まるで我々を、彼が事務所でいつも追い求めているある総計の中の些細な内訳のように合計しているんだ。そしていつかは、立派なペンを取り、赤インクにそれを浸して、合算が完成するだろう』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.90」角川文庫)
ルイスは仲間たちのことを記号として取り扱う有能な事務職員だ。そして仲間たちは明細書の内訳の各項目に過ぎない。だがバーナードが悲観的にいうようにルイスの「合算」は本当に「完成するだろう」か。完成するともいえるし完成しないともいえる。バーナードたちは数字がものをいう世界に住んでいる。そのぶん、数値化できないものの多さに気づいてくる人々でもある。むしろ自分の身体の部分は、その一部分だけを切断させて他人の或る一部分と接続されており、この他人との接続のほうが逆に現実的であるような資本主義社会を生きている。部分機械として有効に作動する部分と部分との離接的総合のほうがいつも優位に立って働いており、その限りでようやく賃金労働者として認められるような社会。資本主義は人間を器用にするだけでなく、日々更新される様々な情報通信技術を用いて、資本増殖のための人間の整形手術くらいなら幾らでもこなしてしまう。人間の身体は見た目はなるほどそのままだ。けれども、資本機械の部分欲動としてはばらばらに解体され、何ものとも正体の知れない機械へと再構築・再生産され、それぞれの労働現場へ速やかに派遣される。それぞれは与えられた機械としてそれぞれ或る種の様態へ変化させられている。たとえば、或る種のパソコンに接続された目と手との合成物という様態。
ちなみに、俗世間の話題。いわゆる「働き方改革」。反論する人々は「働かされ方改革」だという。ベルクソンはとうの昔に「行動させられる」と言ってはいなかっただろうか。それは「自由」とは逆の行動だと。
「一方の自我は、他方の自我の外的投影のようなもので、その自我の空間的な、言わば社会的な表現だということになろう。私たちは深い反省によって第一の自我に到達し、この反省は、私たちの内的状態を、絶えず形成途上にある生き物として、測定には従おうとはせず、相互に浸透し合い、持続におけるその継起が等質的空間における併置とは何ら共通点をもたないような状態として、把握させるのである。しかし、私たちがこのように自分自身を捉え直すのは、稀であり、この故に、私たちが自由であるのは稀なのだ。たいていの場合、私たちは自分自身に外的に生きており、自我については、その色褪せた亡霊、純粋持続が空間のなかに投影する影にしか気づかない。したがって、私たちの生存は、時間におけるよりも、むしろ空間において繰り広げられる。私たちは私たちに対してよりは、むしろ外界に対して生きている。私たちは、考えるよりも、むしろ話す。私たちは自ら行動するよりも、むしろ『行動させられる』。自由に行動するということは、自己を取り戻すことであり、純粋持続のなかに身を置き直すことなのである」(ベルクソン「時間と自由・P.275~276」岩波文庫)
もちろん、ベルクソンの視野はもっと広い。「行動させられる」という言葉の中には様々な事柄が想定されている。労働だけではない。生き続けるよう「行動させられる」と受け取ることもできるし、逆に速く死ぬよう「行動させられる」と受け取ることもできる。起きるよう、寝るよう、食べるよう、子どもを作るよう、書くよう、黙るよう、激怒するよう、ーーー「行動させられる」。そこには何らの自由もない。では、自由な行為はどこにあるのか。ベルクソンは進化の過程でという条件つきでこう述べる。それは偶然性の創造的発明である。
「進化において偶然の占める部分は大きい。採用される、いやむしろ発明される形態は、たいてい偶然的である。原初にある傾向は、これこれの互いに補い合う傾向に分離し、それらは進化の分岐する線を創造する。この分離は、ある場所、ある瞬間に出会った傷害に相対的で、偶然的である。停止や後退は偶然的で、適応も、大部分が偶然的である。二つのことだけが必然的である。1、エネルギーを徐々に蓄積すること。2、可変的で決定しえない方向へエネルギーを放つ柔軟な水路を開くこと。これらの方向の果てに、自由な行為がある」(ベルクソン「創造的進化・P.324~325」ちくま学芸文庫)
また、諸様態への変化という観点からスピノザを参照しよう。
「《様態》とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの、と解する」(スピノザ「エチカ・第一部・定義五・P.37」岩波文庫)
さらに汎神論者としてのスピノザを考えるとき、グローバル資本主義社会での諸様態への変化ということは、種々の部分機械へ加工=変造された一つ一つの波あるいは震動であると考えなければ考えることも想像することもできないだろう。次のセンテンスにある「神」は、欲望する国家装置であり欲望する手形であり欲望する貿易でなくてはほとんど意味をなさない。「神」=「国家・資本」と化していることはもはや常識以前だろう。
「必然的にかつ無限に存在するすべての様態は、必然的に、神のある属性の絶対的本性から生起するか、それとも必然的にかつ無限に存在する一種の様態的変状に様態化したある属性から生起するかでなければならぬ」(スピノザ「エチカ・第一部・定理二三・P.68」岩波文庫)
乱立する諸様態。労働するにせよ疲弊するにせよ隠蔽するにせよ昼寝するにせよ、あるいはそれらを崩壊させるのも崩壊させないのも国家・資本の自由だ。したがって「働き方改革」は前提として次のように受け止めるのが妥当だろう。
「問題は、自由な自立性の理念は、そのつど固有な実存的存在-可能を、他者を解放するさいに《他者》に対しても与えうるものと主張する、そのことだけで、すでにみずからの射程を測りそこねているのではないか、ということである。その理念は傾向からして、自由な自立性という固有の理念の意味ではじめから他者を解放し、他者に自由を与えるけれども、その場合に他者が《そうした》自由を要求しているかどうかをまえもって問うことがない。しかしそのことを積極的に顧慮することが、たんに解-放されたのではなく現実に自由な共同相互存在にとって、第一義的な要求なのである。
他者に自由を与える解放は、だから、たんに総じて<私>と<きみ>の共通性を前提するだけではない。じぶん《自身》を顧慮して、他者をあらかじめ他《我》として規定もしている。解放は、他者を極端なかたちでじぶんのものとして要求し、他者自身に自由を《与える》ことで、まさにその根源的自由を他者から《奪いとる》。他者に特有な自由を他者に与えつつ奪い、解放はそのことで同時に、他者に対する自由な関係の可能性を自身から剥奪してしまうのだ」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.199~200」岩波文庫)
自由な働き方を上から与える(押し付ける)ことで資本は掟を与える債権者となり、自由な働き方を根底から与えられる(押し付けられる)ことで労働者は自動的に債務者となる。この逆説が日本経済をどのように変容させるのか。まだ誰も知らない。
BGM
「『霧という霧が我が存在の屋根の上に渦を巻く。ーーー長い波のように、重々しい海のうねりのように、彼は僕を乗り越えていった。彼の打ちひしぐような出現ーーー僕をむき出しに曳きずり、僕の魂は岸辺に小石を露わに横たえて。それは屈辱だった。僕は小石に変えられたのだ。あらゆる見かけの相似が巻きくるめられた。《君はバイロンじゃない。君は君自身さ》他人の手で契約されて単一な存在にされてしまうことーーーなんと奇体なことか』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.87」角川文庫)
という前に。「我が存在の屋根」とある。バーナードの「存在の屋根」とは何か。それはバーナードを一人の人間として周囲に認知させる機能を与えている文法機械だ。言語である。ハイデッガーは次のように述べた。もっとも、「屋根」ではなく「家」としているが。
「言葉は、存在の家である。言葉による住まいのうちに、人間は住むのである。思索する者たちと詩作する者たちが、この住まいの番人たちである。これらの者たちは、存在の開示性を、自分たちの発語によって、言葉へともたらし、言葉のうちで保存するわけであるから、そのかぎりにおいて、彼らの見張りは、存在の開示性を実らせ達成することである。思索は、そこからなんらかの結果が出てくるとか、あるいは思索が適用されるとかいうことによって初めて、行動になるのではない。思索は、みずからが思索することによって、行為しているのである」(ハイデッガー「『ヒューマニズム』について・P.18」ちくま学芸文庫)
後期ハイデッガーの「存在」概念は「存在と時間」で展開されたようにではなく次のように簡略化されてはいるが、特に大事な部分をわざと省略したわけではない。存在そのものを賭ける態度から存在の家である「言葉」へと重心を移した。
「存在そのものは、関わりである。というのも、次のかぎりにおいてである。すなわち、<それ>(存在)は、存在へと身を開き-そこへと出で立つあり方を、後者の実存論的な、つまり存在へと身を開きそこへと没入するような本質におけるありさまのまま、実は、存在みずからのもとに繋ぎとめ、また存在みずからのほうへと取り集めて、こうして右のあり方を、存在者のただなかにおける存在の真理の場面たらしめるからである。存在はみずから自身をこのような関わりとして送り届けてくるのだが、人間は、この関わりを、存在へと身を開きそこへと没入するありさまにおいて、耐え抜き、つまりは、気づかいつつ、この関わりを引き受け、こうした仕方において、人間は、存在へと身を開き-そこへと出で立つ者として、右の関わりのなかへと出で立つに至るのである。そうであるからこそ、人間は、さしあたりはまず、最も身近にあるものを見失ってしまい、最も身近にあるものよりは一段遠いものを頼りにするようになるのである。それどころか、人間は、後者こそが最も身近にあるものだとさえ、思い込んでしまう。けれども、そのように最も身近にあると思い込まれたものよりも、もっと身近にあるもの、それでいて同時に、通常の思索にとっては、それが考える最も遠いものよりももっと遠いところにあるもの、それが、近さそれ自身である。この近さそれ自身が、すなわち、存在の真理にほかならない」(ハイデッガー「『ヒューマニズム』について・P.61~62」ちくま学芸文庫)
さらに。
「もしも人間が、今後、存在の真理を思索することができるようになるとすれば、そのとき人間は、存在へと身を開き-そこへと出で立つあり方にもとづいて、思索するであろう。存在へと身を開き-そこへと出て立ちながら、人間は、存在の運命のなかに立つのである。人間のなす、存在へと身を開き-そこへと出で立つあり方は、存在へと身を開き-そこへと出で立つあり方として、歴史的である」(ハイデッガー「『ヒューマニズム』について・P.71」ちくま学芸文庫)
ハイデッガーによれば「人間のなす、存在へと身を開き-そこへと出で立つあり方」は「歴史的である」という。「存在と時間」でも中心的な概念として提出されていた「投企」的存在としての世界=内=存在の歴史性を踏まえている。与えられた世界の内へ現存在(自分)はすでに「投げ入れられ」ているのであり、その限りで現存在(自分)は常に「投企」として存在し、その事態を積極的に受け止めるほかないという意味。しかし「言葉」への重心移動は大きい。日本では今なお「言葉」への反省的考察が見られないという事情に比べれば大きな進歩だといえる。言葉そのものへの疑いという態度は、戦後、ニーチェ哲学と相まってフーコーやデリダといった果実として結実する。
ところでバーナードは「小石に」《なる》。ネヴィルの詩の力によって。しかし霧を発生させたのはネヴィルではない。ネヴィルから送られた詩をバーナードが読むことで始めてこの霧は出現するのだ。とはいえ、この変身は、技術的にはとても簡単だ。あちこちに小石が転がっている。バーナードと小石との関係は「見かけの相似」に過ぎない。ところが霧の中で詩的技術が作動する。「長い波のように、重々しい海のうねりのように」。ネヴィルは霧の中でただ単なる「詩的技術機械」と化しただけだ。霧はバーナードの屋根を覆い尽くした。バーナードは一種の特殊な言語形式である詩を読んだ。その瞬間、バーナードは霧の中でネヴィルの技術に巻き込まれたのだ。霧が晴れた。と、バーナードは単なる「小石」になっていた。
バーナードはネヴィルとの《あいだ》に介在する「さだかならぬ」空間を「横ぎり素晴らしい繊糸を長く引いて」いる「一筋の流れ」を実感する。
「『お互いの間に介在するさだかならぬ空間を横ぎり素晴らしい繊糸を長く引いて我々から紡ぎ出されていく、この一筋の流れを感じるなんて。彼は去った。僕はここに立って彼の詩を手にしている。我々の間にはこの一筋がある』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.87」角川文庫)
この「一筋の流れ」は言語によってもたらされたものである限りでは分節化されているが、終わりなき流れとしては純粋持続として流れ続けていく。
「不連続性は、それらが現れるとき背景となっているものの連続性から浮かび上がってくる。また、それらを引き離している間隔はその連続性のおかげで存在する。それらは、交響曲のところどころで鳴り響くティンパニのようなものである。われわれの注意がそれらに固定されるのは、それらが他の出来事よりも注意を惹くからである。しかしそれらの出来事はそれぞれ、われわれの心理学的存在全体の流動的な固まりによって運ばれている。それらは、われわれが感じ、考え、意志しているものを、つまりある一定の瞬間のわれわれのすべてを含む、動く帯の最も明るく照らし出された点でしかない。事実、この帯全体がわれわれの状態を構成するのである。さて、このように定義される状態ははっきり区別される要素ではないと言うことができる。それらは互いに連続し合い、終わりなき流れとなるのだ」(ベルクソン「創造的進化・P.19~20」ちくま学芸文庫)
次のセンテンスでバーナードは自分で自分自身を「多人格」として認める。
「彼等が僕に加わって、僕はバーナードだ。僕はバイロンだ。僕はこれであり、あれであり、かつ又他のものでもあるのだ。ーーー僕はもっと多人格なんだからね。友だちが、我々をその必要に応じさせたいと思う程には、我々は単純ではないのだ。だが愛情は単純だ」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.88」角川文庫)
バーナードは「これであり、あれであり、かつ又他のものでもあるーーー」。なぜそういうことができるのか。バーナードはいつも宙吊りである限りで、そういえる条件が整っている。バーナードはすでにそのような社会の中を生きている。
「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)
ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.118~120」国民文庫)
さらに注目しておきたい。「だが愛情は単純だ」とバーナードは述べる。読者は「愛情」の「単純さ」に、欲望の持続とその質的多様性とを目撃する。
「私たちが一連の鉄槌の打撃を聞くとき、それらの音は純粋感覚としての不可分のメロディーをかたちづくり、さらに私たちが動的な進行と呼んだものを引き起こす。しかし、私たちは同一の客観的原因が作用しているのを知っているので、この進行をいくつかの段階に切断し、しかもその際、それらを同一的なものと考える。そして、この同一的諸項の多様性はもはや空間における展開によるとしか考えられないので、私たちはやはりどうしても真の持続の記号的イメージである等質的時間という観念にたどり着いてしまう。一言で言えば、私たちの自我はその表面で外的世界に触れている。私たちの継起的諸感覚も、相互に溶け合ってはいるが、その原因の客観的性格をなしている相互的外在性をいくぶんかとどめている。それ故に、私たちの表面的な心理生活は等質的環境のなかで繰り広げられ、そうした表象の仕方をするのに大した努力は要らないのである。ところが、私たちが意識の深奥によりいっそう侵入していけばいくほど、この表象の記号的性格がだんだんと際立ってくる。つまり、内的自我、感じたり熱中したりする自我、熟慮したり決断したりする自我はその諸状態と変容が内的に相互浸透し合う力であるが、それらの状態を相互に分離して空間のなかで繰り拡げようとするや否や、深甚な変質を蒙るのである。だが、このより深い自我も他ならぬ表面的な自我と唯一つの同じ人格をつくりあげているのだから、必然的に同じ仕方で持続するように見える。そして、私たちの表面的な心的生活は、同じ客観的現象が繰り返されるのを常に表象しているために、相互に外在的な諸部分へと切断されるので、そのように限定された諸瞬間の方も今度は、私たちのよりいっそう人格的な意識状態の動的で不可分の進行のなかに切れ目を入れることになる。表面的自我の諸部分が等質的空間のなかに併置されることで物質的対象に確保されることになったこの相互的外在性が、こうして意識の深奥まで反響し、拡がっていく。少しづつ、私たちの諸感覚は、それらを生んだ外的原因と同じように、それぞれに分離の道をたどることになるのである。ーーー持続についての通常の考え方が純粋意識の領域への空間の漸次的侵入に基づくことをよく示しているのは、自我から等質的時間を知覚する能力を取り上げるためには、自我が調節器として使っている心的事実のより表面的な層を取り去れば十分だという事実である。夢は私たちをまさにこの状態に置くものである。というのは、眠りは身体組織の機能の働きを緩め、とりわけ自我と外的事物との交流の表面を変えるものだからである。その場合、私たちは持続を測るのではなく、感ずる。持続は量から質の状態へ戻るのだ。経過した時間の時間の数学的評価はもはやおこなわれず、混然たる本能に席を譲る。それは、あらゆる本能と同じように、ひどい間違いもするが、またときには並外れた確実さで事にあたることもある。目覚めた状態においてすら、日常の経験から、私たちは質としての持続と言わば物質化された時間とのあいだに違いがあることを知っているはずだ。前者は意識が直接に達するような持続、動物もたぶん知覚している持続である。後者は空間のなかでの展開によって量となった時間である。私がこの数行を書いているときに、隣の大時計が時刻を告げている。だが、私の耳は他に気をとられていて、すでにいくつか時を打つ音を聞いた後でしか、それに気づかない。だから、私はそれらを数えていたわけではない。それでも、注意を遡らせる努力をすれば、すでに鳴った四つの音を総計し、それらを現に聞いている音に付け加えることができる。もし自分自身に立ち返って、いましがた起こったことについて注意深く自問するなら、私は次のようなことに気づくだろう。最初の四つの音は私の耳を打ち、私の意識を動かしさえしたのだが、しかしそれらの音の一つ一つが生み出した諸感覚は、併置されずに、全体に或る固有の相を授けるような仕方で、一種の楽節をつくるような仕方で、互いのうちに溶け合っていたのだ、と。打たれた音の数を遡って推算するために、私はこの学説を思考によって再構成しようと試みた。想像力によって私は一つ、次いで二つ、次で三つと音を打った。そして、想像力が正確に四という数に到達しないかぎり、意見を求められた感性は、全体の効果が質的に異なると答えたことになる。してみると、感性は四つの音を自分の流儀で、しかも加算とはまったく別のやり方で確認していたわけであって、個々別々の項の併置のイメージを介入させてはいなかったのである。要するに、打たれた音の数は、質として知覚されるのであって、量としてではない。持続はこのように直接的意識に現れるのであり、そして拡がりから引き出された記号的表象に席を譲らないかぎり、その形態を保持するのである。ーーーしたがって、結論として、多様性の二つの形式、持続のまったく異なる二つの評価、意識的生活の二つの様相を区別することにしよう。注意深い心理学は、真の持続の延長的記号たる等質的持続の下に、その異質的な諸瞬間が相互に浸透し合う持続を見分ける。また、それは、意識的諸状態の数的多様性の下に質的多様性を、はっきり規定された諸状態にある自我の下に継起が融合と有機的一体化を含むような自我を、見分ける」(ベルクソン「時間と自由・P.150~154」岩波文庫)
「純粋持続とはまさに、互いに溶け合い、浸透し合い、明確な輪郭もなく、相互に外在化していく何の携行性もなく、数とは何の類縁性もないような質的変化の継起以外のものではありえないだろう。それはつまり、純粋な異質性であろう」(ベルクソン「時間と自由・P.126」岩波文庫)
「私たちの内部にある持続とは何か。数とは何の類似性ももたない質的多様性である」(ベルクソン「時間と自由・P.270」岩波文庫)
「それは、形成途上にある内的現象であり、その相互浸透によって自由な人間の連続的発展を構成するかぎりでの内的現象である。持続は、このようにその本然の純粋さに立ち戻ると、まったく質的な多様性、相互に融け合うようになる諸要素の絶対的異質性として現れてくるだろう」(ベルクソン「時間と自由・P.273」岩波文庫)
バーナードは行為者としてのネヴィルをおもう。
「『彼は火搔をひっつかみ、一打ち強く、燃えさかる石炭のあの一時の堅固さを壊してしまう。すべてが変化するのだ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.89」角川文庫)
変化が強調されているようにおもえる。「壊してしま」われる。としても、それは或る程度の「堅固さ」を持っている。しかしこの「堅固さ」はほんの「一時の」ものだ。「一時の堅固さ」とは何か。変化するにしても、一時はそう見えた固形物とは何だろうか。それはほんの瞬間的な「見え・眺め」としてそう映って見える物質の形態に過ぎない。だがそう見えている各瞬間はなるほど確かに物質的な切断面として、それぞれの各瞬間を瞬間的な形態として、持続的な流れの中に現われるのである。
「じぶんに影響を与える物質と、みずからが影響を与える物質のあいだに置かれていることで、私の身体は行動の一箇の中心である。すなわち、受容された印象が巧みにその経路をえらんで変形され、遂行される運動となるような場所である。私の身体があらわすものは、だからまさしく私の生成の現勢的な状態、じぶんの持続にあって形成の途上にあるものにほかならない。より一般的にいえば、生成のこの連続性ーーーこれがレアリテそのものなのだーーーにおいて、現在の瞬間は、まさに流れさってゆく流れのただなかで私たちの知覚がふるう、ほとんど一瞬の切断によって構成されるものであって、この切断面こそが、ほかならぬ物質的世界と呼ばれるものなのだ。私の身体は、その物質的世界の中心を占めているのである。身体は、この物質的世界の中で、それが流されるのを私たちが直接に感得するものである。かくて身体の現勢的な状態のうちに、私たちの現在の現在性が存している。物質は、それが空間中にひろがっているものであるかぎり、私たちの見るところでは、不断に再開される一箇の現在と定義されなければならない。逆にいえば、私たちの現在は、じぶんの存在にぞくする物質的なありかたそのものなのだ。いいかえれば、現在とは感覚と運動の総体であって、他のなにものでもない。しかもこの総体は、持続の各瞬間に対して決定され、各瞬間にとって唯一のものである」(ベルクソン「物質と記憶・P.276~277」岩波文庫)
複数の人間による「コーラス」の闖入。複数なのだがそれを聞いているバーナードには「一人の人間のように振舞っている」かとおもわれる。野蛮におもえる。「コーラス」は「岩を跳び越え残虐にも古い樹木に打ちかかる急流」に《なる》。「コーラス」は「オールにつなぎつけられて」いる。接続されている。あるいはそれ自体が接続機械でもある。というのは、「あらゆく区別が併呑され」、差異的=微分的なものが抹消されて一元化され、あたかも一人の巨人のように振る舞うからだ。巨人からすれば「陶器を壊」すことなどたやすい。このシーンで描かれる「コーラス」はまぎれもないファシズムだろう。
「『あの陽気なはしゃぎコーラスがやってくる。彼等は陶器を壊しているんだーーーそれが又しきたりなんだ。コーラスは、岩を跳び越え残虐にも古い樹木に打ちかかる急流のように、懸崖を踊り越えてまっさかさまに、素晴らしく奔放にふり注ぐ。逆巻き、馳けり続ける。猟犬を追い、フットボールを追って。彼等は粉袋のようにオールにつなぎつけられてポンプを上げ下げしている。あらゆく区別が併呑されーーー彼等は一人の人間のように振舞っている』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.89」角川文庫)
バーナードはふとルイスのことをおもう。事務に長けたルイスのことを。
「『彼は事務所に坐っている。学校でも一番よくできたルイスが。だが対照を求めている僕はしばしば我々にそそがれている彼の眼を、彼の笑っている眼を、野生的な眼を感じる。まるで我々を、彼が事務所でいつも追い求めているある総計の中の些細な内訳のように合計しているんだ。そしていつかは、立派なペンを取り、赤インクにそれを浸して、合算が完成するだろう』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.90」角川文庫)
ルイスは仲間たちのことを記号として取り扱う有能な事務職員だ。そして仲間たちは明細書の内訳の各項目に過ぎない。だがバーナードが悲観的にいうようにルイスの「合算」は本当に「完成するだろう」か。完成するともいえるし完成しないともいえる。バーナードたちは数字がものをいう世界に住んでいる。そのぶん、数値化できないものの多さに気づいてくる人々でもある。むしろ自分の身体の部分は、その一部分だけを切断させて他人の或る一部分と接続されており、この他人との接続のほうが逆に現実的であるような資本主義社会を生きている。部分機械として有効に作動する部分と部分との離接的総合のほうがいつも優位に立って働いており、その限りでようやく賃金労働者として認められるような社会。資本主義は人間を器用にするだけでなく、日々更新される様々な情報通信技術を用いて、資本増殖のための人間の整形手術くらいなら幾らでもこなしてしまう。人間の身体は見た目はなるほどそのままだ。けれども、資本機械の部分欲動としてはばらばらに解体され、何ものとも正体の知れない機械へと再構築・再生産され、それぞれの労働現場へ速やかに派遣される。それぞれは与えられた機械としてそれぞれ或る種の様態へ変化させられている。たとえば、或る種のパソコンに接続された目と手との合成物という様態。
ちなみに、俗世間の話題。いわゆる「働き方改革」。反論する人々は「働かされ方改革」だという。ベルクソンはとうの昔に「行動させられる」と言ってはいなかっただろうか。それは「自由」とは逆の行動だと。
「一方の自我は、他方の自我の外的投影のようなもので、その自我の空間的な、言わば社会的な表現だということになろう。私たちは深い反省によって第一の自我に到達し、この反省は、私たちの内的状態を、絶えず形成途上にある生き物として、測定には従おうとはせず、相互に浸透し合い、持続におけるその継起が等質的空間における併置とは何ら共通点をもたないような状態として、把握させるのである。しかし、私たちがこのように自分自身を捉え直すのは、稀であり、この故に、私たちが自由であるのは稀なのだ。たいていの場合、私たちは自分自身に外的に生きており、自我については、その色褪せた亡霊、純粋持続が空間のなかに投影する影にしか気づかない。したがって、私たちの生存は、時間におけるよりも、むしろ空間において繰り広げられる。私たちは私たちに対してよりは、むしろ外界に対して生きている。私たちは、考えるよりも、むしろ話す。私たちは自ら行動するよりも、むしろ『行動させられる』。自由に行動するということは、自己を取り戻すことであり、純粋持続のなかに身を置き直すことなのである」(ベルクソン「時間と自由・P.275~276」岩波文庫)
もちろん、ベルクソンの視野はもっと広い。「行動させられる」という言葉の中には様々な事柄が想定されている。労働だけではない。生き続けるよう「行動させられる」と受け取ることもできるし、逆に速く死ぬよう「行動させられる」と受け取ることもできる。起きるよう、寝るよう、食べるよう、子どもを作るよう、書くよう、黙るよう、激怒するよう、ーーー「行動させられる」。そこには何らの自由もない。では、自由な行為はどこにあるのか。ベルクソンは進化の過程でという条件つきでこう述べる。それは偶然性の創造的発明である。
「進化において偶然の占める部分は大きい。採用される、いやむしろ発明される形態は、たいてい偶然的である。原初にある傾向は、これこれの互いに補い合う傾向に分離し、それらは進化の分岐する線を創造する。この分離は、ある場所、ある瞬間に出会った傷害に相対的で、偶然的である。停止や後退は偶然的で、適応も、大部分が偶然的である。二つのことだけが必然的である。1、エネルギーを徐々に蓄積すること。2、可変的で決定しえない方向へエネルギーを放つ柔軟な水路を開くこと。これらの方向の果てに、自由な行為がある」(ベルクソン「創造的進化・P.324~325」ちくま学芸文庫)
また、諸様態への変化という観点からスピノザを参照しよう。
「《様態》とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの、と解する」(スピノザ「エチカ・第一部・定義五・P.37」岩波文庫)
さらに汎神論者としてのスピノザを考えるとき、グローバル資本主義社会での諸様態への変化ということは、種々の部分機械へ加工=変造された一つ一つの波あるいは震動であると考えなければ考えることも想像することもできないだろう。次のセンテンスにある「神」は、欲望する国家装置であり欲望する手形であり欲望する貿易でなくてはほとんど意味をなさない。「神」=「国家・資本」と化していることはもはや常識以前だろう。
「必然的にかつ無限に存在するすべての様態は、必然的に、神のある属性の絶対的本性から生起するか、それとも必然的にかつ無限に存在する一種の様態的変状に様態化したある属性から生起するかでなければならぬ」(スピノザ「エチカ・第一部・定理二三・P.68」岩波文庫)
乱立する諸様態。労働するにせよ疲弊するにせよ隠蔽するにせよ昼寝するにせよ、あるいはそれらを崩壊させるのも崩壊させないのも国家・資本の自由だ。したがって「働き方改革」は前提として次のように受け止めるのが妥当だろう。
「問題は、自由な自立性の理念は、そのつど固有な実存的存在-可能を、他者を解放するさいに《他者》に対しても与えうるものと主張する、そのことだけで、すでにみずからの射程を測りそこねているのではないか、ということである。その理念は傾向からして、自由な自立性という固有の理念の意味ではじめから他者を解放し、他者に自由を与えるけれども、その場合に他者が《そうした》自由を要求しているかどうかをまえもって問うことがない。しかしそのことを積極的に顧慮することが、たんに解-放されたのではなく現実に自由な共同相互存在にとって、第一義的な要求なのである。
他者に自由を与える解放は、だから、たんに総じて<私>と<きみ>の共通性を前提するだけではない。じぶん《自身》を顧慮して、他者をあらかじめ他《我》として規定もしている。解放は、他者を極端なかたちでじぶんのものとして要求し、他者自身に自由を《与える》ことで、まさにその根源的自由を他者から《奪いとる》。他者に特有な自由を他者に与えつつ奪い、解放はそのことで同時に、他者に対する自由な関係の可能性を自身から剥奪してしまうのだ」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.199~200」岩波文庫)
自由な働き方を上から与える(押し付ける)ことで資本は掟を与える債権者となり、自由な働き方を根底から与えられる(押し付けられる)ことで労働者は自動的に債務者となる。この逆説が日本経済をどのように変容させるのか。まだ誰も知らない。
BGM